しろいもん(2/4)

 「しろいもん」の抑揚は、「資本金」のものと同じだと若海が教えたとき、沙耶は思わずといったように吹き出した。若海の姉が死んだ話だ。それまでは真面目に聞いていた分、「資本金」などという現実的な言葉との落差がツボにはまってしまったらしい。


「それなら『実業家』とかでもいいけど……」


 少々むくれた彼に、沙耶はごめん、ごめん、とすぐに手を合わせる。それでも顔は笑ったようにひきつっている。


 資本金だの、実業家だの、そんな単語がすぐに浮かんだのは、若海が大学の経済学部生であるがゆえだったが、国文科の沙耶に言わせれば、もっとふさわしい単語があるはずだとのことだった。


「例えば、『幽霊船』とか」

「たしかに」


 そのほうが、話の流れを切らずに済んだかもしれない。しろいもん、というものも、得体の知れない幽霊やお化けの類いと言えばそうなのだから。


 若海が生まれた高知県西浦町にあった若海集落は、僅か二十世帯ほどが海と向かい合って並ぶ集落だった。そんな場所であるから昔から稲作は望めず、それゆえ男は漁に、女は畑に精を出し、細々と続いてきた土地である。それでも昭和の初めごろまでは、二百世帯ほどが暮らしていたというが、彼が生まれるころにはそのほとんどが大きな町へ移り住んだあとだった。


 海の恵みを受けて暮らす彼らの信仰は龍神様で、曾祖父の代で漁師を辞めた若海の家でも、正月の龍神様への供え物は欠かしてはいけないと言われていた。供え物は、一升枡に白米を八分目まで入れたものに、松、竹、梅の小枝を刺した橙を乗せ、御神酒を添えたものである。そうすれば、龍神様は来る一年、豊かな恵みを分けてくださるのである。


「ずーっと昔には、龍神様への生け贄を海に投げ入れたりしてたみたいだけどね」


 沙耶が怖がる顔を見たくなり、曾祖父が言っていた話を持ち出してみる。曾祖父は子供が悪さをする度にこの話を持ち出し、彼らを怖がらせたのだ。


「ああ……昔は本当にあったみたいね。女の子を海に沈めるとか、工事の土台に埋めるとか」


 しかし、民俗学にも首を突っ込んでいるという沙耶は、ため息交じりにそう言っただけだった。


「非科学的だわ」


 感想はやはり都会的だ。


「それで――『しろいもん』っていうのは、どんなものなの?」


 涼やかな目を向けられ、若海は少したじろいだ。それは沙耶の好む合理性など微塵も感じられない、けれどあの集落で育った者なら誰でも知り、恐れている幽霊話であったからだ。


 幼い頃から、若海の遊び場と言えば、玄関から百の石段を下った先にある海だった。三つ年上の姉は大人しく、家の中にいるのが好きな子供であったが、少年は浅瀬で魚を追いかけたり、それに飽きると海に突き出た高い岩のてっぺんまで登るのが好きであった。岩の上から白波の立つ海面を眺めていると、時を忘れた。そして、いつも気がつくと、辺りは一面、朱色の絵の具をこぼしたような、どっぷりとした夕焼けが訪れているのだった。


 しろいもんが来ゆうぞう――


 あたりが朱に染まると、決まって少年を呼ぶ声が聞こえた。


 しろいもんに、持っていかれるぞう――


 声が聞こえると、少年は岩から飛び降り、一目散に石段へ駆け上がる。「しろいもん」は、幼い彼にとって一番恐ろしものだった。


 彼はよく知っていた。が海から来ることを。温い海水をぽたぽたと滴らせ、走る彼の後を、ひたひたと不気味な足音で追いかけてくることを。


 「しろい」という言葉は、抑揚こそ違えど、容易に「白」を想起させるのだろう。それゆえ、少年の背中を追いかけてくるものは、彼の想像の中では白く膨れた人影だった。


「白い人影……」


 沙耶は頬に白い手を当て考え込んだ。


「それで――お姉さんが亡くなったのは、その『しろいもん』のせいなの?」

「非科学的過ぎる?」


 沙耶がその台詞を口にする前に、若海はため息交じりに聞き返した。


「けど、姉貴は突然消えちまったんだ」


 後から聞いた話では、その日姉が外へ出かけたことに、誰も気づかなかったのだという。それでもいつもの通りに若海が海で遊んでいれば気づいたのだろうが、その日に限って彼は夏風邪で熱を出し、家で寝込んでいた。夏休みだからと連日はしゃぎまくったのが祟ったらしい。


 ゆうなーっ、ゆうなーっ。


 うとうとしていると、集落の人々が姉の名前を呼ぶ声が、ぼんやりと聞こえた。


 ゆうなーっ、ゆうなーっ。


 熱っぽい瞼を開けると、障子の隙間から差し込んだ夕日が、畳をどぎつい色に染めていた。この暑いのに、庭に咲いた彼岸花が花弁を凜と開いている。


 陽が落ちる――


 夢うつつに、少年は思った。


 陽が落ちてしまったら、戻らない――


 どうして陽が落ちるといけないのか、何が戻らないのか、いまになって思えば、どうしてそんなことを考えたのかわからない。けれど、その考え通り、若海の具合がすっかり良くなるころになっても、姉が戻ることはなかった。


「警察は、遊んでて海に落ちたんだろうって。あの辺は潮流が複雑だからすぐに沖に持っていかれるんだ」

「話の腰を折るようで悪いんだけど……」


 沙耶は不思議そうに首をかしげた。


「彼岸花って、夏の花だっけ? 秋のお彼岸の頃、早くても九月になってからじゃない?」

「昔のことだから記憶が混乱してるのかも」


 少し考えてから、若海は言った。確かに真夏に彼岸花が咲いているはずはない。


「それとも、あんまり夕日が印象的だったから、その色が彼岸花と結びついたのかもしれないな。それから……」

「……ご両親?」


 目を伏せて聞く沙耶に、若海は無言で頷いた。


「それから……姉貴がいなくなったのがきっかけってわけでもないけど、うちは町に引っ越したんだ」


 若海の一家も去ったことで、集落は年々寂れていった。集落で一番大きな家――若海の本家は最後まで残ったが、それもその家の息子たちが成人するまでのことだった。集落は無人となり、空き家ばかりが並ぶようになった。


 一方、町に越してからも、海に消えた娘を思い、両親はひと月に一度は集落へ帰った。そして若海が高校へ入る年に、事故が起きた。若海集落へ続く旧道の崖から、父親の運転する車が海へ落ちたのだ。帰らない両親を心配した若海の通報で、半分海に浸かった事故車が発見されたのは、その日の夕方だった。


「親父は即死だった。母さんは病院に運ばれて、意識不明の状態が続いて――」


 町に住む叔母――敏子の世話になり、若海は毎日病院へ通った。この本家の叔母は面倒見のいい人で、無人となった集落の家や墓地の管理をしているのもこの人だった。その敏子叔母と病室に通い、二週間ほど経った頃だった。その日、眠っていると思っていた母がふと目を開き、そこに息子の姿を認めると、母のものとも思えない、恐ろしげな声で言ったのだ。


「健二、しろいもんが来ゆうよ――」

「姉さん、ここは病院でぇ。海のもんはよう来よらん」


 敏子は優しくそう言ったが、母は敏子を見ようともしなかった。彼女は若海だけを見つめて、もう一度言った。


「早う逃げや。そうせんと、あんたもしろいもんに、持っていかれるで――」


 そう言って、目を閉じた瞬間、心電計がピーっと鋭い音で鳴り響いた。驚いた叔母がすぐに医師を呼んだが、すでに手遅れであった。


「あんたしろいもんに持っていかれる、母さんはそう言ったんだ」

「それって……」

「事故がどういう状況で起こったのかわからないけど、もしかしたら親父も母さんが亡くなったのにも、しろいもんが関わってたのかも――いや、関わってるような気がするんだ」


 思い返せば、母が亡くなったのも夕刻だった。病院の白い壁が、シーツが、駆けつけた医者や看護士の白衣が、窓から射す朱に染まっていたのだ。しろいもんは夕暮れにやってきて、生きた人間を連れて行く。


「……気味悪い事故が続けて起こったんだ。あそこから人がいなくなるのも当然だよ」


 姉のことを、両親のことを思い出すと、頭の中はあのどぎつい色の夕日に灼かれたように熱っぽくなった。母の言葉も後押しとなり、地元を離れて東京に出てきてからは、あんな色の夕日は見たことがない。しろいもんのやってくる、あんな色の夕日には――


「高知は南だから、きっと光線の角度が違うのね」


 神妙な顔つきで沙耶が言う。それから何か決意のある目で顔を上げた。


「でも就職したら、そうそう休暇なんて取れないわよ。だから、この夏休みに連れてってくれるでしょう?」

「高知に?」


 聞き返すと、当たり前じゃない、と沙耶が顔をしかめる。


「母さんはあそこから逃げろって言ったんだ。戻ったら――君までしろいもんに連れて行かれるかもしれないよ」


 冗談半分、本気も半分にそう言うと、


「本気で言ってるの?」


 くっきりとした目が若海を睨んだ。


「あなた、一生ご両親のお墓にお参りしないつもり? あ、それとも私を怖がらせようと思ってるのなら無駄よ。私って根っからの都会っ子なの。都会じゃ、怖いのは幽霊やお化けより、人間なんだから」

「そりゃあ恐れ入りました」


 沙耶の説得に、結局若海は折れた。そうして二人は大学四年の夏休み、若海集落へ出かけることにしたのである。

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