第2話 注文の多い喫茶店の主人

 東京・広尾。

 都内有数の高級住宅区域であり、比較的、大使館が多く存在する地域でもある。

 天気の良い日にこの辺りを散策すると、日本人よりも異邦の人々とすれ違い易く、それでいて、彼らの存在に違和感を感じさせない不思議な街である。

 北に赤坂・六本木、南に恵比寿・白金へ続き、西に渋谷区、東に港区と分ける外苑西通りに面した一角に、一軒の喫茶店がある。

 『クロノス』。

 その喫茶店の名前である。ギリシア神話に出て来る、時間を司る神の名と同じだが、名の由来には特に関係が無いらしい。

 クロノスは、『お茶』を売りにしていた。

 セイロン・ダージリン等をストレートに煎れたブラックティー。ルシアンティーやミルクティーといった煮込み式紅茶。そして烏龍茶に緑茶といった東洋の銘茶や、果ては紅茶キノコまでメニューに載っており、各界の紅茶通には有名な店であった。

 その店の前に、一組の男女が並んで佇んでいた。

 右が、永間一哉。

 左が、永間一耶。

 二人の『かずや』である。

 意見の一致した二人が、大学を後にしてこの店の前にやって来たのである。

 二人は憮然として、『クロノス』の入口の扉の前に立っていた。

 『本日臨時休業』。

 そう書かれている白地のアクリルプレートの札が、強く叩けば砕けそうな年季の入った木製の扉に掛けられていた。


「……あの野郎、昨日が定休日だった癖に、今日もサボりやがる気か?」

「彼の気紛れは今日に始まった訳じゃ無いわよ」


 忌々しげに言う一哉に、一耶は肩を竦めて愚痴を洩らしながら宥めた。


「中に入りましょ。何の道、彼は滅多な事では遠出しないから、きっと店の中に居るわよ」

「そうだな」


 頷く一哉は、休業の札の掛かった扉のノブに手を掛けた。

 扉はバイオリンの弦を引き損ねた様な耳障りな音をして開き、遅れてドアベルの鳴る音が聞こえた。休業の札が掛かっていても、扉に鍵が掛かっていないのは、常連の者なら誰もが知っている事である。


「……幾ら金目の物を店内に置いていないからと言って、ここまで不用心だと腹が立つな」


 一哉は、薄暗く静まり返った無人の店内を見回してぼやく。


「まあ、店の主人の趣味が高じて形になった粋狂の店だから、根本的な損得勘定が彼の頭の中に存在していないしね」

「しかし、ここまで他人を信頼しているのは大物の証明か。――それとも只の間抜けか」

「きっと両方よ。――何を今更」

「そういや、そうだ」


 二人の『かずや』は顔を見合わせて失笑した。数時間前の、正体不明のもう一人の自分を訝る困惑が嘘のように、いつの間にか二人は、気の合った友人同士の様な会話を熟している事を気付いていない。

 扉を閉めて店内に入った二人の『かずや』は、目を細めて薄暗い店内の至る所を見回した。

 人一人居ない、薄暗い帳の中に眠るように在るスチール製のテーブルや椅子、そしてラワン製のカウンターには、まるで新品のように埃一つ無く、店内の手入れはしっかり行き届いていた。粋狂の店と影口を叩かれても、飲食業の最低マナーだけは守っている様である。

 店内に、二人の『かずや』以外の人の気配は伺えなかった。


「くそったれ。あの野郎、珍しく居ない。ここの定休日が休講と重なった日でも、大概ならカウンター辺りで本を読んでいたりするハズなんだが……」


 一哉は髪を掻き毟りながらカウンターの椅子に腰を下ろし、不満混じりの溜め息を洩らした。


「店内に隠れていないとすれば、後は裏の自宅かしら?」

「かもしれん。行ってみよう」


 頷く一哉は椅子から腰を上げ、一耶と共に外へ出る事にした。

 二人がカウンターを背にした瞬間、奥の方で音も無く銀色の閃光が走ったが、二人は気付きもしなかった。


「誰かお捜しで?」

「ええ、あたし達より奇妙な男に会いに――え?」


 二人の『かずや』は慌てて振り返った。

 今の問い掛けが聞こえた、無人のハズの背後の店内に。

 一人の青年が、カウンターのストゥールに腰を下ろして二人の方を見ていた。

 白のジャケットと洗いざらしのジーパン姿の青年だった。無駄の無い均等の取れた精悍そうな四肢を備え、少し癖のある黒髪の長髪を冠する彼の顔は、日本人にしては珍しく彫りの深い造りをしている。しかし下品にならない程度に微妙かつ絶妙なバランスで組まれた目鼻立ちは、世間で人気の二枚目俳優達なぞ足許にも及ばぬ逸品であった。

 惜しむらくは、その美丈夫ぶりに今一つ緊張感が欠けている事であった。あと少しだけ努力すれば報われるその惚けた美貌は、その中途半端さ故に罪作りにさえ感じられる。

 二人の『かずや』は、椅子に腰掛ける美丈夫を見て唖然としていた。

 しかし、その美貌に、ではない。

 一哉は、間違いなく確かに、ほんの数秒前まで、青年が今座っている椅子に腰を下ろしていたのである。


「この店が不用心だって事は承知だ。粋狂で店を経営している事も認めよう。

 しかし、間抜けと言うのは戴けないな。――まぁ、絶対そうではない、とは言い切れない所も、僕自身、感じてはいるがな」


 何と、この青年は、二人の『かずや』が店の扉を開けた時の会話から聞いていたのである。

 しかし、この人気の感じられなかった店内の何処で聞いて居たのか。果たして、物音一つせずに、何処から現れたのか。


「どうかしたのか?」


 唖然とする二人を前に、青年は二人の顔を伺いながら声を掛けた。男性特有のハスキーさはあるものの、耳障りなものではない。

 しかしその言葉付きは、この芒洋とする青年に余り似つかわしくない冷淡さが際立っていた。そのあまりの冷淡ぶりに、唖然としていた二人の各々の眉が同時に顰まる。

 青年は、二人がそういう反応をとる事を承知だったかのように、したり顔を造って失笑した。


「……何だ、カズヤたちではないか、珍しい」


 青年は実に呑気そうに言った。


「「はぁあ?」」


 二人の『かずや』は再び唖然とする。目の前の友人が、他の者のように、男と女の『かずや』が居るこの光景に困惑する様な反応を全く見せていないのである。


「……市澤……お前、何とも思わなンのか、俺達を見て?」


 一哉は戸惑いながらも訊いてみた。


「ん? それがどうかしたか?」


 市澤は、きょとんとした顔で訊き返した。


「「――――――A?」」


 予想を遥かに逸脱したその反応振りに、二人の『かずや』は思わず頭を抱え込んでしまった。


「「――アホか、お前わ? 男と女の『ナガマカズヤ』が目の前に存在するこの異常現象に全く気付いていないのか!?」」


 二人の『かずや』は、市澤を睨み付けながら互いの顔を指差し、声を揃えて叱咤した。

 だが、市澤はそれに臆する事なく、憮然として腕を組んだ。


「阿呆、とは失礼な。気付いているからこそ『カズヤ“たち”ではないか、珍しい』と言ったのだが」

「「……あの……なぁ」」


 呆れ返る二人の『かずや』は、筆舌しがたい疲労感に見舞われた。


「因みに、僕は昨夜は所用で徹夜していて非常に眠い。もし、お前達が眠気から来た幻覚だったら、とっとと消えて無くなってくれ。現実なら、早く用件を済ませてほしい。――それだけだ」


 途方に暮れる二人を前に、市澤は早く相手を追い払いたいのか、しっしっ、と目障りそうに手を振り払いながら冷淡に言って見せた。


「……こんな男だって事は承知していたけれど……好い加減、腹立たしいわねぇ」


 一耶は市澤を睨み付けてぼやいた。一哉もその隣で、うんうん、と苦渋の色を見せて頷く。

 そんな二人を見て、市澤は破顔した。


「……どうやら、現実の様だな」

「「……白々しい事言いやがって」」


 二人の『かずや』はステレオで愚痴た。


「さて。何かお困りかな?」

「「……見りゃ判るだろ」」


 二人の『かずや』の米噛みが同時にピクピクと脈打っていた。


「今のお前達に何か困る事が在るのか?」


 きょとんとした顔で訊く市澤に、二人の『かずや』も、とうとう堪忍袋の緒が切れた。


「「――市澤! お前、本当に事態を把握しているのか!?」」

「頼むから、ステレオで怒鳴らないでくれ。近所迷惑だ」


 馬耳東風を体現する青年を前に、二人の『かずや』は気勢をそがれて、その場にヘナヘナとへたり込んでしまった。


「「…………何で、こんな野郎と知りあっちまったんだろう……?」」

「とんだ災難だな」

「「涼しい顔で言うな!」」


 声を揃えて怒鳴る二人だが、もはやこの強敵に反撃出来る程の覇気は残っていなかった。


「……はあ」


 一哉は弱々しく溜め息を洩らし、


「……何で、今の俺達に困る事が無いんだ?」


 力無く訊く一哉の問いに、未来はきょとんとして小首を傾げた。


「異な事を? ――『自己愛主義者』のお前にピッタリの相手が出来たのではないか?」

「じょ、冗談じゃないわよ!」


 立ち上がりように怒鳴ったのは一耶の方である。


「誰がこんな、朝、鏡の前に立って、自分の顔を見て喜んでいるヤツなんか!」

「何だとぉ?」


 一哉もやにわに立ち上がり、隣の一耶を睨み付けた。


「お前こそ、風呂上りに等身大の鏡の前で色々ポーズをとって陶酔なんかしているんじゃ

ないのか?」

「な、何で知っているのよ!?」


 一耶は思わず瞠って赤面する。


「――ふん! 何さ、あんただって中学生の頃に、風呂上りの後、三時間も見蕩れて肺炎になり掛けた事があるンじゃないの?」

「な、何でそれを――!?」


 一哉も思わず瞠って赤面する。


「――う、煩ぇ! お、お前こそ、高校の頃に周りの者には大切な人の写真、とか言って、実は手前の写真をパスケースに入れてたりしていたンじゃないのか!?」

「うっ――な、何ですって!あんたなんか!」

「ええい!お前なんか!」


     *     *     *


この後、三十分間にわたり、互いの、しかし自分のナルシストぶりの暴露合戦が繰り広げられる。


     *     *     *


「「ぜーはぁ……ぜーはぁ……!」」


 二人の『かずや』は、この上ない不毛な舌戦に疲れ果て、いつしか喘ぎながら只、相手を睨み合っていた。

 その傍らで、市澤は無表情のまま、否、呆れ果てているのであろうか、沈黙をもって二人を見ていた。


「……止めよう。余りにも不毛過ぎる」

「……ええ」


 二人の『かずや』は、困憊の色に満ち溢れた貌を縦に振って、意見を合致させた。


「ちぇ。もう、終わり?」


 市澤はつまらなそうに訊いた。


「「――市澤! 黙って聞いていやがって! 何故、仲裁しようとしなかった!?」」


 市澤のあまりにも無神経な態度に、二人の『かずや』は傍らの傍観者を同時に睨み付けて怒鳴った。


「二人とも、止めてくれ、とは言わなかったが」


 市澤は澄まし顔で意地悪そうに応えた。


「「お前なぁ……」」


 とどめ、と言わんばかりの、眩暈すら覚える程の虚脱感に見舞われた二人の『かずや』は、その場に再びヘナヘナとへたり込んでしまった。

 市澤はそんな二人を見て破顔する。人懐っこそうに見える彼の笑顔は、しかし見る者によっては悪魔がするシニカルな微笑を思わせた。少なくとも、へたり込む二人にはそう見えていた。


「……さて、お遊びはここまでにしよう」

「「オノレはなぁ……!」」


 市澤を睨む二人の眼差しに、その役目を果たせる程の迫力は欠けらも無い。


「まあ、いきり立つなって。――君達の用件は、皇南学院大学で自然心理学を専攻するこの僕に、この異常かつ愉快な現象を解明してほしいのだろう?」

「「愉快は余計だ!」」


 怒る気力も無い二人の『かずや』は、ワザらしく説明調なその口調につい苦笑いしてつっ込む。


「――しかし。今の俺達には、異常を異常と思わぬお前の様な男しか頼れンのだ」


 一哉は深い溜め息を洩らした。


「……そもそも、何であたし達が存在しているのか、それを理解したいのよ」

「簡単至極。お前達の両親がエッチしたからだ」

「「そう、その通り――違うって!」」


 二人の『かずや』は市澤の惚けた答えに思わず安易に合点し、掌を叩いて頷き掛けた処で我に返り、肩をわななかせてつっ込む。


「俺達が知りたいのは、何故、男と女の『ナガマカズヤ』が存在――?」


 不意に、一哉の顔に何かが閃く。

 何か大事な事を思い出した一哉は天を仰ぎ、やがて隣の一耶の顔を経由して、市澤の顔を見つめた。


「……おい……一つ、訊いても良いか?」

「どちらが綺麗な顔か、かい?」


 一哉の真剣な問い掛けに、しかし市澤は意地悪そうに、にやり、と口元をつり上げる。


「……!」


 一哉の口元に引きつった笑みが浮かぶ。だが一哉は、不真面目なカウンセラーに素直さを求める事を諦めていたので、敢えてとがめる事はせず、そのまま話を続けた。


「……市澤。お前の認識っている『ナガマカズヤ』って――『男』なのか、それとも『女』なのか?」

「…………?」


 訊かれて、市澤は沈黙を守った。ぽかんとするその顔は、どうも一哉の言っている意味を掴みあぐねている様子である。

 一哉は無視して話を進めた。


「俺達は、この異常な現象に対して、自分達の目で見た事ばかりに気を取られ過ぎていた。――他人の目から見た、『ナガマカズヤ』に対する認識をもっと早く確かめるべきだったンだ!」

「そ……そうよ!」


 一耶が相槌を打った。


「彼もあたしも、自分から見た周りの環境は一致していたわ」


 そこまで言うと、一耶は慌てて頭を振り乱した。何かを思い出した様である。


「――否。正確に言えば、自分の部屋を除いて、だったけどね」

「……ああ。思えば、この事に気付けなかったのは、あの部屋のあまりの変わりように混乱してしまったからに違いない」


 二人の『かずや』は同時に溜め息をついた。



 今朝、二人はベットの上で暫く唖然と見つめあった後、思い出したように周りの室内を見回した。

 いつも見ている光景である。

 それでいて、見知らぬ光景でもあった。


「確か……俺、ドレッサーなんか買った憶えなかったよなぁ……?」

「確か……あたし、本棚なんか買った憶えなかったわよねぇ……?」


 そう洩らした後、二人は本棚とドレッサーの間に挟まれるように置かれた洋服タンスを見遣った。

 二人は無言のまま、吸い込まれるように洋服タンスの前に立った。そして徐にタンスの一番上の引き出しに同時に手を掛け、同時に引いて開けた。

 引き出しの中味は御丁寧に、男物と女物の下着が左右半分づつ収まっていた。

 あまりの事に当惑して眉を顰めた二人は、下の引き出しを次々と開けてその中味を確かめた。しかし、どの引き出しも一段目と同じように、左右に分かれて男物と女物の衣類が収まっているのだ。

 二人とも、各々見覚えのあるハズの自分の部屋が、まるで別の世界のものになってしまったのではないか、と途方に暮れたのであった。



「――しかしあの部屋以外、互いの周囲の環境に対する認識は一致しているンだ!」


 怒声の様な一哉の声に相槌を打つが如く、一耶は勢いよく市澤の鼻先を指す。


「姓名、市澤未来。年齢、二十一才。同じ皇南学院大学に通う友人であり、そして本来この喫茶店『クロノス』のオーナーで、物理工学の権威でもある多忙な父親に代わって店を仕切っている。――間違いないわね?」

「YES」


 市澤はさらっ、と答えた。時代後れの受験用英語をも碌に使いこなせない日本人には大凡口にする事が出来ない、実に綺麗な発音であった。

 大使館や外資系企業の社屋が多い土地柄もあるのだろうが、一哉は以前、この喫茶店の主人は、この店でアラブの資産家とドイツ人のビジネスマンの、雲行きの怪しくなった商談に口を挟み、見事とりまとめてしまった事を思い出した。その時確かに市澤は、その二人の出身国語を操っていた。


「よぉし。――ならばこそ、お前なら、『ナガマカズヤ』が『男』か『女』か、答える事が出来るハズだ!」

「さあ、答えて!」


 二人の『かずや』に詰め寄られる市澤。

 だが、そのツーショット攻撃に彼は動じる素振りも見せず、ひょうひょうとして寛いでいる。


「さあ!」

「さあ!」


 市澤は解答を急かされる。

 間も無く、彼の右手が上がり、無言で一方を指して頷いた。

 指したのは、『女』の方である。


「そ――そんなあぁ!?」


 運命の審判を受けた一哉の顔色が見る見るうちに青ざめて行く。全身の血液が足下から滝の如く流れ落ち、代わりに込み上げて来た疲労感と倦怠感が身体中の血管を駆け巡る姿が脳裏を奔ると、力無く倒れ込むように前に出て、市澤の胸倉を掴んで縋り付いた。

 安堵の息をついた一耶だったが、ふと見た、崩れ落ちた一哉の後ろ姿に、何故か理解出来ない戸惑いを覚えていた。

 問題が解決したと言うのにどちらも喜ばず、気の合ったように落ち込む二人の『かずや』を見遣り、冷淡な審判官は破顔した。


「……そろそろ、『男のカズヤ』に飽きが来たから、丁度良い機会だと思ったのだが」

「……え!?」


 今度は、一耶が色めき立った。


「一ちょっと! 今、あたしを指したんでしょ?あたしが本物なんでしょ!?」


 一耶は一哉を押し退けて市澤の胸倉を掴んだ。

 しかし、市澤は相変わらずの冷笑を浮かべて頭を振ってみせた。


「悪いが、僕は彼に結構なツケが溜まっているんでね。それをきっちり払って貰うまでは見捨てるわけにはいかない」

(……何つ~言い種をしやがる――!)


 傍らに佇む一哉は飽気にとられながらそう思った。


(鬼畜、って本当にいるんだな)


 その鬼畜は、一哉の方を見て困ったふうに肩を竦めた。その仕草さえ、業とらしい。


「ははは……此所は誰? 私は何処?」


 ショックの余り一耶は放心し、市澤の胸倉を左手で掴んだまま、その場にへたり込んでしまった。俯き加減に、薄目だが魅惑的な唇の透き間から洩れる呟きは、己のアイデンティティーと共に心まで失ったショックを如実に物語っていた。

 その彼女と対照的に、否、先刻のそれと全く入れ替わった立場に置かれた一哉も、漸く己の身元が保証されたにも拘らず、自我崩壊し掛けているもう一人の自分の姿を見て、心が痛んでいた。

 先刻の一耶もそうだが、別に数時間前に知り合ったばかりの相手に気兼ねして、喜びにくかったのではない。

 只何となく、相手の悲しみが判る様な気がしただけであった。双子の間には、感情を共有出来る力があると言う説があるが、相手が余りにも自分に似過ぎている場合にも、同様な事が生じるのであろうか。


「……ところで、一哉?」


 不意に、一哉の方を見ていた市澤が真顔になった。

 その顔は、一哉も滅多に見た事の無い、真面目な表情をしていた。一哉はその表情に、何か裏があるのではないか、またからかわれるのではないか、と勘ぐった。

 だが、己を見る一対の黒瞳は、そんな猜疑心をも吸い込んでしまいかねない位、澄み切っていた。


(……何だ……まるで深い海……否、宇宙の果てを覗き込んでいる様だ……)

「どうした、一哉?」


「!」


 市澤の声に、一哉は、はっ、と我に返る。市澤の顔を見ていたハズが、いつの間にか逆にその深く澄んだ瞳に魅入られていたのだ。


「……あ、何でも無い。――処で、何だ?」

「彼女とは何処で逢った?」


 一哉の動揺を知ってか知らずか、市澤はにべもなく訊いた。


「……えっ?あ、ああ、今朝、俺が起きた時、部屋のベットで寝ていたンだ。彼女は自分の部屋で一人で寝ていたハズだ、と言っていた。俺も確かに――自信は無いが、一人で寝付いた記憶がある」

「そうか。他に、起きた時に何か変化は無かったか?」

「ああ、あったよ。朝起きたら、俺の部屋に彼女の持ち物がデン、と居座っていやがった。俺の持ち物が半分消え失せてて、その代わりに彼女の持ち物が半分現れたンだ。中には、タンスが半分づつ分かれて俺と彼女の下着が入っていた、なンてのもあったぜ」

「ほう」


 感心したふうに呟いた市澤は、腕を組んで頷いた。


「成る程。――どうやら『特異点』に当たった様だな」

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