第17話 真相 (後編)
不意に、市澤の姿が一哉の視界から消え去った。
あまりのことに息を呑んだ時、一哉は背後から何者かが肩を掴んでいることに気付いた。
「市澤――お前――どうやって――」
「都合の良い機械など、僕には要らない」
一哉は戦慄した。あまりのことに振り向くことも出来なかった。
今まで玄関に立っていた市澤が、瞬く間に自分の背後に立っていたことにもあった。
初めて一耶のことで市澤の元へ相談しに行った時にも突然出現していたことを一哉は思いだしていた。
恐らく市澤のモノであろう、丁度市澤が立っていた三和土の位置に、一対の革靴が綺麗に揃えられて新しく出現していたのも驚いたうちのひとつであるのも間違いない。
一哉の背後から輝くこの白い光――白色よりもなお白いこの銀色の輝きを発している主が、いったい誰であろうか。
「お前…………“誰”……だ……?」
一哉は喘ぐように聞く。
しかし、どうしても振り向くことが出来なかった。
恐ろしかった。
あの紫剣木がやってきた時に感じた、恐怖――あの時とは比べものにならない、圧倒的な気配が背後から届いていたのだ。
「……僕は、僕だ」
市澤は、ぽつり、と応えた。
同時に、一哉の背を舐めていた銀色の輝きが消える。それは儚げに消えた。
一哉は、どきっ、とした。
その脳裏を、泣きじゃくる一耶の顔が過ぎった。
俺は、もう一度、同じ間違いをしようとしている。
「……ったく。次から次へと驚かしやがって。この人間びっくり箱め」
一哉は苦笑混じりに溜め息を吐いた。
そしてゆっくりと、やや怖ず怖ずしつつ、振り向いた。
そこには、いつもと変わらない、根性悪が居た。
「あー、判った判った。信じてやるさ。お前はお前だ。俺の大切な親友(ダチ)だ」
「僕はそうは思っていないが」
「喧しい」
二人は一緒に吹き出した。
「とにかく、紫剣木とか言う奴が、とんでもない野郎だってことなんだな? 判った。確かにやばそうなヤツだったしな。
……でも、『特異点』になった今日子が、この世界に帰って来ているのは何故だ?
『特異点』じゃなくなったのか? そうなると、紫剣木は今日子の力を使って、自分の理想の『世界』を創ったんじゃないのか?」
そう一哉に問われると、はにかむような笑顔だった市澤の貌が見る見るうちに曇った。
「市澤……どうした?」
「確かに、今日子君の『特異点』化は、紫剣木によって解かれた。
ただし、それは最悪の結果を生むことになってしまった」
「――!?」
一哉はこれ以上ないくらい瞠る。
「……最悪、って……いったい……」
訊かれて、市澤は頭を振った。
「『世界』の完全消滅は免れた。
だが、『世界』に存在していた生命が根刮ぎ消滅してしまった」
一哉は一瞬、呆けた。
「……え?」
「今日子君をその『世界』から連れ戻し、放り出されていた間の彼女の記憶を操作した際、僕らは『特異点』の発動のいきさつを確認するため、脳の記憶層をサイコ・アナライザーで解析した。
その結果、判ったことなのだが、その『世界』に放り出された今日子君は、そこに始めから存在していた河上今日子が居たせいで、周りから偽者扱いされて追われていた。
酷い孤独感に見舞われた中で、今日子君は紫剣木と遭遇し、『特異点』の力を解放しろと迫られた。
しかし、今日子君は『特異点』のことなど知る由も無く、紫剣木の手から逃れようとした。
今日子君を持て余した紫剣木は、思い余って今日子君に乱暴を働いた途端、『特異点』の力が発動したのだ」
「何てことだ……!」
余りのことに一哉は絶句してしまう。
「いったい、その紫剣木という奴は、世界を一つ破壊してまで、どんな世界をこしらえようとするつもりなんだ?」
「わからん」
市澤は残念そうに頭を振った。
「それは、僕らの『世界』に侵入して来た紫剣木を問い詰めなければ判らないだろう。叶うなら、な。
今の奴の狙いは今日子君に在らず。―― 一耶君だ」
「そ、そうだったな」
まさか一耶の出現が、そんな重大なこと態に発展していたとは。一哉は、目眩を覚えた。
「紫剣木は、僕らの『世界』の『特異点』一耶君を奪取せんと、『クロノス』を襲撃したが、ロランに阻止された。
だが、今度はそうは行くまい。何としても、奴の手にかかる前に、一耶君を取り戻さねばならない」
「そ、その『特異点』化を解く方法は無いのか?」
「『特異点』化を解く方法……か」
不意に、超然とする市澤の顔が曇った。
「……方法は三つある。ただし、その一つはとても選べない」
「何だい、それは?」
問われて、市澤は笑みを零す。
「……一哉、人を殺せるか?」
一哉は返す言葉を無くした。
殺伐した問いよりも、屈託の無い笑みを零して訊く市澤に、正直、背筋がぞっとした。
一哉は、市澤のもう一つの顔を見てしまったような気がした。
「流石に無理だろ? 残る二つで、最も理想的な方法……元の世界に帰せば、一耶君は『特異点』で無くなる」
「元の世界……か」
不意に、一哉の顔が寂しそうな色を見せる。
一耶が元の世界に帰る。
それがいつになるのかは予想も出来なかったが、一耶が元の世界に帰らなければならないのは、一哉も承知していたハズだった。
なのに一哉は、そのことを考えると何故か、切ない思いが全身に満ちる自分が判らなかった。
心悲しい思いに暮れる一哉だったが、先刻の困惑も失せ、落ち着き出した時、ふと、あることに気付いた。
「……待てよ?――と、言うことは、市澤は初めから一耶を元の世界に返すことが出来たんじゃないのか?」
「ああ」
市澤は当然のように答えた。
「何だと!?」
余りのことに一哉はやにわに立ち上がり、
「――それじゃあ、何で元の世界に帰してやらなかったんだよ!?」
一哉は市澤に詰め寄り、激しく追求する。
すると市澤の顔が曇った。
だが、激高する今の一哉には、いつも仏頂面でいる男のそんな貌の変化など気付くハズがなかった。
「……紫剣木を誘き出す餌にする為だ」
市澤は昏い顔で答えた。
次の瞬間、一哉の怒りに任せた拳が市澤の顔面を見舞う。
市澤は壁に激突して崩れ落ちた。
「手前ぇ、何てことを!!」
怒りに震える一哉の罵声が市澤の耳に届く。
壁に凭れて座り込む市澤は、しばらく虚ろな眼差しで床を見つめていたが、やがて肩を震わして、卑屈そうに笑い始め出した。
「市澤……何が可笑しい!?」
市澤の笑い声が一哉の怒りを逆撫でする。
一哉が笑い止まぬ市澤の胸倉を掴み上げて睨むと、市澤は笑うことを止めた。
代わりに、とても焦燥し切った貌が浮かび上がっていた。
「……はは。これで、少しは気が楽になったよ」
「何ぃ?」
一哉は睨んだまま訝る。
市澤は殴られて血が滲む口元をぬぐいながら話を続けた。
「……紫剣木という男は、目的の為ならば手段を選ばぬ男だ。
本部のファイルに、紫剣木の過去の行動について色々記述があったが、いずれも、奴が目的の為なら手段を選ばない陰惨たるものばかりだった。
奴一人のために何人の人間が傷つき死んだか、『世界』がいくつ滅んだか判るか?
〈探究者〉としての超絶した能力を持つが故に、普通の人間なぞ虫けら同然にしか見ていないのであろう。
まるで、己が神であるが如く、な。
確かに、〈探究者〉と言う存在は、世界が無限に存在していることを知らぬ者から見れば、その超絶した能力は、神と見紛うかも知れない。
だがそれが、夥しく流れた血の海をすすって得たものである以上、神と言う思い上がりだけは決して許してはならないのだ。
だから僕は、奴と戦うことを決めたんだ……!」
「……市澤……お前……?」
一哉の怒りは収まっていた。
胸の内を明かす市澤の貌に、理不尽なものへの例えようの無い怒りの色を見た時から。
「……それだけでは無い。もう、後がないのだ」
「後が無い?」
「さっき言った、入れ替わりが原因だ」
「入れ替わり?」
「今日子君の『特異点』が発動して滅んだ『世界』は、その前に生じた歪みから一人の人間を放出していた。
それが、一耶君なのだ」
「……え?」
それを聞いた途端、一哉は激しい脱力感に見舞われた。
市澤の胸倉を掴むその手にまでたちした脱力感に、一哉の両手は力無く垂れ下がり、二度と上がらないように見えた。
実のところ、一哉も、市澤が今日子の話をしていた時に薄々その可能性には気付いていたのだ。
愕然とする一哉の前で、市澤は壁に背凭れし、深い溜め息を洩らした。
「一耶君が入れ替わりの対象になったのは、偶然としか……いや、違うな」
そこまで言って市澤は暫し感慨に耽るように沈黙した。
「……今日子君は、助けて、と言っていた」
「え?」
「本来なら、互いの『世界』が過剰な素粒子を排除しようとして、相手の『世界』の復元力を利用した反作用現象で元の鞘に戻るハズだった。
しかし今日子君が紛れ込んだ『世界』には、運悪く〈探究者〉紫剣木が潜伏していたのが不幸の始まりだった。
『特異点』の出現をいち早く察知した奴は、我々より早く今日子君に接触し、『特異点』が発動してしまった。
その所為で、一耶君の『世界』は失われ、戻ることが叶わずに強大な力場を伴った『特異点』となってしまった」
そして市澤は一呼吸おき、
「……一耶君がこちらに飛ばされてしまったのは、今日子君が原因だろう」
「今日子が?」
「『重合化現象』というものがある」
「なんだそりゃ」
「素粒子が重なってしまうことだ。本来ならそれは対消滅してしまうのだが」
「対消滅、って……」
「簡単に言うと、人が消えて無くなる。それはもう跡形もなく。素粒子の構成が限りなく同じものはひとつの世界に二つ存在する事は出来ない。その為、我々は近しい平行世界への干渉、渡航は原則禁止されている」
「じゃあなんで今日子は無事なんだ」
「完全に重なってしまったんだよ。天文学的レベルの確率でそんな安定化した『重合化現象』が起きる場合がある。今日子君は一耶君の世界で、今日子君の身体の中に出現してしまったのだ、それはもうピッタリと」
「ピッタリ……って質量とかどうなってんだよ」
「倍になってるだろう。しかし見た目は変わらない。いやよく見たら輪郭がブレて見えたかもしれない。身体を構成する素粒子の隙間にピッタリ収まってしまったんだからな」
「何か凄い事になったなそりゃ」
「その為にあちらの世界の僕らも異常事態に気付くのが遅れたのだろう。お陰で世界は崩壊だ」
「う……」
一哉は途方もないとんでもない話に引くばかりであった。
「でも、だからなんでそれで一耶がこちらに飛ばされたんだ?」
「最初にそれに気付いたのが一耶君なんだろう」
「一耶が?」
「ここはあくまでも推測だが、あちら側の今日子君は、自分の身に起きている異常事態にどうすればいいのか分からなかった。精神的、肉体的に二重になった自分に混乱していたのは想像に難くない。
しかし親友の一耶君がそれに気付いた事で、今日子君は彼女に助けを求めた。
だがそこで『特異点』の不安定さが災いし、重合化現象で放り出せなくなったこちら側の今日子君の代わりに一耶君があちらの世界から放り出されてしまった。そんな所だ」
「一耶はなんでそれを覚えてないんだ?」
「こちらへ飛ばされた時のショックで記憶がすっぽり飛んでしまったのだろう。加えて男の自分に出会ったショックもある。
人ってのは自分に理解出来ない現象を目の当たりにして、混乱している思考は割りと都合のいいように修正しようとするものだ」
「そう、か……」
一哉は一耶に降りかかった災難を想像して胸が詰まった。自分がもしそんな目に遭っていたら、果たしてまともでいられただろうか。
何故あいつは、俺と出会って笑っていられたのか。一哉はそう思うとまた後悔した。
「一哉。今は悲しんでいる場合ではない。
紫剣木が一耶君の『特異点』の力を解放する前に、一耶君を保護しなければならないのだ。――お前なら、一耶君がどこへ行ったか、判るハズだ」
「……ああ」
一哉は虚ろげな顔でおもむろに頷き、
「……一耶は一哉……だからな。――そうだな、多分、渋谷でも行って、憂さを晴らしているだろう」
それを聞くと、市澤は凭れている壁から身を起こし、一哉に右手を差し出した。
「行こう。一耶君を取り戻すのだ」
市澤は薄らと微笑む。
一哉の目には、その微笑はとても優しく、強く、そしてどこか哀しそうに見えた。
「……判った」
一哉は頷き、市澤の右手を取って握手した。
握手する手に込められた力は、互いに力強く感じられた。
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