第6話 しろいもん

しろいもん(1/4)

 いつか沙耶とした線香花火、その火の玉のような夕日がじりじりと揺れながら、水平線の向こうへ沈んでいく。その夕日を浴びて、海を向いて立ち並ぶ家々は朱に染まっている。


 いや、それともあれは彼岸花か――潮が引いたばかりの濡れた砂浜を歩けば、足音はひたひたと薄気味悪い音を立てる。夏の盛りだというのに、狂い咲いた赤い花を濁った視界で見つめながら、彼は大きく口を開けた。


 ――沙耶ーっ――


 呼んで、耳を澄ませる。しかし、彼女の返事はない。夕日が落ちる。落ちていく。寂しい、寂しい夕暮れ。早く彼女を見つけなければ、気持ちばかりが先走る。沙耶ーっ、もう一度呼ぼうとして、ふと崩れかけた漁師小屋に目が行った。


 あそこか。


 足を早めて小屋に近づく。首をかしげ、戸の隙間から中を覗き込む。すると――


 いた。


 小屋の隅に、疲れたように座り込む恋人の姿がある。彼はほっとして微笑んだ。彼の気配に気づき、彼女は驚いたように顔を上げた。


「ここにいたのか。ずっと探してたんだよ」


 小屋の中は暗い。覗き込んだ彼の顔は、逆光でよく見えなかったのだろう。彼だと気づくと、沙耶は安堵したような、泣き笑いの表情で言った。


「若海くん……」

「心配したよ。さあ、一緒に行こう」


 彼の言葉に、沙耶は目尻の涙を拭い、そろりと立ち上がった。


      *


 そのぐねぐね道は、鬱蒼と茂る山の中を縫うように走っていた。雨が降ったのか、路面は黒く湿っている。慣れないレンタカーのハンドルを握り、若海わかみ健二けんじは慎重に車を走らせていた。


「……誰にも会わないわね」


 つぶやいたのは、助手席の江本沙耶だ。真夏だというのに、窓の外の空気は冷たい。風が彼女の長い髪をさらっている。彼女の言葉通りに、この道を走り始めてそろそろ一時間は経とうというのに、対向車も、後続車も現れることがない。


「この先に行っても、海以外は何もないからな。誰も行かないよ」


 若海は肩をすくめた。やっぱり行くのはやめにしないか、そんな言葉を、もう何度目だろうか、飲み下す。


「行く人がいるとするなら、釣り目当てか、それとも――」

「二人っきりになりたい恋人同士とか? 若海くんの話を聞く限り、カップルのデートスポットになっててもおかしくなさそうじゃない」


 若海の胸中にはそぐわない、あまりに呑気な台詞に、彼は思わず苦笑を漏らした。


「こんな田舎にカップルなんていないよ。いるのは中学生以下の子供やじいさんばあさんだけ。この辺の子たちは、中学卒業したら寮付きの高校に入るか、市内で就職するか、どっちかだからね」

「たしかに中学生カップルじゃ、こんな遠くまで来られないわね」


 沙耶は肩をすくめると、首をかしげた。


「でも、誰も来ないにしては、この道、新しいみたいだけど」

「ああ、この道ができたのは最近なんだ」

「誰も通らないのに?」

「誰も通らないけど」


 どういう意味、と問いたげに沙耶がしかめっ面をする。東京出身の彼女は、都会人にありがちなことに理屈で物が動くと思っている。けれど、高知の田舎に育った若海は、理屈なんてものは二の次に過ぎないことをよく知っているのだった。


「誰も通らなくても、田舎の人たちは道を作るのが好きなんだ。田んぼが終わったあとの、冬場の貴重な収入源になるし、いまも集落の共同作業ってのを大事にしてるからね」


 へえ、と沙耶が呆れたような声を出した。


「じゃ、この道、自分たちでつくったってこと?」

「そうそう。うちの本家はいまも漁師をやってるけど、親戚には土建屋もいるし」


 いまペンキを塗ったばかりというような、町道××線という標識が、路傍に傾いで立っている。五年前に開通したのだというこの道を、若海も通ったことはなかった。この陰気な町道の行き先――いまは無人となった若海集落を出たのは、彼が小学校へ入った年のことだった。もちろん、新道が通っていなかった当時は、集落から町へ伸びる旧道があった。しかしそれも一昨年の台風で崖が崩れ、通行禁止になったらしい。以来、若海集落への道はこの新道一本きりである。


 旧道は潰えた――久しく連絡を取っていなかった若海の本家にそれを聞いたとき、彼は少しほっとした。彼の両親はその潰えた旧道で、事故を起こし死んでいた。そんな場所をわざわざ通りたいわけもなかった。


「でも、行く人もいないなら、海はすごく綺麗でしょうね。楽しみ」

「まあ、綺麗は綺麗だけどね」


 住人の消えた、呪われた集落跡だ――思わず口にしかけて黙り込む。すると若海の胸中をくみ取ったように、沙耶が軽やかに笑った。


「私が来たいって言ったのよ。だからそんな顔しないで」

「別にどんな顔もしてないよ」

「ううん、何かうしろめたい、って顔した」

「別にそんな……」

「だって、結婚するのにご両親に挨拶もしないなんて、おかしいでしょ」


 それが例えお墓へのご報告になっても――とは、今回は言わなかった。ここへ来るまでに何遍も繰り返した台詞だからだろう。しかしその代わりに、彼女は別の台詞を付け足した。


「それに、お姉さんにも……」


 ひゅう、とどこかで風が鳴いた。健二――そう呼ばれた気がした。もちろん空耳に違いない。しかし真夏にあるはずのない寒気に、若海はぶるりと体を震わせた。道の先に、暗いトンネルが見えた。


「トンネルに入るから、少し窓を閉めてくれる?」


 理由になっていないのだが、沙耶は素直に助手席の窓を閉める。気持ちよさそうになびいていた髪が、風を失い、肩に落ちた。


 若海の姉――優菜は、彼が小学校へ入った年に海で行方不明になっていた。田舎の閉鎖的な集落のこと、不審者が入り込めば誰かの目に付く。それゆえ警察は海に落ちたのだろうと結論づけたが、なにせ遺体が上がらなかったため、真偽は不明だった。


 けれど、口には出さずとも集落の人間は彼女が消えた理由を理解していた。そして、それは子供であった若海も同じだった。姉は――若海優菜は、しろいもんに持っていかれたのだ。

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