第15話 真相 (前編)

 一耶が部屋を飛び出した後、一哉は彼女を追いかけようともせず、一人、部屋のテーブルに向かって座っていた。


「……ハッピィ・バースデー・トゥ・ユー……ハッピィ・バースデー・トゥー・ユー……。

 ハッピィ・バースディ・ディア……カズヤ。ハッピィ・バースデー・トゥ・ユー……」


 一哉は、まるで魂が抜け切ってしまったかのように虚ろげな眼差しで、一耶の用意してくれたテーブルの上の料理を見つめ、バースディ・ソングを口吟んでいた。


 ふと、一哉の向かいの席に、微笑む一耶の幻が浮かぶ。

 一哉の顔もつられて綻んだ。

 

「――ちぃ!」


 一哉は直ぐにそれが幻と気付き、頭を振って、消し難い幻を振り払った。

 そしておもむろに瞼を閉じると、身体を小刻みにわななかせ始め、閑散とする室内に嗚咽を響かせた。


「くそっ!」


 突然、一哉はテーブルの上に両拳を強く叩き付け、席を立った。

 その時だった。

 一哉が席を立つのと同時に突然、玄関のドアが開いた。


「一耶か?!帰ってきたか?!」


 ドアの開く音に気付いた一哉の顔は歓喜の色に染まり、慌てて玄関の方を見る。

 玄関には一耶は居なかった。

 代わりに、一人の男が、超然として一哉の方を見据えて立っていた。


「……市澤」


 一哉は、市澤の突然の来訪に驚愕する。


「一哉。一耶君はどこに居る?」


 来訪の挨拶を口にすることなく、市澤は淡々とした口調で一哉に訊いた。

 一哉は不躾な市澤にしかし怒りもせず、軽い脱力感を覚えて、先程まで座っていた椅子の上へ落ちるように腰を下ろした。


「……出て行っちまったよ、あいつは」


 焦燥し切った一哉の顔が左右に揺れた。


「……ははは。全く、究極のバカ野郎だぜ。――俺はよ」


 一哉は溜め息をついてがっくりと俯き、


「……一耶との約束破っちまってさ。――自分自身を裏切っちまったんだぜ」


 一哉は、俯く顔を無意識に両掌で覆う。

 小刻みに震える指の透き間から、間も無く嗚咽が零れ出した。


「……今日が手前の誕生日だってこと忘れて……折角、用意してくれた誕生祝いの御馳走も、すっかり冷めちまったぜ」


 一哉はおもむろに面を上げて市澤を見る。

 泣き腫れた赤い目を前にして、しかし市澤は無言で佇んでいた。


「……一耶がどんな思いで、この閑散とした部屋で俺を独りで待って居てくれたか……判るか?

 ……はは、俺なら良ぉ~く判るぜ」


 失笑する一哉の貌は、捨て鉢な思いが露な余りにも哀しい笑顔を造っていた。

 一哉の脳裏には、一耶が現れた日に、人混みに溢れる渋谷の街を見つめる一耶のあの横顔があった。


「……知っているハズの世界。

 なのに、誰も自分を知らない独りぼっちの寂しさ……。

 俺もつい昔、そんな思いでこの部屋に暮して居たんだよ……」


 市澤を見る一哉の目尻から零れた一滴の煌めきが頬に、すうっ、と伝い落ちる。滴が顎に届くと、一哉は慌てて腕で涙を拭った。


「……信州から東京に他愛のない夢を見て、たった一人で上京してさ。

 最初は戸惑いもあったが、何もかも楽しかった。

 TVや雑誌で出て来る街並みがさ、目の前で立体感を持っていると、まるで自分だけの世界に見えてな。色々バカなことやったよ。

 だけど、そんな楽しさなんか、この広い東京で独りぼっちで居る寂しさから、目を反らしているだけに過ぎなかったんだよ……」

「だが、お前は色んな女性を好きになったではないか?」


 相変わらず超然として居た市澤が、ようやく開口した。

 すると一哉は頭をゆっくり振り、


「あんなの、寂しさを紛らわそうとしていただけに過ぎないさ。

 現に、本気だと思っていた今日子ですら、今夜デートに誘われても、ちっとも楽しくなかった。

 結局、誰も愛せなかったのさ。

 ……ずうっと、孤独のままだったんだ」


 一哉は引きつった笑みを浮かべて答えた。

 何かを嘲笑しているように見えるそれは、決して他人に向けられているものではないことを、市澤は既に悟っていた。

 やがて、一哉の顔から笑みが消え失せ、おもむろにうなだれた。


「……あの日、な。一耶が俺の前に現れた日の夕方、お前と一緒に行った渋谷の雑踏を哀しそうに見つめている一耶を見てて、俺はあいつがえらく寂しそうに見えたんだ。

 俺と同じように自分の『世界』で孤独を味わい、その上、自分でも知らぬまに、自分のことを誰も知らない余所の『世界』に放り出された一耶を見ていると、上京したての俺を見ているみたいでさ、こう……胸が詰まって来るんだよ!」


 言うなり一哉はガバッ、と面を上げ、今にも爆発しそうな貌を市澤に向けた。


「だけどさあ、あいつ、笑っているんだよ!

 時々、無理している素振りもあったよ! それでもあいつは弱気を見せないんだ!」


 そこまで言うと、一哉は力尽きたかのようにがっくりとうなだれた。


「……強い娘だよ、一耶は。

 俺以上の孤独を味わっているのに、一つも音を上げないでいる。

 ――多分、心の内では、例え様の無い孤独と闘っているのは間違いないだろうよ。

 だから、俺はあいつを庇ってやりたかったあいつに寂しい思いをさせたくなかった。

 なのに、俺はあいつとの約束破っちまったんだ!」


 一哉の慟哭が室内に響いた。

 とてつもなく重い哀しみがしばし室内を支配し、己を責める嗚咽を洩らしながら、一哉は頭を振り続けた。

 途方に暮れる一哉の許に、三和土を上がった市澤は静かに歩み寄った。


「……もう良い。それ以上自分を責めるな」

「……けど……けどよ!」


 痛嘆する一哉は、市澤の慰めの言葉にもどうして良いのか判らぬまま周章していた。

 市澤を見る一哉の潤んだ瞳は、さながら幼子が取り返しの着かないことをして、何かに救いを求めている、そんなふうだった。

 だが市澤は、慈悲にすがろうとする心を頑なに拒絶するかのように、憐憫の情が欠けらも無い冷徹な眼差しを一哉にくれた。


「……いつまでも泣いているのは勝手だ。だがな、一耶君に迫っているかも知れぬ危機を前をどうするつもりだ?」

「何っ?」


 泣き腫れる一哉の顔が驚愕の色で閃いた。


「我々が存在するこの『世界』を、自らの理想のものと変える為に、一耶君――否、『特異点』永間一耶を奪取しようとする男がいる」

「……だ……奪取する……だぁ?」


 市澤の物騒な発言に目を白黒させる一哉。

 そんな一哉を見て、市澤は、ふっ、とはにかむような笑みを零した。


「僕が突拍子もないことを話しているので、混乱するのも無理はない。

 常識外れの説明だが、しかし全て事実なのだ。――今こそ、全てを話す時なのだろう」

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