第19話 一哉と一耶
眠っていたロランは、がばっと起き上がった。
酷い寝汗が、寝間着の襟の色を濃く染めていた。
市澤の身体が黒い光に包まれると、パン、と弾け散ったのである。
その光景が夢であったことに、ロランは深い安堵の息を漏らした。
だが、『特異点』が存在する今のこの『世界』の状況では、その光景が只の夢で終わる保証は無い。
果たしてそれは、虫の知らせか。
何より、たった今気付いた、ある一つの結果は、寝起きの頭を叩きのめす程、余りにも戦慄すべきものであった。
「未来……あのバカっ!」
舌打ちするロランは溜り兼ねてベットから抜け出ようとする。
だが、まだ衰弱し切っている身体は思うようには動いてくれず、バランスを崩して床に転んでしまった。
* * *
『瘴気弾』で市澤もろとも渋谷センター街を壊滅状態にした紫剣木であったが、その顔は、とても勝ち誇っているようには見えず、困惑そうにしていた。
市澤が『瘴気弾』に飲まれるのと同時に見えた、一瞬閃いた銀色の閃光が脳裏に焼き付いていたのである。
そんな時だった。紫剣木はふと、背後の瓦礫の山から気配を感じ、振り返る。
予感は的中した。
巻き上がる粉塵の中から、白い影が色を成す。
瓦礫の山の上、ボロボロになったコートを纏って超然とする市澤がそこにいた。
「……よくぞ避けた。どのように避けたか想像も付かんが、この『瘴気弾』の直撃を防いだ男はお前が初めてだよ」
無傷の市澤に、紫剣木は戦慄せずにはいられなかった。
そして同時に、心を踊らせていた。
「それでこそ、斃し甲斐があると言うものだ!」
紫剣木は歓喜にうち震えながら、全身から『瘴気』を立ち上らせて構えた。
「無限の『世界』を巡り歩いてまで求めた私の理想は、どうやらこの地で果たされそうだ。
その理想を成就する為に相応しい障害が、こうして私の前に立ちはだかっているのだからな!」
無言で紫剣木を睨む市澤も、おもむろに構える。
二人の超人は、一触即発の刹那を静かに待ち侘びているかの様だった。
* * *
渋谷での死闘から免れた二人の『かずや』は一哉の部屋に辿り着いていた。
一哉は扉の鍵を閉め、ようやく安堵の息をつくと、思い出したように軽く舌打ちする。
続いて、居間のソファで焦燥し切った顔をする一耶を見た。
両手で震えている自らの身体を押えるように抱き締めている一耶は、一哉から大体の説明を聞いて一応理解したらしいが、それでもかなり困惑し、まだ怯えていた。
「大丈夫か、一耶?」
「う、うん」
弱々しい返ことだった。一哉は、その返答を素直に鵜呑に出来そうに無かった。
「……ねえ、市澤君、大丈夫かしら?」
「多分。それに、この部屋に居れば大丈夫だと言っていた」
一耶はまだ気付かなかったが、この部屋の四隅では、煙草の箱程の大きさの金属箱が唸っていた。
一耶の後を追う際、市澤が取り付けた思念兵器妨害装置と呼ぶそれは、敵の奇怪な力をほぼ防げるらしいが、完全に防げる保証は無い、とのことだった。
一哉は、市澤があの男を何とかしてくれることを信じていた。だが、万が一の時は……
(ええい、何て気弱な!)
一哉は頭を振り乱す。それでも不安は晴れなかった。
「ねえ、一哉。――本当にあたしなんかに、世界を変える力があるの?」
「あ?――あ、ああ、そうらしい」
一哉は狼狽して頷く。事情説明の便宜上、『特異点』と化した異世界の者には、世界を変質出来る力があることを話したが、方法については市澤が教えてくれなかったので説明出来なかった。もっとも、一哉には、『世界』を変質させる気は毛頭も無いのだが。
「……でなきゃ、あたしが狙われる理由が無いもンね」
一耶は気怠そうに言うと、ソファに倒れ込むように凭れた。
大きく息を吸い、胸一杯に詰まったそれを一気に吐き出すかと思うと、何故かそれを思い止まった。
「……一哉」
「あ? なんだ?」
「あたし、何か悪いこと、した?」
「え?」
不意をつく、嗚咽のような一耶の問いだった一耶は不安げな顔を上げ、戸惑う一哉を見遣った。
「……何で……あたしばかり、こんな目に遇わなきゃならないの?――何でよ?!」
一耶は今まで堪えていた不安を一気に爆発させ、とうとう泣き出してしまった。
「あたしは何も悪いことなんかしていないのにあんな変な人に付き纏われ、その挙げ句、世界を一つ破壊するだけの力を持たされているなんて――いったい、何なのよぉ?!」
縋るように訊く一耶は恐慌を来し、ソファの上で激しく震えていた。
一哉は慌てて彼女をなだめようと歩み寄り、両肩を取って揺すった。
「あたしって、あたしって、居ちゃいけない存在なのぉ?!――そうだ、今日子!あの娘助けなきゃぁ!今日子、助けてって泣いてて!」
「一耶、落ち着け! お前は何も悪く無い!」
一哉は必死になって、飛ばされる前の記憶が戻りつつあった一耶をなだめた。
その必死さが伝わったのか、一耶は呆然とした顔で一哉の顔を静かに見つめた。
二人を取り巻く帳に、しばし静寂が流れる。
それを打ち破ったのは一哉だった。
「お前が存在することを、誰にも否定なんかさせねぇ!」
一哉は、一耶を包み込むようにゆっくりと抱き締めた。
「一哉……?」
一耶はそれに抗わなかった。自分を見つめる泣き顔の一哉を前に、一耶は何も出来なかったのである。
「……たとえ……世界を敵に回しても……俺が……お前を守ってやる……!」
「?!」
一耶は、一哉の言葉に思わず、はっ、となる。
その閃きは心做しか、咲くことを待ち侘びてようやく開いた花びらを思わせる様だった。
しばし沈黙が続く。薄ら寒い室内の中で、二人は互いの温もりだけが確かだった。
やがて一耶の瞳が瞬き、煌めくものが頬を伝い落ちると、その華奢な両腕が自然と一哉の背中に廻し、彼の胸に紅潮した顔を埋めた。
それに応えるように、一哉は彼女を抱き締める腕に力を込めた。
今、二人は、自分の心の内でわだかまっていた理解し難い感情が何であるか、ようやく気付いたのである。
二つの孤独な魂たちは、やがて一つとなった。
ねえ、一哉。
あたし、ここに居たい。
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