双世記

arm1475

序 

 静寂すぎる闇を、一筋の銀閃が駆け抜けた。

 漆黒の深みをその閃光に撃ち抜かれた闇は、轟音を上げながら炸裂する。

 砕け散った闇を抜けて、高みより月明かりが降った。

 夜の帳の色に染まったコンクリートの破片が降り注ぐその中に、人影が一つ、佇んでいた。

 その面には、闇に決して溶け込む事の無い澄んだ瞳が月の光を受けて映えていた。

 瞳が瞬き、何かを捜しているか、ゆっくりと左右に揺れる。

 揺れる瞳には、只々深い闇のみが映えていた。

 その中央で、闇より濃い漆黒の影が蠢いた。

 視界に蠢く影を認めた人影は、透かさずその動きを覚えた方向に駆け出した。

 人影が走り行くベクトルの果てで、澄んだ瞳に捕らえられた影が闇に――高層ビルの森が、それを射落とさんと群れ集う下界をものともせず、気高い孤高さを誇って煌めく十六夜の月が支配する暗天に舞った。

 青白き月光が、二つの影を闇の世界から引きずり出した。

 一方は、周囲の帳の色に染まったかと錯覚する様な漆黒のインバネスを纏う人影で、両腕を宛ら荒鷲の羽ばたく様が如く広げ、暗天に舞っていた。

 もう一方、インバネスに狙いを定めし人影は、白のジャケットに洗いざらしのジーパンという、そこいら辺に居そうな普通の青年の姿をしていた。

 両者の相貌は、十六夜の玲瓏な光をもってしても、闇の中から浮かび上がらせる事は叶わなかった。二つの人影が月光に映えたのは一瞬だけであった。高層ビルの屋上で交差したその二つの人影が、常軌を逸した凄まじい速度で激突したからだ。

 二人は、この高層ビルの屋上で死闘を繰り広げていたのである。

 最後の激突後、インバネスは屋上の床に着地し、青年は浄化槽の上に舞い降りた。

 着地後、互いを求めて透かさず振り向き合い、暫し対峙する。

 月下に対峙する二人がいる屋上は、凄まじい破壊の跡が広がっていた。

 この二人の死闘によって、コンクリートの床には無数に縦横に広がる亀裂と瓦礫が波打つ荒海と化し、辛うじて普通に立てる箇所が二、三、残されているだけであった。

 それにしても何と対照的な姿か。

 インバネスは、月明かりを受ける浄化槽の影に沈んでその黒さを一層引き立てて佇んでいるのに対し、青年は浄化槽の上に、十六夜を背に青白い光の中に佇んでいた。光と影のコントラストがこれ程まで相応しいものは他に無かろう。


「これまでだ、『探究者』」


 青年が先に開口した。


「こうなってはもはや、貴様の『力』は発動しない。観念するのだな」


 その青年の口調は、冷静かつ淡々としているが、何故か妙に、繕ってしゃべっているようにも聞こえる。垣間見える怒りの感情を隠すつもりは無いらしい。

 徐に、月光を背に佇む青年が身じろぐ。青年は、背に受ける月光を下のインバネスに浴びせ、冷笑を浮かべていたその素顔を、闇から浮かび上がらせた。

 眩みそうな白色の閃きが、闇の中から現れた。月光以外に闇が引き立てる白色があるのならば、それはこのインバネスの美貌を紡ぐ肌以外あるまい。


「……流石は『航時指導員』、か。――むっ?」


 突然、インバネスの美貌が険しくなる。

 美貌の視線の果てに、玲瓏たる十六夜の月があった。

 あろう事か、その月が、暗天の中で三つに増えて揺らいでいるのである。


「……再び『時次元』の歪みが生じたのか?」


 肩越しに背後の月を見遣る青年は、何処か困憊した様な口調で洩らした。


「……新たな『特異点』が、何処かの『世界』に出現したと言う事、か」


 インバネスはそう言うと邪な笑みを浮かべて、今度は青年の方を見て睨み付けた。


「……もはや、この『世界』を滅ぼした『特異点』の成れの果てに構ってはおれぬ。さらばだ、力持てる者よ!」

「おい、待てっ!」


 青年は慌てて下へ飛び降りるが、時、既に遅し、インバネスも呼応するように、同時にビルの屋上から、漆黒が広がる深淵の中へ飛び降りて行った。


「……逃したか」


 インバネスが飛び降りた屋上の端に立って昏い帳に隠された地上を見下ろす青年は、憮然とした口調でそう洩らすと、背後の浄水漕の下にある、屋上から下へ降りる昇降口へ踵を返した。

 青年が進む屋上の昇降口の床の上に、横たわる人影が一つあった。

 二十歳位の、手入れの行き届いた綺麗な黒髪のワンレングス・カットを冠する、少し煩めの化粧だが、間違いなく美人の部類に入る女性であった。ワインレッドカラーで揃えたボディコン姿の彼女は、直ぐ傍の屋上の惨状など全く気付かずに、昏睡し続けていた。

 青年は彼女の傍に来ると、やれやれ、と何処か事務的な淡泊さを漂わせながら屈み、彼女を起こさないように、両腕で静かに彼女の身体を抱き上げた。

 不意に、彼女の服の朱色が滴り落ちた。

 否。ワインレッドカラーのボディコンスーツを着ているように見える彼女は、実は血まみれになっていたのだ。服も所々破れて、生々しい傷跡を覗かせている。

 だが、青年は臆する事なく、彼女を抱えたまま、無言で階段を降りて行った。

 青年も去った、崩壊したビルの屋上を、暗天を流れる雲が月光を遮って闇に包み込んだ。

 再び、ビルの屋上に月光が差し掛かる。ビルを中心に、夜の帳の下りた地上が、水面に広がる波紋の如く、次々と青白く浮かび上がって行った。

 しかし、浮かび上がったのは、眠りについた街ではなかった。

 息吹が全く感じられない、瓦礫の山が果てしなく広がる荒野がそこにあった。

 この世界は、終末を迎えていたのだ。

 だが何故、世界が滅んでいるのか。

 それに答える事が出来る者達は皆、真実を抱えたまま、疾うに闇に消え去っていた。

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