第6話 そして僕らは思い出話に花を咲かせる
ロランの運転するパジェロで一哉のマンションに戻った一行は、一耶が居候する為に買った生活用品類の整理を始めた。
室内の構成に関しては、既に買い物前にロランの提案で、部屋にカーテンで仕切りを入れる事に決めていた。たとえ同一人物であっても男と女。互いのプライバシーを守る事を尊重する提案に、意外にも一哉はすんなりと受け入れた。
「言っておく。確かに、俺は『女好き』と言われても否定はしない。
だが、ケチでは無いぞ。ましてや、俺と同じ顔をしていても彼女は女性だ。女性を蔑ろにする真似は絶対しない主義なんだよ」
「そうかい」
市澤は一哉に一瞥もくれず軽く往なす。憮然として睨む一哉は、この男に掛かっては、森羅万象を見極めた者でさえも歯が立たないのではないか、と独り思った。
天井に仕切り用カーテンのレールを取り付けた処で室内の整理も終わり、四人は市澤が注文した飲茶の宅配で夕食をとった。
「……夕飯を奢って貰っただけじゃ無く、蒲団まで持って来てもらって、何だか悪ぃな」
一哉は春巻を頬張りながら、申し訳なさそうに苦笑いして礼を言った。
すると市澤はお茶をすすり、
「シングルのベットしか無いのだろう。第一、二人一緒に寝ていて、一線越えたらヤバいだろう?」
「お、お前なあ! 誰がするか、そんな事!」
一哉は顔を真っ赤にして怒鳴る。そして隣座る一耶の方に向き、
「なあ、キミもそう思うだろ――?」
微かな吐息が聞こえた。一耶は箸を持ったまま、うとうとと舟を漕いでいるではないか。
「あら~器用な寝方だこと。まるで赤ちゃんみたい」
「ロラン、呑気に感心している場合じゃないだろう。彼女にとって、今日という日は緊張の連続だったのだ。良く今までしっかりしていられたものだ。もうベットで寝かせてやろう。一哉、今夜は彼女にベットを貸しても良いだろう?」
「……ああ」
一耶の静かな寝顔に、一哉の顔は思わず綻んだ。
「ふっ。自分の寝顔を見ているみたいで……本当、変な気分だよ」
「お前の寝顔に比べれば遥かに可愛い方だ」
「……何だよ、市澤。まるで見たふうに言うな? 俺、お前ん家に泊まり込んだ事も無いんだぜ」
訝って睨む一哉に、しかし市澤は無視してお茶をすすった。
「……ちっ、わざとらしく無視しやがって」
舌打ちする一哉は、やれやれと愚痴りながら、寝入ってる一耶を抱き上げた。
* * *
「それでは」
「またね」
一哉は、帰ろうとする市澤とロランをマンションの玄関まで見送りに来た。
「……色々世話になったな」
「気にするな」
にべもしゃしゃりも無い返答だが、それでいて一哉が腹立たしく感じないのは、市澤の今日一日の協力振りに、深く感謝しているからである。
「にしても、市澤がここまで色々相談に乗ってくれたなんて、未だに信じられないぜ。――何か俺、お前の弱みを握っていたっけ?」
「色々、とな」
パジェロの助手席から市澤は手を振った。
「一耶君には、明日朝起きたら、店に来るよう言っておいてくれ」
一哉が頷くと同時に、パジェロは発車した。
後方の明かりの中に立つ一哉の影が光に滲み、やがてその光も見えなくなると、ステアリングを握るロランは溜め息を洩らした。
「……ねぇ、未来。“例の話”だけど……」
「あの『世界』の事か?」
ロランは頷いた。
「夕方、支部に行った時、報告を受けたわ。……生存者、ゼロ――いえ、一名を除いて、全滅。観測班も、あんな酷い『世界』を見た事が無い、って言葉を失くしていたわ」
それを聞いた未来の眉尻がピクリ、と反応した。
ロランが困憊した溜め息を洩らすのと同時に、パジェロが急停車する。目の前の交差点の信号は赤信号だった。
「……支部長、あたしの報告を聞いて困った顔をしていたわ。――『特異点』をこのままにしていたら、何れ例の『探究者』は、この『世界』に現れるでしょうね」
「奴との対決は必然だな」
「何、呑気に言ってるのよ……」
一瞥もくれずに言う市澤に、ロランは苦虫を噛み潰した様な顔をしてみせた。
「言って置くけど、『特異点』はこの世界を破壊する力を秘めているのよ。――未来、奴は兎も角、彼女はどうする気なのよ?」
「知れた事。彼女を守り、『特異点』化を解除するまで、だ」
「気安く言ってくれちゃってさ……」
ロランが忌ま忌ましそうに呟くと同時に、信号が青になる。ロランは怒りに任せ、アクセルを蹴り込むように踏んで発車させた。
「――市澤未来。あなたに問うわ。相手は『世界』を味方につける途方もない力を持った怪物なのよ? そんなのを敵に回して、その上、どうやって『特異点』化を解除するのよ?」
「なんとかするさ」
市澤は、ヘッドライトに照らされる正面の闇を見つめたまま答えた。
やれやれ、と言ちたロランは、ステアリングを握り締めたまま、チラッ、と横目で傍らの青年を見遣った。
不安げに見るロランに気付いているのか、市澤は沈黙に徹していた。
その凛とした瞳が見つめているものは、果たして闇の奥なのか。
* * *
市澤とロランを見送った一哉が自室に戻ると、玄関脇の洗面所から、いつの間にかパジャマに着替え、寝惚けまなこで歯ブラシを銜えた一耶が、ふらっと現れた。
「おい、寝ついたんじゃないの?――あっ、それ、俺の歯ブラシじゃないか!」
「あら、そう?」
寝惚けたままなのか、一耶は平気で銜えたままでいる。
「あたし、寝る前は絶対歯磨きしないといられない質でね、歯ブラシ買い忘れていたとは思わなかったわ。――まあ、どうせ、あんたとあたしは同一人物なんでしょ? あんまりバッチイなんて気がしないわ」
「そんなモンか……」
小首を傾げた一哉だったが、その変な理屈に、何故か妙な説得力を感じ、まあ、良いか、と納得して三和土を上がった。
ベットを一耶に貸した一哉は、市澤が用意してくれた敷き布団をフローリングの床に敷き、寝巻き代わりにしているスエットに着替えた。
着替えが終わり、一哉が布団に入り込もうとしたところで、歯磨きを終えた一耶が戻って来た。
「あら? あんたが敷布団で寝るの?」
「まあな。今日一日、色々あって目茶苦茶疲れているだろうから、固い床よりベットの方が良いと思ってな」
「それはあんたも同じじゃない」
「気にすんない。俺は『女性には甘く』をモットーにしているからな。たとえ、別の世界の自分でも、な」
気さくな笑顔で言う一哉に、一耶は少しばつの悪そうな顔をしてみせた。
「……御免ね。本当なら、居候のあたしがそっちの布団を使うのにね」
「良いって、良いって。――おっと、俺も歯、磨いてこよっと」
思い出した一哉は布団を跳ね起き、戸惑う一耶の横を擦り抜けて洗面所に入った。
一哉は口を水道水で一回うがいし、徐に、洗面所の壁を水平に走る水道のパイプに挟んであった一本きりの歯ブラシを握った。
鼻唄混じりに、歯ブラシの毛にチューブ入り練り歯磨き粉を付け、歯を磨き始めたところでふと、歯ブラシを握る一哉の手が止まった。
(……あ。これって、さっき彼女が銜えていたんだっけ)
他の奴が歯磨きに使っていたのを、銜えちまった――のだが、何故か一哉は、嫌悪感を覚えていなかった。
「……成る程。変だが、確かに、バッチイ気分がしない。――けど、これって間接キスだよな」
一哉は思わず赤面する。
「――莫迦莫迦莫迦! 何、阿呆な考えしてンだよ! 餓鬼か、俺は! あの娘は俺自身なんだぞ!」
一哉は歯ブラシを銜えたまま、慌てて頭を振り乱し、莫迦な思いつきを振り払った。そして勢いよく歯を磨き始め、一通り磨き終えると、洗面器の蛇口を上に向けて水を噴水よろしく勢いよく吹き上げさせ、歯磨き粉の溜った口内を濯いだ。
口の回りにこびりついた歯磨き粉を顔を洗って落とし、タオルで拭き終えると、一哉は布団を敷いた居間に戻った。
一耶は仕切りのカーテンを引かず、ベットの上に膝を抱えて腰を下ろし、窓から外の夜景を見ていた。
「未だ、寝ていなかったのか」
一耶は外を見たまま、応える。
「……変に、目が冴えちゃってね」
「ふ~ん。でも、その窓から見える景色はあちらの世界と同じなんだから、外なんて珍しくないだろ?」
「……うん。でも、何か、昔を思い出しちゃって……」
「昔?」
「上京して、初めてこの部屋に入った最初の夜、の事」
「最初の夜……」
寂しげに答える一耶に、一哉は、自分が最初にこの部屋で寝た夜の事を思い出した。
「……あの夜と同じ。――とっても静かで、少し怖かった夜だったわ」
虚ろげに、しかし感慨深く言う一耶のあの夜の感想を、一哉も直ぐ思い出せた。
忘れていた。――思い出したくなかった、と言う方が正解なのかも知れない。一哉は憮然として、一耶と同じく窓の外を見つめた。
「……俺も、だ。初めて親元を離れて独り暮らしを始めるのが、始めは旅行気分でいたのに、いざ、床につくと、この静けさが嫌になったんだよな」
「ねぇ、それって、直ぐ近くに墓地があっておばけが出るんじゃないかな、って考えたからじゃない?」
「……ああ。キミもかい?」
「うん」
頷くと、一耶は一哉の方に面を向け、
「――その後、急にトイレに行きたくなって行こうか行くまいか、暫く考えていたでしょ?」
「……あたり。――ああ、同一人物なんだから、知ってて当たり前か」
当たり前の事実に気付いた二人は、同時に破顔した。
「そうよねぇ。じゃあ、家を出る前、駅に着いたら財布を忘れていた、何て事は?」
「当然! なら、駅で駅弁買おうとして、駅弁売りのおばちゃん呼んだら、運悪く電車が発車しちゃって、お釣り貰い損ねた事は?」
「そうそう! あの時はおばちゃんがお釣り握り締めて慌てて追い掛け始めてね。気の毒だったけど、変に必死になっていたおばちゃんの真っ赤な顔が可笑しかったわよね」
「おいおい、お釣り貰い損ねた俺らは、気の毒じゃないのかい?」
「そういや、そうよね」
納得しあった二人は、再び破顔した。それも、前よりも屈託の無い、安心し切った笑顔で。
今の会話を口火に、二人の共通の回想が始まった。高校の友人の失敗談や昔好きだったTV番組や歌、更に子供の頃の色あせ掛けていた思い出が、もう一人の自分が語る同じ思い出と重なり合い、鮮やかな色を取り戻し始めた。
独り故郷を離れてもう二年。
些細な、自分だけが知っていて、知らない者が聞いても余りつまらない他愛ない昔話に、「そうそう」と笑って応えてくれる者がいる事が、今の今まで居なかった二人にとって、その存在がこれ程心地良いものだとは、思いも寄らなかった。
結局、寂しかったんだな。
((この人となら一緒に暮らして行けるな)
出会ってから既に15時間。短いようで長かった、目まぐるしく不思議な一日は、もう新しい日付に変わろうとしていたが、思い出話に談笑する二人のかずやにとって、この初日が終わるには、もう暫く時間がかかりそうであった。
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