第1話 俺がアイツで あたしがアイツで

 永間一哉は、東京の残暑も矢張り暑い、と言う事を再認識した。

 知り合いから譲り受けたエアコンは、今は全く稼働していない。眠りについた頃は稼働していたハズだった。寝ている間に、故障して冷風を送る事を止めたのに違いない。外の暑さを知らずに気持ちよさそうに寝ている一哉を見て、休む事を許されずに一生懸命に送風ファンを廻さなければならなかったエアコンは、腹立ち紛れにストライキでも起こしたのか。


「……畜生、暑ぃ!」


 舌打ちする一哉は、掛けていたシーツを剥ぎ、左掌で寝汗塗れの顔を煽った。

 寝起きで少々締まりがないものの、一哉の顔はなかなかの男前である。その反面、女性的なラインも兼ね備えた中性的なフェイスは、彼が足げく通う渋谷で名うての『ナンパ師』と言われている一哉の武器の一つであった。


「どうしてこう、東京の夏は矢鱈と蒸し暑いんだよ! 信州に居た頃の夏は、こんなに酷くは無かったぜ……!」


 不慣れな熱帯夜が開けた朝、一哉は暑さを凌いでいる犬のように舌を出して愚痴た。

 東京の大学に合格し、細やかな大志と、膨れ上がった大都会への希望を胸に上京してから、三度目の夏であった。

 こんなふうに暑い熱帯夜があった次の朝程、暑がりの一哉は流石にヘビーな挫折感と、木漏れ日の眩しい心地よい夏がある故郷への細やかな慕情を覚えるのであった。もっとも、流石三度目だけあってか、娯楽の少ない故郷より東京で我慢している方が良いと思うようになっていた。


「……う……ううん……」


 バテる一哉の傍らで盛り上がるシーツの下から、若い女の微唾みの呷きが聞こえた。


「ん……居たのか?」


 一哉は未だ眠い目を擦りつつ、背後の同衾相手の方に身体を向ける。

 彼女はシーツの下で、一哉に背を向けて寝ていた。何も付けていない裸体のその背は、一哉同ように寝汗に塗れ、それと対面にあるブラインドの透き間から溢れる朝日を受けて淡く照り返っていた。


「……御免な、エアコン、寝てる間に故障したみたいなんだ。暑かったろ?」


 一哉は彼女に優しく声を掛けた。

 ――刹那、その顔が強張った。


「……誰だっけ?」


 一哉には、同衾相手のその後ろ姿に見覚えが無かったのである。


「……今日子……じゃあ無いな。昨晩はあいつと飲んで喧嘩別れしたからな。第一、あいつの髪は俺の髪みたいにこんな癖っ毛のあるショートじゃ無くって、肩まであるワンレングスだし。――まさか、行きずりの女と!?」


 一哉は、血の気が引く音が聞こえた様な気がした。

 だが、その青ざめた顔は、直ぐに血色を取り戻した。


「……まあ、いいや。酔っていても、美人以外に声をかけない自信があるからな。どれどれ、そのお美しいお顔を御拝観――」


 所詮、『気がした』だけであった。『無類の女好き』、と周りから悪態をつかれる一哉であるが、その病気を治す気は全く無さそうだ。

 一哉が彼女の顔を隠すシーツの端に手を掛けようとした時、シーツの下にいる彼女も微唾みから目を覚ました。

 彼女は気怠そうに裸の上半身を起こし、半開きの眼を手で擦りながら一哉の方を見る。


「「…………?」」


二人は互いの顔を見合わした。

その途端、双方の顔に驚愕と困惑の混色が入り乱れ、ほぼ同時に背後へ飛び退いたのである。


「「――-誰だ、あんた!?」」


二人とも、同時に叫んだ。一句の狂いも無く、高低の違いのみの悲鳴は、見事なまでにハーモニーを奏でた。

暫しの沈黙。やがて二人とも、互いの顔を食い入るように見つめ合うようになっていた。


「……でも……まさか……?」


一哉は飽気にとられたように呟いた。


「……けど……確かに……?」


彼女も飽気にとられたように呟いた。

そして、二人は同時に深呼吸し、息を飲んだ。余りの緊張感に生じた静寂は、ごくり、という音を、雷鳴が轟くが如く大きく聞こえさせた。


「「俺(あたし)と同じ顔だ!?」」


ぴったりと息のあった驚嘆の声が、室内に響いた。


「……いったい……あんた何者なんだ?」


狼狽しながらも、一哉は恐る恐る訊く。

すると、女の一哉は細目の眉を顰め、


「……失礼ね、人に名前を尋ねる時は、先ず自分が名乗るものよ!」


きつい口調で怒鳴られた一哉は一瞬、むっとするが、彼女の言い分ももっともだったので、従う事にした。


「……俺は永間一哉だ」

「?!」


一哉が名乗ると、彼女の目が思わず瞠る。


「……ナガマカズヤ?――何の冗談よ!」

「……俺の名が冗談?――ふざけるな!」


余りの事に、一哉は怒鳴りながら右平手でベットの上を叩いた。その勢いでベットは一瞬波打ち、二人の頭頂は震動に従順して入れ替わりに天井を突いた。


「さあ、俺は名乗ったぞ! 次はあんたの番だ!」


怒鳴る一哉に、すると彼女は、何やら考え事をしているのか、小首を傾げて暫し沈黙した。

そして、一回深呼吸して答える。


「……あたしの名前は、『永間一耶』。何の偶然だか知らないけど、あんたと同じ名前よ」

「な――――?」


一哉は彼女――一耶の返事に唖然となる。


「顔も……名も……同じ!?」

「……違うのは……性別ぐらい……よね?」


戦慄すべき現実が、同じ顔をして己の顔をまじまじと見つめていた。二人は飽気にとられたまま、ベットの上で、じっ、と相手の顔を見据えるだけしかなかった。


     *     *     *


 あれだけうだるように暑かった熱帯夜は、どうも一哉の部屋だけだった様である。

 雲一つない青天であるにも拘らず、気温も二十四度ぐらいしかなく、昼過ぎも後、三度位しか上がらない――と、最近お気に入りのTVの美人の天気予報官が笑顔で語っていたのを、一哉は思い出した。

 港区・三田にある、一哉が通う、都内で屈指の名門校である『皇南学院大学』が面する桜田通りの交通量は珍しく少なかった。いつもの様な、むせ返る排気ガスに悩まされず何処からか訪れた細やかな秋風に、一哉は何となく心地よさを覚えていた。

 なのに、一哉の不機嫌そうな顔は晴れていなかった。

 一哉と肩を並べて歩く、隣の女性もそうである。

 肩や胸元を露出するデコルデの上に薄手のジャケットを羽織り、ミニのジーンズのタイトスカートといった服装の上下のカラーリングは、白のTシャツにライトブルーのジャケットを羽織り、やや色褪せた青のジーパン姿の一哉と全く同じである。事情を知らぬ者から見れば、ペアルックの恋人同士と思うだろう。

 癖っ毛の強いショートの髪の先が風に震えるように靡いている。少し強まった日差しに鮮やかに煌めくそれは、羽根の様な軽さを持った、手入れの行き届いた綺麗な髪だった。ボーイッシュな顔立ちをしているが、聡明そうな一対の瞳と目鼻立ちの整ったその綺麗な顔は、間違いなく美人の部類に入るハズだ。

 惜しむらくは、その綺麗な顔を一哉と同じように憮然としている事だった。

 否、その顔の造りまでが、一哉と全く瓜二つだった。

 永間一耶、である。そう名乗っているが、今の処、証明出来るものは何も無い。

 一哉は、北品川に在る下宿のワンルームマンションからずっと無言で肩を並べて歩く彼女を時折、横目で見遣った。

 そんな一哉を、一耶も気付いていた。彼女も同ように、時折、一哉を見遣っていたからである。

 無論一哉も、一耶が自分の様子を伺っている事に気付いていた。二人してずうっと、交互に相手を伺っているのである。

 自分と同じ顔――もっとも、男女の違いから来る微妙な差は辛うじて認められる。例えるなら、男女の双子が持つそれである。――を持つ、もう一人の異性の自分が気になって仕方がないのだ。

 それでいて、二人とも相手を意識していると悟られたくなかった。言葉も交わさず、時折横目で伺いつつ、前を向いたまま、肩を並べて同じスピードで歩く同一の顔の男女は、端から見ても物凄く不気味だ。

 やがて二人は、『皇南学院大学』の門を同時に潜り抜けた。


「……ねぇ、あれ……?」

「……何だとぉ?」


 周りを歩いていた他の学生達は、性別以外瓜二つの二人の『かずや』に気付いてざわつき出した。

 その静かな声に気付いた二人の『かずや』は、同時に眉を顰めた。


「……おい。何であんた、俺と同じ方向へ歩いているんだ?」


 堪り兼ねた一哉は、顔を合わせず前を向いて歩きながら訊いた。

 一耶は困憊し切った溜め息を洩らし、


「……それはこっちの台詞よ。何であんた、あたしの大学に来るのよ?」

「冗談言うない! 此処は俺の大学だ!」


 一哉は立ち止まって、一耶を睨み付けて怒鳴った。


「何、寝言ほざいているのよ!」


 一耶も立ち止まり、一耶の鼻先を右人差し指で指して怒鳴り返した。


「あたしはこの大学に三年通っているけど、あんたみたいな得体の知れない野郎なんか、一度もお目に掛かった事は無いわよ!」


 口汚く罵られて、一哉は顔を真っ赤にする。


「当たり前だ!俺も、あんたみたいな女、逢った事もねぇよ!」

「何ですって!?」

「何だとぉ!?」


 顔を真っ赤にして睨み合う二人の『かずや』。まるで親の仇を目の当たりにしている様な緊迫感が漂っているが、それでいて何となく、気晴らしに鏡越しに独りで睨めっこをしている様な滑稽さも感じられる。

 そんな奇妙な対峙を中心にして、二人の『かずや』は、いつしか好奇と戸惑いの眼差しをくれる同窓の野次馬の黒だかりが包囲している事に気付いた。


「「……!」」


 二人の『かずや』は、疲れ果てたように睨み合うのを止めて項垂る。そして同時に大きく深呼吸をして、不快の色を面にした。

 ほどなく、噴き上げる様な勢いで上がった二人の顔が百八十度回転し、


「「――見せ物なんかじゃ無いぞ! 失せろ!」」


 高低揃った、絶妙なタイミングで飛び出た罵倒の声は、周囲の野次馬の黒だかりを追い払うのには絶大な効果があった。罵声の余韻がかき消える前に、二人に圧倒された野次馬達は、宛ら蜘蛛の子を散らすように、駆け足で方々に逃げ出して行った。


「「ぜ~は、ぜ~は……」」


 周囲を未だ睨み付けている二人の『かずや』は、力一杯怒鳴った為か、肩で息をしていた。

 やがて、荒い呼吸も整うと、二人は再び向かい合った。

 だが、目の前に同じ顔があるのがそんなにショックなのか、思い出したかのように一層困憊し切って、がっくりと項垂れた。


「「…………はあぁぁぁぁぁぁぁぁ」」


 何とも締まりの無い溜め息である。それを耳にした者も、とてつもない疲労感に見舞われる事は間違いなかろう。


「……全く、何でこんな奇妙な目に合わなけりゃならないんだ?」

「……本当、何でこんな奇妙な事が起きたのかしら……?」

「「――『奇妙』?」」


 突然、二人は素っ頓狂な声を揃えて上げ、顔を上げて見合わせた。


「「そうだ! こんな奇妙な出来事は、もっと奇妙な奴に解明してもらうに限る!」


 二人の『かずや』は、互いの顔を指して納得したように、うんうん、と頷き合った。


「「市澤に相談してみよう!」」

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