第21話 創世(くにづく)り

「だろうな」


 歪む風景を見回す市澤は平然と頷く。まるでこうなることを、予め知っていたかのように。

 紫剣木はそんな市澤の態度に、ある疑念を咄嗟に抱いた。

 それしか、なかった。


「――貴様っ! まさか、あの『特異点』と同じ顔の男に入れ知恵でもしたのか!」

「そんな野暮なことはしない」


 澄まし顔で言う市澤に、紫剣木は怒りにわなないて市澤を睨み付けた。


「バカを言え! 『特異点』は『世界』を破壊する力を持つと同時に、既成の『世界』を自ら望んだ『世界』を変えることが出来る。――だが、その為には、『特異点』自身に強い精神的、肉体的なショックを必要とするのだぞ!」

「例えば、処女を『女』にする――とか、か?」

「……貴様!」


 歯噛みする紫剣木に、市澤は不敵に微笑んだ。


「今日子君の時は、お前が彼女に重傷を負わせたことに依るものだったな。

 俗っぽい話だが、今日子君が『処女』でなかったから、手荒な方法を選ばざるを得なかった。しかしそれでは発動を制御出来なかった為にあの世界は滅んでしまった。

 しかし僥倖にも、『特異点』の発動が、精神的、肉体的な強いショックを与えることがトリガーだと言うのが確認出来た。

 ……まあ、初めて会った時に妙に初心(うぶ)な所があったから、もしや……と思っていたが、まさか、こうも巧く行くとは思わなかったがな」

「おのれ……謀りおったかっ!」


 凄じい形相で市澤を睨む紫剣木の周りを、『瘴気』がうねりを上げて立ち上る。

 混沌と化した周囲の景色と見事にあったこの禍禍しさは、この美丈夫に相応しい色を成していた。


「たかが無能な人間ごときを庇って、良くも私の崇高な理想の成就を台無しにしてくれたな! 許さん!」

「『たかが無能な人間ごとき』――だと?」


 ぼそり、と市澤は呟いた。

 ――次の瞬間、先刻、紫剣木を見舞った凄じき殺気が再び辺り一杯に広がった。

 そしてひょうひょうとしていたその貌にも見る見るうちに怒相が広がって行く。

 前より一層鋭さを伴った壮絶な気迫に、紫剣木は無意識にたじろいでしまった。


「……〈探究者〉よ。貴様は二つ、大ことなことを忘れている」

 市澤の眼光が凄じい色を放ち、目前にいる漆黒の影の全身を嬲る。紫剣木はそれを見た瞬間、全身に氷の蛇が這いずり廻ったかのような悪寒に見舞われていた。

 そこに居るのは。修羅だった。


(な……何だ、この戦慄は……?)


 脂汗さえ額に滲ます紫剣木は、まさか己が恐怖にわなないているとは思いもしなかった。

 やがて紫剣木がそれを自覚した時、市澤は凄絶な貌を右掌で覆い隠した。

 間も無く右掌が降りると、その奥は芒洋としたものに戻っていた。


「……〈探究者〉よ。『世界』が一つだけではないことは知っていよう。

 人の生き方が決して二つとないように、同じ『世界』は無い。

 そして、『魂』が『時の流れ』を駆け抜ける数だけ存在していることを。

 二つとない道を駆ける『魂』は、たった一つでは果敢ない瞬きに過ぎないだろう。

 だがそれが束ねられ、一つのベクトルに向かうことで瞬きは煌めきとなり、まだ見えぬ闇すらも照らし出すことが出来るのだ。

 『魂』はその価値を知っているからこそ、他の『魂』を慈しみ、絆を求め合うことで『世界』、延ては『時の流れ』を支える力を生み出しているのだ。

 ――〈探究者〉、貴ようにあの二人が為し得たことの“価値”が判るか?

 否、判るまい!『世界』の源たる『魂』を慈しむことも出来ない蒙昧な存在に、たった一つでも『世界』を統べる資格など無い!」

「え、ええい! 黙れっ!」


 先に仕掛けたのは紫剣木だった。形振り構わず全パワーを消費して、限界まで溜めた『瘴気』を使った『瘴気弾』は、発射と同時に拡散して三百六十度全方向を撃ち抜いた。

 紫剣木を中心に、見る見るうちに混沌とする風景が漆黒の色に染まり、宙に舞う市澤の姿も飲み込まれて行った。


「はははっ! 幾ら光速の動きをもってしても逃げ場が無ければかわし切れまい!」


 紫剣木は勝利を確信した――そのハズだった。

 突如、市澤の周囲を駆け抜けた銀色の閃光が、彼に襲い掛かって来た全ての『瘴気弾』の進行を歪め、一発も命中しなかった現象は、紫剣木は直ぐには理解出来なかった。

 その銀色の閃光が消えた直後、突然微動だにしない市澤と自分の距離が僅かに縮まったことに気付いたた紫剣木は、今の現象に対する理由がようやく理解出来た。

 それは、先刻の巨大な『瘴気弾』にも全く無傷であった理由をも説明出来るものであった。


「――そうか! 空間を『断った』のかっ!」


 ようやく回答を得た紫剣木の驚嘆の声に呼応して、市澤は応えて見せた。

 無風状態にも拘らず靡く市澤の黒髪が、化学反応を起こしているかのようにすうっと銀色に染まって行く。

 そして、驚愕する漆黒の魔人を見据えるその瞳も、髪の毛と同じく銀色に染まっていたその余りの変貌ぶりに、紫剣木はしばし声を失くして飽気にとられていた。

 つい先まで辺りに立ち籠めていた殺気は、どういう理由か霧散して消え去っていた。

 その代わりに広がり始めた、目前に現れた銀色の超人がもたらす、とても不思議な気配は、無限の『世界』を見聞して来た紫剣木でさえ未知のものであった。


 神々しい。


 と、しか表現し切れなかった。それ以外の形容詞を思い浮かべても、俗で安っぽいものにしかならない。

 『神』に匹敵する力を備えた〈探究者〉を、有無を言わせず黙らせる気配は、やはりそれ以外有り得まい。


「……ま、周りの空間に次元断層を生じさせ元の空間と一時的に離れることで、断層を越えられない『瘴気弾』を防ぐことは可能だ……だが、光速の動きでは次元断層を生み出すことは出来ないハズ……それにその姿……一体……?」

「それ以上、貴様は知る必要が無い」


 まるで、月光の雫を集めて創り上げた玉同士が触れ合ったかのような玲瓏たる声が、銀色の超人の口から洩れ、紫剣木の鼓膜を心地よく震わせた。

 それが、冥府へ誘う囁きであっても、今の紫剣木には心を奪われずにはいられなかった。

 無限の『世界』を渡り歩いて見出した自らの理想が、今、そこに佇んでいるのだ。


「……そうなのか。それが貴さ――貴方の本当の姿……!」


 紫剣木は銀色の美影にすっかり魅了されていた。辛うじて働いた理性は、彼がいつも感情を殺していたのは、この姿を隠す為に全精神力を用いているからだと理解した。

 〈探究者〉の心をも奪ったこの姿、確かに普通の人間では正視することも敵わず、平常心を掻き乱されること、必至である。これ程の神々しい姿を隠し通す為に彼が用いる精神力は、想像を絶する凄じいものであろう。

 だが、紫剣木は知らなかった。――真の姿をさらけ出した今、彼の力は百パーセント使用可能だということに。

 果たして、真の姿を隠す為に力を抑制していた時でも〈探究者〉と互角に渡り合えていた事実に、フルパワー時の力が超絶したものであることは、想像するに難くない。


「――はっ!?」


 涙まで流し掛けていた紫剣木であったが、周囲の空間の歪み方が勢いを増して来たことに気付くと、夢から覚めたかのように、はっと我に返った。


「『世界』の変質が最終段階に入ったか! 時間も空間も混沌と化し、『世界』を構成する全てが白紙になろうとしているか!

 呑み込まれてしまう前に、ここから脱出を――」

「そうはさせぬ。お前はここで滅びよ」


 言うなり、銀色の超人は混沌の世界を突き抜け、紫剣木に迫って来る。


「バカな! 時間も空間も歪んでいる混沌の世界で、歪みに左右されずに真っ直ぐ私の許に移動出来るなんて!」


 歪みの僅かな透き間から次元転移を行おうとした紫剣木は、有り得ない移動を可能としたこの超人に戦慄した。

 そして、気付いた。


「――否、一つだけ有り得る! 伝説の大いなる存在のみが可能とすることから、そう呼ばれるようになった――」


 紫剣木は溢れる感動の涙を惜しまなかった。


「まだ〈探究者〉の誰一人として見極めたこと無い、光さえ超越した速度――『神速』を、この私は目撃しているのか!」


 銀色に煌めく市澤の動きの一つ一つが残像を生み、無数に増えたかのような錯覚を、紫剣木は感涙に咽びながら覚えていた。

 決して涙で像が振れている訳では無い。人間の持つ六感全てを動員しても、感じ取ることの出来ない未知の感覚に、全身の知覚器官が戸惑っているだけなのだ。

 無数に増える銀色の閃光が一筋に束ねられて自分の胸を打ち抜いた時、紫剣木は永い間忘れていた感覚を思い出した。


「――!? ――ごぼっ!!」


 市澤の『神速拳』は、紫剣木の丁度心臓に命中し、漆黒の闇を貫通する。その胸は空間ごと消失し、ぽっかりと穴が明いていた。

 そしてしばらくして、思い出したかのように背中から鮮血を吹き上げると、紫剣木はのけ反ってしまった。

 不死身を誇るその肉体は、鮮血を止まることなく吹き上げていた。


「……な……何だと……何故……傷が塞がらぬ……?」

「これが、貴様が忘れていたもう一つのことだ」

「な……何?」

「不死身の源はもう存在しない。――さよなら、だ」


 死に行く者への手向けの言葉が、混沌の中で静かに告げられた。

 紫剣木に不死身の加護を与えていた『世界』は、『特異点』の力の解放に依って代謝され、『瘴気』の放出出来なくなっていたからである。不死身の〈探究者〉紫剣木の、完全なる死は、ここに不動のものとなった。

 紫剣木の瞳から光が失せる。そして歪みに引かれるように、市澤の傍から離れて行った。

 歪む空間を漂う黒の骸はやがて歪みに呑み込まれ、闇よりも濃い漆黒のマーブルを成した。


「無限の旅の終焉……か」


 ぐるぐる回り始めた漆黒のマーブルを見つめ、気怠そうに呟いた市澤の瞳は、どこか哀しげであった。

 やがて市澤の身体も、無数の色の煌めきで混沌としている空間に飲み込まれ、うねりを上げる白色と化そうとしていた。


(迂闊なことをしたな! 『神速』によって代謝をはじめた世界から外れてしまった以上、もはや元の世界に戻ることは出来まい。――逃れる術は無い、共に歪みの中へ滅びろ! HAHAHAHA!!)


 市澤の耳に届いた今の呪詛は、果たして紫剣木のものか、それとも今まで銀色の超人に破れ去った者たちのものなのか。

 市澤は消滅を目前にして、それが運命だと割り切ってでもいるのか、その心は呪詛に惑わされることなくとても静かであった。

 意識が真っ白になったかと思った刹那、突然何の前触れも無く、『世界』の歪みに消失し掛けていた市澤の五感は、全て元に戻っていた。

 いつの間にか市澤は、『世界』の歪みの中でも何ことも無いように浮かんでいる、直径四メートル程の白い光球の中に実体を取り戻していた。

 覚えのある息遣いに市澤は振り向くと、そこには、球体の内壁に凭れ掛けるようにへたり込んでこちらを見ている、寝間着のままのロランの姿があった。

 まだ血色を取り戻し切れていない、白くたおやかな指先が抓んでいる黄金の閃きは、『世界』のカードであった。


「間一髪――って所かしら。体力が万全じゃ無いから、こんな狭い『疑似空間』しか出来なかったけど」

「二人っきりなら充分過ぎるくらいだ」


 市澤は破顔して応えた。

 ロランもつられて微笑むと、気怠そうに起き上がった。

 右手が上がった。

 それは、市澤に差し延べられたものでは無く、その神々しい貌の頬を平手打ちする為に。

 余りにも罪深いその音は、決して忌まわしくは聞こえず、ごく普通の、頬を手打ちした時のものと何ら変わりは無かった。


「――バカぁ! 何であんた、こんな無茶をするのよぉ!

 あんたの企んでいた紫剣木を斃せる唯一の方法を、あたしが気付かなかったら、あんたの身体、外の世界みたいにぐちゃぐちゃになって、そのまま時空の狭間に落ちて元の世界には戻れなかったのかもしれないのよぉ?!」


 堰を切ったように、ぶわっ、と溢れ出した涙で崩れたその顔は、やや戸惑い気味の神々しい美貌を、きっ、と睨み付けていた。

 市澤はそんなロランに、何も言い返せなかった。


「いつもそうなのよぉ、あんたって人わぁ! いつもいつも、自分一人で考え、相談無しに自分勝手に行動して――あたしはあんたのパートナーなのよ!

 こんな無茶するんだったら、一言、あたしにも打ち明けてくれたっていいじゃない!」


 ほとんどヒステリー状態のロランは市澤の胸に飛び込み、両拳でその胸板をぼこぼこ叩き始める。

 不死身の魔人を斃した超人でも、こうなっては流石に持て余す様であった。

 散々叩いた後、ようやくその連打が治まると、ロランはその胸に泣き崩れている顔を埋めた。


「……全く。あんたって人は、平気で他人の為に命を投げ出せるんだからぁ」


 胸元でぶつぶつ文句を言うロランに、市澤はよしよしと、わななくその背を右手で軽く叩いてなだめた。


「……未来ぃ、偶にはあたしのことも察して行動してよぉねぇ」

「はいはい」

「返ことが御座なりだぞぉ」

「はいはい」

「真面目に聞いているのかぁ」

「はいはい」


 既に黒髪黒瞳の不断の姿に戻って苦笑する市澤の返答は、いずれも同じように聞こえた。

 だが、返答を耳にする度、ロランはその違いに気付いているかのように、彼の胸に埋めている泣き顔は笑顔に変わって行った。

 やがて、二人の居る『疑似空間』の周りで歪み続けていた世界は歪むことを止め、元の夜の渋谷に戻っていた。

 ロランは、外の空間が安定するのと同時に『世界』のカードの力の解放を止め、『疑似空間』の壁を消して外の世界と同調した。

 市澤とロランが佇む渋谷の街並みは、夜の色が溶け込んで整然としていた。

 市澤と紫剣木の死闘に完膚なきまで破壊された跡なぞ、始めから無かったかのように、微塵も残されていない。


「……否、元の世界ではない。『特異点』が創世した『新世界』なのだ」

「この世界でそのことを知っているのはあたしたちと――」

「あの二人だけ、だ」


 立ち尽くす二人の横を通り過ぎる若者たちは時折、ぼろぼろの市澤と寝間着姿のロランに奇異の視線をくれつつ、友人と笑い合い語らいながら過ぎ去って行く。

 死闘でボロボロになった市澤のロング・コートだけが、あの死闘の唯一の名残りだった。


「……帰ろうか」

「……ええ」


 市澤はボロボロのコートを脱ぎ、ロランの肩に羽織らせると、その肩を抱いてゆっくりとJR渋谷駅方面に歩き出した。

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