第18話 渋谷事変(前編)

 怒りに任せて渋谷に来た一耶は、一哉の悪態を零しながら当て所も無くさすらっていた。

 やがて、そのことに空しさを覚えると無言で歩きながら、時折立ち止まっては後ろを振り返っていた。

 まるで、誰かが後ろから声を掛けてくれるのを待っているかのように。

 だが、声を掛けてくれるのが、誰でも良い訳では無い。時折、脇を通った数名の若者にナンパされて声を掛けられるが、その声は一耶の耳には届いていなかった。

 今の一耶の耳は、たった一人の男の声しか受け付けようとしなかった。

 自分と同じ顔をした若者の申し訳無さそうな顔が、背後に現れることを信じて。

 その想像上の顔が笑顔に変わる度、一耶は切ない気持ちで一杯になった。

 多分、その笑顔が実体を持った時、彼の懐に飛び込む衝動を抑えることは出来ないだろう、とまで思い始めていた。

 しかし、それは理解し難い感情だった。

 勘違いであってほしい。――だが、彼に裏切られた時の怒りが、生まれてから一度も覚えたことの無いくらい激しかった理由をどう説明するのか?


(何なの……どうしてこんなに切ないのよぉ)


 一人途方に暮れる一耶は、思い出したように又、背後を振り返った。

 視界に、見覚えのある人影を捉えた。

 黒のインバネスを着た男である。


(……やだ、まだ付いて来る!)


 その人影は、公園通りをうろついていた時から付いて来るのを一耶は気付いていた。

 一耶はその人影に何か得も知れぬ気を感じ気味が悪くなって堪らず駆け出した。

 公園通りをJR渋谷駅方面に向かって走っている内、いつの間にか先回りしている影に驚くと、慌てて向きを変えてSEED脇の細い路地を走り抜ける。

 間も無く、不夜城たるセンター街に辿り着くと、一耶は息を切らしながら安心し、渋谷駅方面に歩き出した。

 ところが、自分を追っていたあの影が、いつの間にか前方に回り込んでいるではないか。

 あり得ない美貌が目前で揺れていた。その美貌はまだ記憶に新しいものであった。


「……貴方は……確か……夕方『クロノス』に来た……?」


 闇を思わせる漆黒のインバネスの上に据えられた美貌が上下にゆっくりと動いた。


「……紫剣木と申します。――永間一耶、貴女の力を戴きに参りました」

「え? 何であたしの名前を?!」


 一耶は素っ頓狂な声を上げて驚く。

 そして直ぐ、目前の美丈夫が自分にとって危険な存在だと悟っていた。

 理由など無い。只、その美貌がくれる視線を肌に受ける度、全身の肌が泡立つ本能を信じただけである。


「な……何なの、あんた?」

「〈探究者〉」


 紫剣木が答えるのと同時に、紫剣木の身体から黒い光が勢いよく噴き上がった。


「?!」


 一耶は黒い光に気圧されて絶句する。全身を駆けめぐる得も知れぬ戦慄に、一耶は心の底から恐怖した。


「ひとつ聞こう、――貴女はまだ“処女”だな?」


 恐怖に満ちていた一耶の顔が思わず固まる。あまりにも予想外の質問だったからだった。


「……はあ?」


 何とも複雑そうな表情を作った一耶だが、その顔はどこか赤くなっていた。


「な、なんなのよ、あんたぁ!?し、失礼ってレベルじゃ無いわよソレぇぇぇぇ!!」

「……ふっ。了解した。分かり易い反応で助かる」


 紫剣木は笑みを浮かべた。


「『特異点』よ! 我が理想の『世界』を実現する為、お前の『力』を解放してもらおう!

 私を絶対者と崇め恐れよ!」


 一喝と同時に、紫剣木の全身から噴き上がった漆黒の光――『瘴気』の渦が、一斉に一耶に向かって襲い掛かった。

 刹那、その『瘴気』目掛けて無数の閃光が集中し、『瘴気』を霧散させた。


「これは――奴か!?」


 紫剣木は閃光を撃ち放った存在を知っていた。

 すかさず閃光の飛んで来た方向に向き、その存在を確かめる。

 紫剣木の視線の果て。――センター街通りのJR渋谷駅方面から、爆音を上げて迫り来るYAMAHA・V-MAXに乗る市澤未来を見つけた。

 1000CCを超す大排気量のV-MAXは、荒々しい野獣のようなエキゾーストを上げ、紫剣木を威嚇するように、呆然とする一耶の間に割り込んだ。


「一耶ぁ!」


 一耶を庇うようにして駐まったV-MAXの、副座席と呼ぶには少し物足りない後部シートから血相を変えた一哉が飛び降り、一耶の前に紫剣木から庇って立った。


「一哉ぁ?! どうしてここを?」

「俺はお前だろ?お前の考えそうなことは俺にも判るさ」

「話は後にしてくれ」


 紫剣木を睨む市澤がV-MAXから降り、被っていたフルフェイス・ヘルメットを一哉に渡した。


「一哉、彼女を連れてV-MAXでこの場から急いで逃げろ。

 ここで決着を着ける」

「市澤ぁ! 俺にもあの野郎を殴らせろ!」

「お前は構うな! 早くここを立ち去れ!」


 紫剣木を睨んだまま、一哉に一瞥もくれずする市澤の一喝に、いきり立っていた一哉は思わず飽気にとられてしまう。


(……市澤がこんなに激しく怒るなんて……!)


 いつもクールで、隙あらば他人をからかったりするシニカルな印象しかないこの男が、こんなふうに感情を激しく表にした姿を一哉は見た覚えが無かった。

 一哉は、この市澤の憤怒ぶりには、驚きよりも、逆に戦慄を覚えずにはいられなかった。


『一哉、人を殺せるか?』


 先刻、笑って訊く市澤のもう一面の顔が、一哉の脳裏をすうっと横切った。

 冷や汗が額をにじる。二度と思い出したく無い笑顔であった。

 この世に決して怒らせてはいけない人間が居るとしたら、この市澤のような人間のことを言うのだろう。

 一度怒りに支配された時、その者は羅刹と化す。

 この羅刹の怒りを止められるものはたった一つしかない。


 目前で漆黒の影を揺らす美しき魔人が葬り去られること以外には。


「判ったよ」


 一哉は渋々頷き、心配そうにいる一耶にV-MAXの後部シートに乗る様促した。

 一哉は市澤の横顔を心配そうに見つめた。


「市澤……無理するなよ」


 市澤は無言で頷いた。それを認め、一哉はVーMAXの前座シートに跨ぎ乗ると、アクセル全開でVーMAXを走らせた。

 一哉たちがVーMAXで、センター街からBunkamura通りへ抜ける第一勧銀脇の細道を通って去った後、センター街に残った黒と白の影がようやく身じろいだ。


「どうやら、『特異点』を手に入れるにはまず、君を斃さねばならない様だな」

「当然だ」


 市澤は、不適にほくそ笑む紫剣木を見据えたまま吐き捨てるように応える。

 怒りに煮えたぎる市澤の感情を察した紫剣木は、失笑して肩を竦める。

 そして、この騒ぎに集まり出した、センター街を徘徊していた若者たちを横目で一瞥をくれ、


「君はこの場で私と闘うつもりか?」

「僕にはそんな脅しは効かぬ。――彼女を守る為なら、僕は甘んじて羅刹となろう」


 紫剣木を見る市澤の眼光が異常に鋭くなる。


(何ぃ?!)


 市澤の凄じい眼光に、紫剣木は思わず気圧される。


(……うう、何と言う深く冷たい瞳だ……! このまま見入られては、気が変になりそうだ……!)


 修羅場には慣れているハズの紫剣木であったが、この男が並の敵ではないことは既に承知の上でも、戦慄を覚えずにはいられなかった。


「くそっ!〈探究者〉をなめるなっ!」


 辛うじて、無限の『世界』を渡り歩いて鍛え上げた、戦士としての気力に支えられ、紫剣木は気を取り直して市澤に身構える。

 紫剣木の周囲では、『瘴気』の渦が紫剣木を守ろうとするが如くうねり始めた。

 それに呼応するように、市澤も拳を引いて構える。力みの無い、実に自然体な構え方である。いつでも即座に攻撃出来る鋭さがあった。


「なかなかの構えだ。だが、やらせはせん!」


 紫剣木が一喝する。――同時に、紫剣木の右拳から放たれた『瘴気功』が市澤に襲い掛かる。

 市澤は咄嗟に後方へ飛び退いた。放たれた『瘴気功』は、市澤の立っていたタイル敷きの路上のみを粉砕する。

 咲き広がる花を思わせる粉塵混じりのカラフルな飛沫は、ネオンの明かりの中で高く立ち上り、それを見ていた者に感銘の念を抱かせる暇も与えず、飽気無くその花片を散らして周囲の者たちを咽ばせた。

 市澤は後方へ飛び退いた。――否、飛び退いたと言うより、宙を飛んだと言うべきか。

 市澤は弓なりに反り、背面宙返りを経て三メートル後方のビルの壁に垂直に着地する。

 その着地点、地上四メートル。人間業とは思えぬその超絶した運動能力は、讚える以前に戦慄を覚えずにはいられない。

 ビルの壁に垂直に着地した市澤は身を屈めてバネにし、紫剣木目掛けて飛び掛かる。

 紫剣木はすかさず両腕を交差させ、宙返りして飛び蹴りをくれる市澤の蹴りを受け止めた。


「甘い!」


 次の瞬間、紫剣木は蹴りを受けた両腕を押し上げ、市澤を弾き飛ばした。

 だが、市澤はバランスを崩すことなく舞うようにして路上に着地した。


「おおっ、スゲぇ! TVの撮影か?」


 事情を知らない周囲の野次馬たちがどよめいた。

 しかし市澤も紫剣木も野次馬を無視して睨み合っていた。


「こらっ! 何をしている!」


 そこへ、野次馬の中から巡回中の二人の警官が現れた。

 先刻、紫剣木がもたらした惨劇の犯人を捜していた最中での、この騒ぎに二人とも色めき立っていた。

 紫剣木は右側から来る警官たちに一瞥をくれ、


「……目障りだ」


 おもむろに上げられた紫剣木の右拳は、警官たちに向けられた。

 その右拳が、掌から黒い光を零しながらゆっくりと開かれようとしていた。


「無関係の者に手を出すな!」


 市澤の制止を無視した紫剣木の右掌が開かれた。

 白魚のように綺麗な紫剣木の右指を押し除けるように、掌から飛び出した巨大な『瘴気』の弾は、黒い閃光と化して警官を撃ち抜く――ハズが、後を追うように飛んで来た白色の閃光が『瘴気』の弾を粉砕した。

 黒と白の激突による衝撃波のみが、警官や野次馬たちを無傷で弾き飛ばすだけに終わった。


「……ちぃ」


 紫剣木は忌々しそうに市澤を睨み、


「『光速拳』で『瘴気弾』を粉砕するとは、なかなかやる」


 『瘴気』の弾を撃ち放つ紫剣木の必殺技『瘴気弾』を粉砕した閃光を放ったのは、空気摩擦で煙を巻いている市澤の右拳だった。

 光の速度をもって繰り出した拳圧が、光速の衝撃波、即ち、レーザー光線となって目標を粉砕する。

 それが市澤未来の能力、『光速拳』なのである。

 一哉達の前で度々、瞬間移動のようなことをやってのけたのは、この光の速度で動く能力の仕業であった。


「余裕があるのはどちらかなぁ?」


 吠える市澤は、今度は対峙する紫剣木の身体を『光速拳』で幾重にも撃ち抜いた。

 紫剣木の身体が、無数の閃光のラッシュに引き裂かれる。その黒い身体から、次々と影が吹き飛んで行く。

 なのに、閃光の通り抜けた紫剣木の身体は全くの無傷であった。


「……私には貴様の技は通じぬよ。

 この『世界』が無尽蔵に放出する『負の力』を、自らの力に変換する能力を持つこの私を斃すことは不可能だっ!」


 紫剣木は嘲笑のような一喝を吐くや、市澤に向けて両掌を翳し、直径六メートルもある巨大な『瘴気弾』を撃ち放った。


「むっ!」


 市澤は、掌が向けられるのと同時に反応し先刻の同じく、すかさず背後へ飛び退ける。

 だが、今度は少し選択を誤った。先刻と違い、市澤の背後は、先程一哉たちがV-MAXで脱出した、Bunkamura通りへ抜ける細道だったのである。


「しまった!」

「バカめ!」


 紫剣木の嘲笑が、彼の放った巨大な『瘴気弾』と共に、細道の上へタイミングを誤って無防備に着地した市澤に襲い掛かった。

 『瘴気弾』の黒い光が、市澤の身体を飲み込む。

 漆黒の闇に飲まれた市澤の身体は、後方に飛ばされながら見る見る内に闇色に染まって行く。

 瞬く間に黒色の巨大な光球に変わった所で、細道を抜けたBunkamura通りの向い側にある衣料店のシャッターにまで届き、勢いよくそれをぶち抜いた。

 雷を思わせる爆音を上げたシャッターは、きっかり六メートルの黒い穴を開け、店舗内を粉砕して次第に風化して行くコンクリートとスチール片の粉塵を手前の道路の上に吐き散らした。

 更に、その店舗のあった鉄筋のビルはコマ落としのフイルムを見ているかのように、すうっと砂の塊と化し、あっという間に崩れ落ちて行った。

 『瘴気弾』の破壊の跡はそれだけでは無かった。それが駆け抜けた細道を挟む鉄筋のビルの壁を自身が翳めた分だけえぐり取り、その二つのビルも又、見る見る内に風化して砂の塊となり、互いにお辞儀するように向かい合わせに崩れ落ちたのである。

 紫剣木が放った必殺の『瘴気功』の何と凄じい破壊力か。『時次元』上で展開する『世界』が、代謝の余剰エネルギーを相殺する為に生み出す『負の力』――『瘴気』と呼ばれる破壊エネルギーを用い、目標物の代謝エネルギーを対消滅させることで、このビルのように物質的な『死』を与えるのである。

 そんな凄まじい破壊力を自在に使いこなす紫剣木という男、何と恐ろしい能力者であろうか。

 果たして、『障気弾』を受けた市澤の命運は――

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