第11話 約束を忘れた
時刻は午後十時を過ぎていた。
既に『クロノス』から帰宅していた一耶はテーブルの前に座り、最近女子高生を中心に人気の出てきたコンビの若手コメディアンのトークバラエティ番組を映すTVを、暇潰しがてら、つまらなそうに観ていた。
その視線の消失点が時折、壁の時計とテーブルの上の方へ移動を繰り返し、三角形の軌跡を作った。
テーブルの上には、豪華とは言い難いが、夕食と呼ぶにしては贅沢に飾られた料理が二人分、置かれていた。
どの品も、疾うに冷めていた。一耶はそれを見る度、軽く舌打ちをして苛立ちを募らせていた。
「……あのバカ助……どこで一体何やってンのよ……」
一耶はテーブルの上に頬杖を突き、溜め息混じりに愚痴た。
* * *
同時刻、そのバカ助は西麻布に居た。
西麻布交差点に近い所に新しく出来たばかりのバー『BULEーEARTH』のカウンターで、一哉はグラスに注がれた水割りを味わうように飲んでいた。
店内は、多くの着飾った若い男女が立ち飲みでグラスを交わしていた。
時折上げる甲高い品の無い笑い声が、水割りを味わっていた一哉には少し耳障りだった。
「煩いわね」
と、不満を洩らしたのは、一哉の隣席でカルアミルクを口にする美女だった。
河上今日子である。
一哉は今夜、彼女と会う約束をしていたのだ。
白のカシュクールカラーのシャツに赤のドレープ・ドレスを着こなしているのは、あと数週間で訪れるクリスマスを意識してのことか。
今日子が一哉を誘ったのだ。一哉は今日子がようやく損ねた機嫌を直して縁りを戻してくれたことは非常に嬉しかった。
一週間前、一哉は大学の帰り道で待ち伏せしていた今日子から、今夜のデートを誘われたのである。
知的な面と小悪魔の如く奔放な二面を持つ今日子を、一哉は痛く気に入っていた。
一哉が上京して付き合った女性の中で一番新しい彼女であり、プレイボーイの一哉をして『これが女か』と言わしめた唯一の存在である。上京するまで奥手だった一哉が、最初の彼女以来本気で惚れた女性であった。
つきあい始めて間もないのに、一哉は同棲まで思い詰めたのだが、その途端、変に今日子の態度がよそよそしくなってしまい、二人の関係がぎくしゃくしてしまったことがあった。
そんな一哉の様子に気付いて声を掛けて来たのが、あの市澤未来であった。
「永間。お前さん、彼女のどういう所が好きなのだ?」
気晴らしに寄り道して広尾を通った時、偶々入った喫茶店が『クロノス』だった。
店内のカウンターの中で、見覚えのある顔が憮然として黙々と食器を洗っているの見て、声を掛けたのが市澤との交遊の始まりである。
市澤としばらく世間話をしている内、少し浮かない顔をしている一哉に気付いた市澤から理由を訊かれ、思い切って相談した時に帰って来た言葉が先述のものであった。
「……まあ、いつも自由で掴み所が無く、油断していると不意に人を驚かしてくれる、ビックリ箱のような所……かな」
「ビックリ箱……か。
―開きっぱなしのビックリ箱で、人が驚かせられると思うか?」
市澤に問われ、一哉はぽかんとした顔を横に振った。
「そうだ。始めから、中身がどんなものか判ってしまえば驚くことは無い。
只のビックリ箱から、掛け替えの無い宝箱にするのが先だろう。中身の価値を知ってからでも遅くは無いと思うな」
(大切な物だから、その価値を良く吟味するべき、か)
気ばかり焦っている自分にようやく気付いた一哉は思わず失笑した。
良きアドバイスと良き友を一緒に得られた一哉は、そのお陰で今日子との関係を見直した。
すると、下手にべたべたした付き合いよりも、からっとした、友人のような付き合い方のほうがしっくり行くことにようやく気付くと、縒りをうまく戻すことが出来、以後順風満帆であった。
もっとも、一耶が現れた三ケ月前のあの日まで、であるが。
(……何故、こんなに苛立つんだろう?)
周りの騒がしい連中の声にあるのかと思っていたが、どうもそれは違うらしい、と一哉は気付き始めていた。
「なぁに、シケた顔してんのよぉ、一哉?」
少し酔いが回って頬をほのかに朱に染める今日子が、一哉の横顔を気遣うように覗き込んだ。
(……別に、今日子に飽きた訳じゃ無いだろうが、しかし……?)
一哉は、今日子とのよりが戻ることを待ち望んでいたハズなのに、今日子との会話に今イチ魅力を感じられない自分が不思議でならなかった。
一哉は苛立ちを紛らわせようと、手にするグラスを揺らした。
手に収まるグラスの中の氷に、背後の壁に掛けられている時計が琥珀色に染まって、縦に細長く映えていた。
時刻は午後十時十五分になっていた。
(……そういや、一耶と約束していたな)
一哉はまだ新しい記憶を思い出した。
(確か、早く帰って来い、……だっけな)
一哉は再びグラスを揺らす。カラン、と音を立てた氷に映えた時計は、琥珀色の波に飲まれて見えなくなった。
(まぁ……仕方ないな。折角、今日子がよりを戻してくれる、って言ってくれてるンだし)
「――ねぇ、一哉ぁ!聞いてんのぉ?」
今日子は呆然としている一哉の身体を揺らしながら、その耳元に大声で叱咤する。
上の空だった一哉は思わず驚いて飛び退きかけ、腰を少し上げた所で我に返った。
「わ、悪い! ちょっと、考えことをしていたんだ」
一哉は、少し不機嫌そうに見つめる今日子に苦笑いして詫びた。
「一体、何を考えていたのよ、一哉らしくないわねぇ……?」
今日子はまだ釈然とせず肩を竦めて訝った。
「他の皆んなも言っていたけど、本当一哉、変わったわねぇ。昔だったら、率先して他の客みたいにバカ騒ぎするほど陽気だったのに……」
「もう聞き飽きたよ、その疑問は」
一哉は苦笑してグラスを煽った。
「これでも少しは大人になったんだぜ」
「……バ~カ」
今日子もつられて破顔し、
「でも、クールな一哉も思ったより似合っているわよ。――市澤君に似てきたみたい」
「よせやい」
一哉は、苦笑しながら頭を振る。だが、嫌がっている様子は伺えなかった。
「そう言えば、ここしばらく大学でもあいつに会っていないが、今日子もそうかい?」
一哉に訊かれて、今日子はきょとんとするが、思い出したように頷いて、
「そうねぇ、ここしばらく、あたしも会っていないなぁ。――ねぇ、前から市澤君って、少し挙動が変な所があるわよね?」
「ああ」
一哉は笑みを解いた。
「確かに、前々から妙に胡散臭い処もあったが……まあ、悪人で無いことは間違いないな」
「あたし、前に噂で聞いたんだけど……」
「何を?」
「彼、実は警察の秘密捜査官じゃないか、って言う噂よ」
真顔で言う今日子に、一哉は思わず吹き出した。
「何よ~!?失礼ね~!」
「済まん、あんまり真剣そうに言うから、つい……」
一哉の態度に機嫌を損ねて頬を膨らませる今日子に、一哉は笑いながら謝った。
「しかし、すると何かい、大学生で喫茶店のマスターをやっているのは世を忍ぶ仮の姿で、実は007みたいなスーパーヒーローだと言うのか?
まさかあの店に来るお客の中に組織の人間がいて、『ナポレオンの切り札は?』とか言ったら、『ダイヤの15』、って答えると、カウンターの下に秘密基地みたいな所へ繋がる隠し通路が開く、なんて考えているんじゃないだろうな……?」
そこまで言って、突然、一哉の呆れ顔が悪寒を覚えて硬直した。
(……いや、あり得ンことではないな)
良く考えて見ると、一耶が現れて以来、市澤の挙動に色々不審な点が思い浮かぶ。
一般人なら間違いなく困惑してしまうあの状況下で、市澤だけが冷静を保っていたのは、余りにも不自然だった。
そして、夕方のロランの怪我。――
……今、貴方たちの与り知らない所で、思いも付かない『こと態』が起ころうとしているの。あたしと未来はそれに対処しようと奔走しているんだけど――
(十中八九、あのロランも市澤の不可解な挙動に一枚かんでいるのに間違いあるまい。
じゃあ、一体あの二人は何を――果たしてその『こと態』って……?)
「一哉!何、又考えことしてんのよぉ?」
一哉の疑念が深みにはまり掛けた所で、今日子の甲高い不機嫌な声が、一哉を現実に引き戻した。
「全く!こんなんじゃ、折角今日のようなメデタイ日を祝って上げる甲斐がないわよ!」
「へっ?」
今日子の言葉の意味を掴みあぐねる一哉は思わずぽかんとする。
今日子は、そんな一哉に困憊したような溜め息を洩らし、
「……呆れた。今日、何の日か忘れたの?」
刹那、一哉の瞳に映る今日子の顔に、夕方の一耶の顔が重なった。
「今日は、一哉の誕生日なのよ!」
「あっ……!?」
一哉はいきなり立ち上がる。
今日子の呆れ顔が視界に入っていない一哉は、ようやく重大なことに気付いたのだ。
早く帰って来てね。
「し、しまったぁっ!」
一哉は溜らず悲鳴を上げた。
その突然の行動に、今日子は飽気にとられた。
「どうしたの、いきなり……?」
「御免!約束を思い出したんだ!」
謝りながらも、一哉の視界には既に今日子は入っていなかった。
一哉はそそくさと傍らの背広掛けから自分のジャケットを奪い取るように外し、懐の財布から一万円を抜き取って今日子の席のカウンターの上に置くと、ジャケットを着ながら外へ駆け出したのであった。
「一哉!?いきなりどうしたって言うのよ?あたしを置いていく気!?――この、バカぁ!」
背後より聞こえる今日子の罵声は、しかし夕方の一耶との約束に秘められた重大な意味に気付いた今の一哉の耳には、全く届いていなかった。
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