第20話 渋谷事変(後編)

 黒い閃光が、道玄坂を渋谷駅方面へ走り抜けようとする一台のブルーバードに命中した

 ブルーバードは爆発することなく、しかし無ことには済まなかった。あろうことか、そのブルーバードは瞬く間に厚みを無くし、真上から撮影した写真のように、一枚の紙へと変化したのである。

 紙は空を切り、進行方向の途中で右往左往していた人々の首や胴体を刎ね飛ばした末、進行方向の真っ直ぐ先にある、数分前まで第一勧業銀行であった大量の砂の山に突き刺さった。

 その砂の山の向い側で、今度は渋谷109が大音響を上げて崩れ落ち、真夏の入道雲のように立ち上った粉塵の中へ、二つの影が瓦礫を追うようにして落ちて来た。

 粉塵は道玄坂のみならず、JR渋谷駅の反対側にまで達した。

 しかしその粉塵はたった今崩れた渋谷109の瓦礫だけで為したものでは無く、既に砂礫と化して崩れ落ちていた多くの建造物がもたらしたものである。

 砂の余りの量に多さに、渋谷駅周辺は砂漠と化し辛うじて崩壊を免れていた建物は、宛ら砂漠の中で風化して行くのを待つばかりの古代遺跡になってしまったかのような錯覚を、逃げ惑う人々に与えていた。

 渋谷は、銃火器一つ持たぬ、たった二人の素手の戦闘の為に、今や壊滅状態であった。

 余りの異常こと態に、現場から目と鼻の先にある渋谷警察署は直ぐ様警官隊を派遣し、こと態の鎮圧に乗り出していた。

 一つの『世界』を、自らの理想のものに変えようとする魔人、そしてそれを阻止せんとする超人の戦いに、超絶した力も術も持たぬ彼らが、その間に入って制止しようとする行為は、知らなかったとは言え、無謀であった。

 サイレンを鳴らして次々と現場に集結するパトカーの群れへ、粉塵の中から滲み出るように浮かび上がった紫剣木は、不愉快そうに一瞥をくれ、すかさず左掌を向けた。

 紫剣木の左掌から次々と発射された黒い閃光は、全てのパトカーに命中する。

 黒い閃光を受けたパトカーは瞬く間に厚みを無くして一枚の紙と化し、あっという間に警官隊は全滅してしまった。


「『次元変換』、か」


 道玄坂の上の方で、崩れ落ちる建物の下敷きになろうとしていた一組のカップルを救い出していた為に、紫剣木の警官隊への攻撃を制止出来なかった市澤は、坂の上からその惨状を望んで、口惜しそうに洩らして舌打ちした。

 『次元変換』とは、ある次元に存在する物体を、異なった次元の物体に転換させる術である。

 それは、三次元にある物体を二次元の物体へ変換するよう――即ち、紫剣木の放った黒い閃光は、三次元の物体である警官隊のパトカーを、二次元、つまり厚みが存在しない平面世界の物体へ転換したのである。

 だが、物体を異なった次元の物体に変えることは、そう容易いことではない。

 手段が、では無く、結果が、である。

 三次元にある物体を構成する素粒子の、高さを占める素粒子を反物質をもって減少させることで、厚みを消した平面の物体に変えることが可能であった。

 ただし、元々三次元に在った物体は、三次元にしか存在出来ないように素粒子が構成されている為、もし三次元の生命体が違う次元の物体に変換された場合、その次元では身動きは疎か、生存することは不可能なのである。

 センター街の外れで若者たちがぺしゃんこになって絶命したように、パトカーに乗っていた警官隊も例外は無かった。良く見ればパトカーだったその紙切れのフロントガラスに当たる所は皆、紅く染まっていた。


「……ちぃ!」


 市澤は助けたカップルを逃がすと、紫剣木に向かって飛び掛かった。

 飛び掛かる市澤に気付いた紫剣木は、すかさず両掌を向ける。

 黒い閃光が襲い掛かる寸前、市澤は、いつの間にか手に握っていた、拳大のコンクリート片を紫剣木目掛けて投げ付けた。

 紫剣木の両掌から放たれた、三次元の物体を平面体に変えてしまう魔光は、超絶技をもって挑んで来る超人の身体を紙に変えるハズが、彼の目前の虚空を先導するように飛んでいた物体を灰色の線へ変えるのみに留まった。

 次元の変換を可能とする『瘴気』の光が、実は、最初に触れた物体の素粒子だけを減少すると言う、意外に脆い弱点を彼が知っていたことに、紫剣木は思わず瞠った。

 大体、どこからそんな石くれを出したのだ?――と考える紫剣木の胸を、灰色の水平線が通過し、胸より上だけが背後に倒れるように剥れ落ち掛ける。

 そこへ後を追うように市澤が放った、天から地へと振り下ろした閃光の手刀が駛り抜け、佇む黒い影は分断した

 十字に分断されたハズの紫剣木の身体は、しかし瞬時に、傷一つ無い元の身体に戻っていた。

 結果を知っていた市澤は、紫剣木の反撃を恐れ、既に背後へ飛び退いていた。


「無駄だ。見ての通り、直ぐに元に戻る。――気付いておろう? 前より短時間で、な」

「『瘴気』が蔓延している所為か……!」


 市澤は口惜しそうに辺りを見回す。炎と粉塵の中で、多くの人々の苦悶と怨嗟の声が辺り一杯に広がっていた。


「私と闘えば闘う程、この私の力を強めるだけだ。君の行っていることは只の徒労なんだよ」

「喧しい」


 苦々しく言い返す市澤であったが、覇気は余り感じられない。あらゆる攻撃が無効になる不死身の人間相手に闘いを挑むことは、まさに徒労に他ならなかった。

 しかし、紫剣木は気を緩めていなかった。

 常に市澤の一挙一動を警戒し、出来るだけ攻撃を受け止めずにかわしていた。

 獅子は、たとえ兎を捕まえるにしても全力を惜しまないと言われている。無敵の不死身である紫剣木は、市澤に窮鼠の気迫を覚えていた。


(これ程の男が、何の勝算も無しに、やけくそになって無駄な闘いを挑んで来るものか。――だが、どうやって?)


 紫剣木は、無限の『世界』を巡り歩いて、ようやく手に入れた不死の能力は絶対無敵と信じていた。

 無限に、瞬時に再生するこの能力を破る術は、〈探究者〉の紫剣木でも知らなかった。だからこそ無敵だと信じていた。

 なのに、この市澤という若者は自分に闘いを挑んで来る。

 しかも、只の若者ではない。

 『時次元』の調和を守る超法規組織の一員で、光速移動という凄じい能力を持った超人なのだ。


(先刻の『次元変換』を打ち破ったことといい――何より、無限の世界を闘い抜いて来たこの〈探究者〉と互角に渡り合うとは)


 いつしか紫剣木は、市澤も自分と同じ種類の人間ではないのか、と思い始めていた。

 少し考えた末、市澤と無言で対峙していた紫剣木は、彼に向けていた両手を降ろした。


「……そうだな。止めよう。これ以上争っても無駄だ」


 紫剣木の疲れ切ったような口調に、市澤は思わず戸惑った。

 紫剣木は顎をしゃくって市澤に辺りを見るよう促し、


「我々が闘い合った為に、この街はこの通り壊滅してしまった。

 このまま闘い続ければ、今度は、この街のある国が全て砂漠と化すやも知れぬ。――そう、あの『世界』のように」


 市澤は、紫剣木が終わりに言った『世界』と言う言葉に反応する。

 眉をひそめたその顔は、とても辛そうであった。


「私はこの『世界』を、無限の旅の終焉の地にしようと思っている。これ以上の破壊は、私にも君にも不利益なことに過ぎん。

 この私と手を組め、市澤未来」

「懐柔策に出るとは思わなかった。――断る」

「一時の感情に惑わされるな、力持てる者よ。

 我々ほどの能力者たちが、無能な者どもの為に無駄な力を奮う必要が、果たしてあると思うのか?」


 口調に少しずつ熱の籠って来た紫剣木の問い掛けに、しかし市澤は無表情で、何も応えようとはしなかった。


「私は無限の旅の中で、様々な知恵と技術を得て来た。いずれも、並の人間の手には余る力を、この私は体得しているのだ。

 その力が奮われることなく、只、持て余していることは、私にはとても耐え難いのだ――」


 そこまで言うと、紫剣木は右腕を噴き上げるかのように振り上げ、背後で広がる砂漠に沈み行く街並みを指した。


「見たまえ! 我々は凡人が持て余す破壊兵器を使わず、己が持つ力のみで、世界をここまで出来るのだぞ!

 そんな我らが、凡人どもの為に働くことは無い! 凡人こそ、我らに畏怖し我らの為に働くべきなのだ!

 我ら能力者こそ凡人を支配する為に選ばれた者たちであることを、君は一度足りとも思ったことは無いのか?」


 市澤に向けられた紫剣木の熱弁は、まるで熱愛に奮い立った男が、愛しき女に向けられた求愛の告白に似ていた。

 確かに、これ程の情熱を持った求愛ならば、心動かされるであろう。

 市澤は全く反応しなかった。

 否、一か所だけ、紫剣木を見つめる眼差しに変化があった。

 ただし、その一対の瞳に、感動に潤む気配は全く無い。

 市澤を見る紫剣木の全身を、凄じい凍気が奔り抜けた。

 まだかつて経験の無い、壮絶な殺意が、〈探究者〉を見舞った。

 余りにも激しいものだった為に、紫剣木は無意識に後退りし掛けた。――不死身と言う無敵の力を持った〈探究者〉が恐怖するとは!


「……『神』にでもなったつもりか、貴様?」


 市澤の声がややトーンダウンしていた。相変わらず無表情であったが、怒りだけははっきりとしている。

 怯んでいた紫剣木は何とか気をとり直し、


「……『神』とは少々俗物過ぎるが……一つの『世界』を治めるならば、凡人どもからはそう言われるだろう。

 この無限に広がる時次元には、『神』と謳われる能力者たちが存在していると聞く。

 私自身、まだ巡り逢っていないが、しかし決して少なくないだろう。

 噂では、その一人は、銀色に包まれた身体を持つ美貌の主らしいが、君は逢ったことがあるか?」

「さあな」


 市澤は険しい顔を横に振った。


「『時次元管理局』でも彼らを把握しきれていないか。流石は『神』と謳われる者、『時次元』最強の法規と恐れられている『時次元管理局』でも足下に及ばぬらしい」


 紫剣木は、まるで無二の親友を称えるかのように満足げに微笑み、


「きっと彼は、その大いなる力を駆使して、一つの『世界』を治めているに違いない。

 〈探究者〉として、否、この『時次元』に生を受けた者として、そのような存在になることは至高の理想と言えよう。

 ひとつの『世界』の覇王となる。それが私の望みなのだ」


「やはり、か」


 と、聞こえるか聞こえないか囁くような声で、市澤は洩らした。

 そして、次に口にした言葉は、今度は紫剣木にもはっきり聞こえた。


「……心底ゲスだな、手前ぇは」


 今までの、冷淡だか慇懃な口調からは想像もつかない――否、歯に衣着せていたことは何となく感じてはいたのだが、こうまで乱暴に変わるとは。

 しかし、多重人格のような極端な変化では無かった。

 貌は相変わらず無表情で、冷淡さはそのまま。むしろ口調がようやく態度と一致したと言った方が適切である。

 だが何故、市澤は自分の感情を殺すような真似をしていたのであろうか。流石の〈探究者〉にも計り知れず、しばし声を失くしていた。

 市澤は、踏み締めるように一歩前に出て、


「無限の旅の果てに得たものが、俗な権力願望だとはな。――バカじゃねぇのか?」

「……バ……カ……?」


 市澤の豹変に、紫剣木は絶句してしまった。慇懃な男だとは思っていたが、こうも極端に、乱暴な口調をするとは思いもしなかった。

 市澤はそんな紫剣木を見て鼻で笑い、


「だってそうじゃないか?――力に依る支配が、永劫に続いた試しは無い。

 力に依って始まった支配は、常に力に依って滅んでいる事実は、遥か過去から不変だろうが。

 無限の『世界』を見聞して来た手前ぇが、そんなことも理解していないとは、お笑いグサだな!」

「……き……貴様ぁ!」


 侮辱された紫剣木は、怒りの炎を燃やし始めた。


「やはり貴様とは、相容れんな! この街共々消滅させてくれるわ!」

「ははっ、出来るもんならやってみな!」

「吐かせっ!」


 紫剣木は漆黒の空に翔ぶ。

 頂点を際限なく物凄い勢いで昇り詰めるその影に、落下する気配は全く無い。空中浮遊も体得していたらしく、渋谷の上空およそ五百メートル程の闇の中まで翔んだ所で、その飛影は静止した。

 翔び上がりながらも、怒りに奮えるその一対の眼差しは、常に地面の方、センター街に残された一人の美丈夫を見据えていた。

 市澤もその目で、暗天へ翔んでいく魔人の姿を目で追い続けたまま、その場から動こうとはしないでいた。

 並の人間なら、街灯で明るい街中から、真夜中の上空五百メートルに浮かぶ漆黒の飛影なぞ、とても見分けることは不可能である。

 なのに彼の瞳には、上空で風に靡いている黒地のインバネスの裾の動きさえ見えていた。

 紫剣木は静止するや、地上の灯りに向かって、両掌を突き出すように翳す。

 すると、両掌の中心に、滲み出るように黒い光が灯り、凄じい勢いで大きく広がった。黒い光の正体が『瘴気』であることは判るが、直径百メートルもある巨大な『瘴気弾』をその両手の先に灯しそれで、何を行おうとするのか。


「『瘴気』をより精練すれば、代謝エネルギーのみならず、あらゆる物質を対消滅させる反物質となる。――くたばれっ!」


 紫剣木は、巨大な『瘴気弾』を地上目掛けて落とした。

 遠くから望めば、線香花火の火玉が千切れ落ちていくような飽気無さを感じるかも知れないが、まだ渋谷の街を逃げ惑っていた人々の目には、それがまるで空が落ちて来たような錯覚と――圧倒的な恐怖心が広がっていた。

 闇天が、渋谷の街に堕ちた。

 百メートルもある巨大な黒い光の玉が、ずずずっ、と地面に吸い込まれて行くと、街一杯に広がっていた砂漠は粉塵を撒き上げ、辛うじて原形を留めていた建物と共に、黒い光球の中へ溶け込んで行く。

 上空から落ちて来た膨大な量の反物質の巨球は、渋谷と呼ばれている地域にある全ての物質と対消滅を起こし、反応の終えた後、その地に直径八百メートルもある巨大なクレーターが現れた。

 無論、クレーター化するのを免れた周辺の建造物も、衝撃波によって完膚なきまでに粉砕されている。

 JR渋谷駅が在った地点を中心に、半径一キロは一瞬にして壊滅していた。

 衝撃波の威力が思ったより小さく遠くまで及ばなかったことを、果たして幸いと言うべきかどうか。

 精練された大量の『瘴気』を放出し、息荒げにクレーターを上空から見下ろしていた紫剣木は、ようやく息が整った所で、突然瞠った。


「ば、バカな?!」


 慌てふためく紫剣木は、上空からクレーターの中心へ舞い降りる。

 生命の息吹が根刮ぎ奪われている荒野に足を降ろした紫剣木の目前、クレーターの丁度中心点に、全く無傷の市澤未来が超然と佇んでいたのである。


「……そうだ……さっきも……何故……『瘴気功』で対消滅しなかったのだぁ?!」

「『瘴気功』が届かなかったのさ」

「あ……在り得ん、そんなことは!

 これ程の規模の対消滅で、盾になるような物質が在ったとは思えん! 一体、何をした貴様ぁっ!?」


 驚愕する紫剣木が言い切る寸前、突然それは起こった。


「――な!?……世界が……歪み始めている……?」


 瞠ったまま周囲を見回す紫剣木の瞳に、崩壊した渋谷の街並みがうねりを上げている姿が映えていた。さながらそれは、この『世界』が苦しみもがいている様であった。


「こんな現象は、もしや――『特異点』がこの『世界』を変質させているのか?!」

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