第13話 あたしは待っていた
一哉はネオンの煌めく街の闇を駆け抜けて行く。
行き先は勿論、自宅のマンションである。
一耶が独り待つ部屋へ。
「……うっぷ。畜生、酒が回ったか?」
自室のあるマンションのフロアーにようやく着いた一哉は、慌てて走って来た為に、先刻の酒が程好く酔わせて口元を覆うが、吐く程では無かった。
二、三回深呼吸して気を取り直した一哉は自室の前に立ち、ドアを静かに開けた。
「た……ただいまぁ……」
一哉は、申し訳なさそうな面持ちで玄関の中に入った。少しふらついているのは決して酔いの所為だけでは無かった。
「あ……」
一哉は、明かりを消した薄暗い室内のテーブルの前で、黙して椅子に座っている一耶の姿を、充血気味の視界に捉えた。
一耶の表情は暗くて良く判らなかったが、怒相であることはこちらを見ているその気配から容易に理解出来た。
「……遅かったわね、一哉」
まるで地の底から響いているような一耶の第一声は、一哉の酔いを覚ますのに十分過ぎた。
「夕方……約束したこと、憶えている?」
一耶の静かなる詰問に、一哉は声を無くして頷いた。
(こりゃ……一発叩かれるのは覚悟した方が良いな)
覚悟を決めた一哉は目を瞑った。
「……遅くなるなら、電話で連絡の一つでもしてくれれば……たとえ、お酒の付き合いでも…………女の人と一緒だったって……」
一耶に指摘され、一哉は袖を顔の前に持って来て嗅ぐ。そこで服に染み付いていた今日子の強めの香水に気付いて狼狽する。
「――あ。こ、これは、その……」
狼狽する中、一哉はようやく夜目に慣れた。
夜目に慣れた一哉の瞳は、涙をぼろぼろ流して自分を睨んでいる一耶を見出した。
「……約束を信じて……独りでここで待って居たあたしのこと……少しでも考えなかったの?」
「う」
一哉は何も言えなかった。
とても悲しい表情だった。
その表情は、一哉の心の底に埋れ、彼がようやく忘れることが出来た辛い思いを如実に映し出されたような気がしてならなかった。
しばしの静寂。
ややあって一耶はゆっくりと腰を上げ、戸惑う一哉の横を通り過ぎて、玄関のドアノブに手を掛けた。
「お、おい……」
一哉は慌てて振り返り、一耶におずおずと声を掛けた。
「煩い、バカ! 放っておいてよ!」
一耶は振り向きもせず怒鳴った。
取りつく島も無い一耶の怒りに、一哉も思わず、むっ、となって憤る。
「……な、何だよ、その言いぐさは?」
勢いとは言え、一哉も怒ると周りを見ることが出来なくなる質であった。
「確かに約束破ったのは悪いが、そこまでムキになって怒ることは無いだろ!?」
一哉は勢いに任せて、出て行こうとする一耶の肩を掴もうと右手を伸ばした。
ぱしん!
平手打ちが閃き、一哉の頬を紅く染めた。
「何よ! あたしの気持ちも考えないで、ひとりでいい気になって!」
「……えっ?」
「あたしのことは放っておいてって言ったでしょ!
――あたしは……あたしは自分の世界に帰るンだから!」
平手打ちの軽い痺れも抜け切らぬうちに、一耶はそう怒鳴り付けて、外へ飛び出して行ってしまった。
後に残された一哉は、頬に残る熱さにも気付いていないみたいに、呆然とした顔で見送った。
「……バカはどっちだよ」
思い出したかのように憤る一哉。
「ああ、そうかい! どこにでも帰っちまえやがれ!」
既に一耶は、一哉の怒鳴り声が届かぬ一階玄関まで降りていた。
玄関を一歩出た所で一耶の足が止まる。
それは丁度、一哉が怒鳴った時だった。
一哉の怒鳴り声など、到底聞こえるハズが無い。
なのに、それに反応したように彼女の肩がわなないているのは錯覚か。
しばしその場で何かを待つように立ち止まった後、一耶は再び駆け出し、夜の帳に消えて行った。
* * *
東京・渋谷。
時刻は午後十一時半を回っていた。
あと三十分もすれば、まだ開店している店舗の殆どは風営法に従い閉店し、この街は眠りにつく。
若い息吹が終日溢れるこの街にも、やはり休息は必要であった。
しかし、この街を行き交う若者達は、街が眠りについても決して眠ろうとはしない。
まるで、街の代わりに起きていることが使命のように。
そんな人混みの絶えない渋谷のセンター街を、仮初めの昼に変えている街灯をも頑なに拒絶する闇が通り抜けた。
闇に包まれた絶世の美貌が、若者の流れを擦り抜けて行く。
漆黒のインバネスを纏う、類稀なる美貌を持つ闇。
〈探究者〉・紫剣木であった。
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