第7話 魔人、来たる
一耶が一哉の世界に現れてから、二か月が過ぎた。
一耶は、元の世界では皇南学院大学の学生であるが、こちらの世界では当然ながら大学には通っていなかった。
男の『かずや』つまり一哉が存在するこちらの世界では、女の『かずや』は存在し得ない『存在』である為、毎日を喫茶店『クロノス』のウエイトレスとして過ごすしかなかった。
まだかつて経験したことも無い特異な環境故に、一耶は戸惑うことも多々あった。
だが、生来の適応力の高さが幸いし、最近はすっかり一哉の双子の妹として振る舞うことに慣れ、この世界での暮らしに余り違和感を抱かなくなっていた。
* * *
雲一つ無い蒼弓の下、街を行き交う人々の息が白く染まる冬の朝。
入口の扉に準備中の札を下げた喫茶店『クロノス』店内では、揃いのエプロン姿の一耶とロランが、カウンターやテーブルの上を拭いたり、食器皿を一枚一枚チェックしたりして、忙しく開店の準備をしていた。
そんな中、一昨日新品に変えたばかりの入口の扉のドアベルが、カラン、と軽やかに鳴る。
何がそんなに嬉しいのか、鼻唄をしながら珍しくうきうきとする一哉が、『クロノス』の扉を開けたのだ。
「済みません、まだ開店――あ、一哉か」
カウンターの中にいた一耶は慌てて笑顔で迎えるが、相手が一哉だと知るや、向けた面から愛想の色を瞬時に消し去った。
「……俺だからって、営業スマイルを崩すなよな。これでも一応、客だそ」
「何言ってンの。また、タダ飯食いに来たんでしょうが」
一耶は、意地悪そうに言って一哉にあかんべえをして見せた。図星を指された一哉は苦笑いするか否や、寸分違わぬあかんべえで応酬した。
「……あんたたちの仕草、端から見ていると、境目の無い合わせ鏡を見ているみたいで気味悪ぅ」
ロランはカウンターの上に頬杖し、複雑そうな顔をしてみせた。
二人の『かずや』は応えるように同時に苦笑いする。その寸分違わぬ仕草に、ロランもつられて破顔した。
「まあ良いわ。どうせ昨日の残り物で作るんだから。ロラン、良い?」
「どうぞ御勝手に。どうせ、この喫茶店は店主の粋狂で経営しているんだからね」
そう言うと、ロランは一耶に拝むように手を合わせ、
「……ついでに、あたしのも作って、ね?」
ロランに頭を下げられ、一耶は半ば呆れ気味に肩を竦めて見せる。
「ロラン。そんなんじゃ、良い奥さんになれないわよ」
「だって……あたし、料理苦手だし、それに未来の方が上手だし……」
ロランは両人差し指を突き合わせていじけてみせる。
そんなロランをみて、一耶は呆れたふうに肩をすくめ、
「容姿端麗、秀麗眉目、頭脳明晰の完璧超人なのに、どうしてそんなベタな弱点があるのよ……あんたは漫画か」
「い、いいじゃないっ。人間、どこからしら抜けた所がないと面白くないんだからっ」
日頃の才媛ぶりが嘘のように卑屈な叫び声を上げるロランであった。
「あー、もう半べそ掻きながら言わないの。……判ったわよ、作って上げるわね」
一耶は苦笑しながら、カウンター下の冷蔵庫を開けて中の物を探った。
「二人共、オムライスで良いかしら?」
「OK!――ところで、市澤の姿が見えんが?」
「ちょっと、昨日の夜から遠出しているの」
きょろきょろ店内を見回す一哉に、ロランが答えた。
「遠出?」
ふと一哉は、『クロノス』に入る前の記憶に、いつもなら店先に放置されている未来の愛車のバイク、YAMAHA・V-MAXが無かったことを思い出した。
「峠にツーリングにでも行ったの?」
「お仕事よ」
妙に素っ気なく言うロラン。
「多分、今夜辺り帰って来ると思うわ」
ふ~ん、と取り敢えず納得した一哉は、不意に漂った、一耶が作っているオムライスの香ばしさに気を取られ、それ以上聞こうとしなかった。
まもなく、バターを多めに、フライパンを大きく動かして空気をたっぷり取り込ませて作った、ふんわりとしたオムライスがカウンターに乗せられる。
同時に一哉はオムライスの皿に飛び付き、えらい勢いで頬張り始めた。
一耶は、異性の自分の食い意地の悪さに呆れ半分、どこか嬉しそうに微笑していた。
「凄い食いっぷり……見てるこっちがげっぷ出そう」
「意外といけるンだぜ、一耶の料理は」
食べる手を止めて呆れるロランに、木の実を頬張るリス宜しく、オムライスを頬張りながら嬉々として答える一哉は、一耶に水の催促をした。
一耶は間を置かず、まるで予想していたかのように、すでにコップに注いでいた烏龍茶を一哉に差し出した。
一哉はそれを当然のことのように掴み取り、口に残るオムライスを一気に胃に流し込んだ。
その光景を端で見ていたロランは、その余りにもピッタリと合った息に、飽気に取られていた。
「何か、無茶苦茶凄い光景。――同一人物というだけで、こんなに息が合うものかしら?」
「慣れ、ね」
一耶は肩を竦めてみせ、
「確かに同一人物だから、何が言いたいのか、何となく判ることもあるけど。ロランは市澤君とツーカーの仲じゃないの?」
言われて、何故かロランは頬を膨らませた。
「……悪うございましたね。生憎、あたしはあの一人奇人変人大集合が何を考えて行動しているのか、ゼェンゼン判りません」
「一耶、そいつは言いっこなしだぜ。市澤の心の中が読める奴なんか、この世には居ないさ」
「……じゃあ、あたしは一生あの人の心の中を知ることが出来ないという訳?」
なだめるつもりで言った一哉だが、却ってロランの機嫌を一層損ねる結果となった。
「ふ~~んだ!」
ロランは頬を目一杯膨らませて両腕で頬杖を突いた。
「二人してそうやって、ピッタリ息の合ったコンビでいなさいな。あーヤダヤダ、まるで夫婦みたいね」
「「なっ!?」」
二人の『かずや』は、今のロランのぼやきに反応して、嫌そうな顔をロランに向けた。
「「――ロラン! それ、言い過ぎ!」」
「……何、二人して向きになって言うの?」
ロランは意地悪そうに微笑み、
「人間、向きになるのは後ろめたいものを抱えている証拠よ。――まさか、実は、もう一人の自分に惚れている……なんてことだったりしてね?」
「そ……そんなこと……ある訳無いだろ!」
「そ……そうよ……だ、第一、性別は違っても同一人物なんですからね!」
狼狽しながら反論する二人は、やがて顔を見合わせ、「なぁ~」、と同時に頷き合う。
だが、余りにも息の合った動きだった為に、二人は刹那に赤面し、俯いて黙り込んでしまった。
「……あら、まぁ」
ロランは、二人の一糸乱れぬ息の合いように思わず瞠ってしまう。
赤面して妙にモジモジとする二人を見ている内、ふと、ロランの脳裏に奇妙な考えが閃いた。
「……まさか、貴方た――そんな、ねぇ……?」
二人に問い掛けようとするが、しかしロランはそれを思い止まった。
「……ふ~ん」
ロランはしたり顔で、まだ赤面している二人を見ていた。ロランが果たして何に気付いたのか、二人を見遣るその穏やかな笑みから窺うしか無いだろう。
「……一哉君。貴方、プレイボーイ、って言われてる割に、変に純情なところもあるのね?」
「変に純情で悪かったね」
一哉は不機嫌な顔をして、口の周りにつくケチャップを手の甲で拭った。
「だって、最近の貴方を見ていると、前みたいに矢鱈と色目使わなくなったし。
借りて来た猫とまでは言わないけど、本当、落ち着いたふうに見えるわ」
「おいおい、俺は元々こういう男なの」
「ふ~ん」
ロランはしたり顔を浮かべて頷き、
「あたし、てっきり、誰かさんの所為かと思ったんだけど……ねえ、一耶?」
「……もう」
ロランに意地悪そうに振られた一耶は困った顔をして俯き、無視するように手元にあったコップを布巾で拭き始めた。
コップの縁を一回り布巾で拭く、一耶はふと、あることを思い出して面を上げ、
「――あ、そうだ!ねぇ、一哉?」
「な、何だい、いきなり?」
一哉は、一耶に急に声を掛けられて、思わずビクッ、とする。
「確か今夜、用がある、って言ってたわね?」
「ああ。遅くはならないと思うが」
「じゃあ、何時位に帰って来れる?」
一耶は妙にうきうきと、機嫌良さそうな訊き方をする。
一哉はきょとんとした顔で、微笑む一耶の顔を見つめ、
「何か用でもあるのか?」
その言葉に、一耶の笑顔は見る見るうちに呆然の形に変わって行った。
「……呆れた。今日は何の――」
そこまで言って、一耶の呆れ顔が崩れた。
「クスッ。まあ、良いわ」
「何だよ、一人でニヤついて……?」
「良いから、良いから。お願だから、今夜は早く帰って来てね」
浮かれた口調で言う一耶に、一哉は蚊帳の外に置かれた思いで釈然としなかった。
一哉は困惑した顔で答を見出そうと小首を傾げるが、思うように答を見出すことは叶わないでいた。
そんな時、再び、店の扉のドアベルが不意を突くように鳴る。三人は一斉に扉の方を向いた。
「済みませ~ん、まだ準備中――?」
振り向きながら言うロランは、扉に立って居た人影を見た途端、言葉を詰まらせた。
闇が佇んでいた。
全身黒ずくめの男が、店の前の目抜き通りを絶え間なく走る車の流れを背に、三人の方をじっと黙ったまま見ていた。
闇を思わせる漆黒のインバネスを纏い、その肩のケープに端が溶け込んでいるのではないかと錯覚を覚えそうな、綺麗な長い黒髪を冠するその男には、唯一、闇に染まっていないところがあった。
闇夜の中、月光に照らされて白く浮かび上がる月下美人を想起させる白い美貌が、じっとロランたちの方を見詰めていた。
その顔を見て、一哉は背筋がぞっとした。
さながら、蛇に睨まれたカエルの如く、まるで何か、絶対的な恐怖が、心臓をわしづかみにされたような感覚に見舞われていた。
「……あ」
一耶も同じ感覚に見舞われていたらしい。青ざめた顔で言葉を無くしていたが、やがて身震いと共に我に返り、
「……す、済みませんが、まだ」
「良いのよ」
一耶を遮ったのはロランだった。
「あの人は特別だから」
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