第5話 硝子に凍る花になる
硝子に凍る花になる(1/2)
初めから、その奇妙な雰囲気は感じていた。例えばそれは、冷たく湿った地下の墓所のような、それとも迷い込んだそこが美しいフランス人形が並ぶ廃屋であったとでもいうような、ひやり、とする感覚だった。
「……木村さん、自己紹介を」
そう促されて、花音は自分がどこにいるかを思い出した。ここは地下墓所でもなければ、廃屋でもない。自分はこの聖葵女子学院の高等部の転入生であり、担任となる女教師にクラスメイトを紹介されたところなのだ。
「あの……
小さな声で言うと、頭を下げた。今日のために念入りに梳かした髪がさらりと肩を滑った。聖葵に入るには、髪を伸ばさなくてはいけない、祖母にそう言われて、やっと肩につくほどに伸ばしたのだ。
「それじゃ、花音さんの席はあちらね。
「はい、先生」
澄んだ声に顔を上げると、一重の美しい目をした女生徒が立ち上がって花音の椅子を引いた。きれいな子、席に急ぎながらそう思い、ふとこのクラスに足を踏み入れた瞬間、奇妙な感覚がした理由がわかったような気になった。
それは整然と席に座る生徒たちだった。いままで花音が在籍していた高校は共学で、男子生徒がクラスの半分を占めていた。そして――そのせいばかりとは言えないだろうが、教室は雑然とし、机の位置はどこかずれているのが常だった。それに、この静けさ。男子がいれば、やはりこうはいくまい。
それから……花音が思ったとき、桐子さんと呼ばれた生徒がにこりと微笑んだ。それは歯を見せずに口角を上げただけの慎ましい笑みで、百年以上の伝統あるお嬢様学校にふさわしい笑みとも言えた。しかし、本心を隠したようなその微笑みは、同時に花音を不安にさせた。
「休み時間に、学院を案内するわね。わからないことがあったら、何でも聞いて」
話しかける内容も、初対面の人間に当たり障りなく、完璧だった。ありがとう、花音は答えて、少しためらう。この美少女を何と呼んだものかと戸惑ったのだ。
「私、
すると、戸惑いを読み取ったように、やはり完璧な笑みで桐子は答えた。
「はい。……桐子さん」
そう答え、花音はカバンの中身を机に入れた。そうしながら、先ほどの考えの続きを、そっと自分の胸の中でつぶやいた。
このひんやりとした雰囲気は、やはり奇妙だった。そして、その一因は……花音はこっそりとクラスメイトたちを見渡した。
整然と、一ミリの狂いもなく並べられた席に座り、彼女たちは同じように教壇のほうを向いていた。その服装が同一なのは、制服であるからには当然だろう。けれど、共通点はそれだけではない。彼女たちは、揃いも揃って肩甲骨のあたりまである長い黒髪と、化粧っ気のない白い顔で前を見つめていたのだ。
「それで、ここまでが私たち二年生が主に使う場所よ。……花音さん、どうかした?」
桐子にそう聞かれて、花音は自分がぼうっとしていたことに気付いた。
「あ、ごめんなさい。せっかく案内してもらっているのに」
「いいのよ。慣れてくれば、誰でもわかることだし。初日で、まだ疲れてるでしょう?」
「ううん、そんなことは……」
慌てて花音は首を振った。そうしてから、自分の仕草が子供っぽかったかもしれない、と反省する。なにせ、言葉遣いからちょっとした仕草まで、聖葵の生徒たちは美しいのだ。その中にいると、花音はまるでお姉様方の中に誤って飛び込んでしまったヒナ鳥といった体である。これが陸の孤島と呼ばれる地域で、しかも幼稚舎から続く伝統ある女子校ってやつなのかもしれない。
「……花音さんは、お父様のお仕事の都合で、転校してきたのよね」
ふいに、桐子がそう言った。
「高等部の中途なんて、大変ね」
「ううん……あ、いいえ、そんなことはないよ……です。えっと、あたしの……私のお母さん、違う、母が――」
「いいのよ、無理に私たちに合わせなくても。花音さんは花音さんのお話のしやすいようになさって。それで、お母様が?」
桐子はそう言って、やはりあの本心の見えない微笑みを浮かべる。顔を赤くしながら、花音は続けた。
「ありがとう。……うん、でね、あたしが赤ちゃんの時に本当のお父さんは亡くなったんだけど……」
花音の父は資産家の息子だった。けれど、母親との結婚を反対され、家を飛び出したのだ。しかし、父は早くに亡くなり、母親は乳飲み子を抱えて懸命に働くこととなった。
それが、どうしていまになって母子を呼び寄せたのか。もしかしたら、一年前に舅が亡くなったことと関係があるのかも知れない。ともあれ、花音と母親は、これまで見たこともない古くて大きなお屋敷に、祖母と住まうことになったのだった。
「そう、そんなご事情があったのね……」
桐子は優しくつぶやいた。そして、さりげないふうに尋ねた。
「でも、木村ってお母様の旧姓でしょう? お父様の方の……おばあ様の姓は何とおっしゃるの?」
「朝霧、っていうんですけど……」
花音がそう口にした途端、あたりの空気が一変した――ように思われた。さっきまでざわめきに揺れていた廊下はしん、と静まり、ややあって再びざわめきが戻った。朝霧、朝霧家ですって……。ささやきが波のように伝播していく。異常を感じて、花音は思わず後ずさった。そのとき、〈花〉、そんな単語が耳に入る。〈花〉の朝霧家、そう聞こえた気がしたのだ。
「花? 花って……?」
「……そう、朝霧さんとおっしゃるの」
しかし、それには答えず、桐子は微笑んだ。
「では、あなたは本来、朝霧花音さんなのね。素敵なお名前ね」
「えっと、あの……」
「〈花〉のことなら、すぐにわかるわ。そうね、あなたのその髪が私たちと同じくらいに長くなる頃には」
桐子は微笑む。その微笑みが空恐ろしいのは、その目が笑っていないからだと気付いたのは、帰宅し、緊張が解けた後だった。
聖葵の奇妙な雰囲気に慣れるのには、時間がかかった。けれど、ことあるごとに孫が自らの母校に通うことが誇らしいと言う祖母と、その祖母のつてで入った新しい職場で奮闘している母を思うと、到底、行きたくないなどとは言えなかった。
しかし、桐子が言ったとおり、髪が肩を超えて長くなる頃には、花音はその雰囲気にも慣れていた。桐子以外の友達もできた。
もちろん、聞きたいことが何でも聞けるような、本音で話せる友達ではなかったが、それはそれでいいと思った。なぜここの生徒はみんな同じように髪が長いのか、どうしてもっと楽しそうに笑わないのか、疑問はすべて胸に収めた。いずれわかると言われた、あの〈花〉のことも。
しかし、その謎を知るきっかけは意外と早くやってきた。それは委員会の用事で生徒会室を訪れたときだった。いままで場所しか知らなかったそこに足を踏み入れた瞬間、花音はあっと声を上げそうになった。
そこには十数枚の写真がかけられていた。そのどれもが硝子でできているらしい、曇り一つない額に丁寧に収められ、整然と並んでいる。硝子の額なんて見たことがない、花音は思わずその燦然とした輝きに見とれた。それから、中に収められた写真に目を移し、今度は息を呑んだ。
写真の中の少女――それは聖葵の生徒なのだろう、皆、長く伸ばした髪にあの微笑みを浮かべている。しかし、特筆すべきはその美しさだった。同性である花音が思わず心を奪われてしまうほど、写真の中の少女たちは美しかったのだ。
「……その方たちが〈花〉よ」
声に振り返ると、桐子が立っていた。
「聖葵の〈水中花〉。そう呼ばれているの」
「〈水中花〉って、あの水の中に花を閉じ込めた……?」
「そうよ。でも、これも〈水中花〉というの」
桐子はそう言って、手のひらを差し出した。見ると、いつの間にかそこには硝子玉が乗せられている。
「蜻蛉玉、ってご存じ?」
「はい、あの、いろんな模様がついた硝子玉のことですよね?」
「そう、いまはまとめてそう言うわね」
桐子は蜻蛉玉を花音の手のひらに転がした。ひやり、蜻蛉玉の冷たさなのか、桐子の手の冷たさなのか、熱が吸われる感覚がした。
「けれど、昔は青地に白い花模様の玉だけを、蜻蛉玉と呼んだのよ。ほら、この方たちみたいに……」
桐子の視線に、再び後ろを振り返ると、彼女たちの写真を閉じ込めた硝子の額は、そう言われてみれば微かに青い色をしていた。
「……氷みたい」
思わずつぶやいた花音に、桐子はそうね、と微笑んだ。
「あなたのおばあさまのお家、朝霧家の方がこちらよ。朝霧小夜子さん」
白い指が古い写真の一枚を差した。そこではやはり長い髪の少女が微笑んでいる。絶世の、そう冠をつけたくなるほどの美少女だ。
「聖葵の生徒たちは、皆、ここに飾られることを目標にして勉学に励んでいるの」
「なぜ?」
「〈花〉を輩出した家は、聖葵で尊ばれる一族となるの。それは社会でも役立つわ。……ご存じかしら?」
桐子はいくつかの企業名を挙げた。財閥が母体の有名企業ばかりだ。いま花音の母親が勤めているのもその関連企業だ。とすると、祖母のつてというのは、この朝霧家の〈水中花〉、ひいては聖葵の力ということなのだろうか。
花音は一枚一枚の写真をたどり――ふと最後の写真に気がついた。綺麗に飾られているとはいっても、他の写真には相応の古さがあった。けれど、最後のそれだけは、ごく最近撮られたものであるような気がしたのだ。
「この方は……」
「それは……神庭桜さん」
言い方に違和感を感じて桐子を見ると、彼女は目に涙を浮かべていた。どうしたの、気軽には聞けず、花音は精一杯気付いていないふりをした。桐子はしばらく黙り込んだ後、それじゃ、と行って去って行った。手のひらに残された蜻蛉玉に気付いたのは、それから大分あとのことだった。
次の日、蜻蛉玉を返そうとした花音に、桐子はそれをあげると言った。聖葵の子はみんな持ってるのよ、そう言われて気付くと、たしかにそのカバンに、筆箱に、その白い花の閉じ込められた美しい球体はあしらわれているのだった。
花音は大人しくそれをカバンに入れ、授業を受けた。しかし、頭に浮かぶのは、あの蜻蛉玉のように、額に収められた神河桜のことだった。
桐子が涙した理由はわからなかったが、花音はなぜかその名前に聞き覚えがあるような気がしていた。神庭なんて苗字は稀だ。一度聞いただけで覚えていても不思議ではない。けれど、どこで聞いたのか思い出せない。
思い悩みながら帰宅すると、部屋に隠してある携帯に友達からの着信があった。聖葵では携帯を持つことを禁じられている上、祖母が教育に良くないと反対したのだ。しかし、いままでの友達と連絡する唯一の手段であるそれを、母親が内緒で所持を許してくれたのだった。
普段は祖母に気付かれるため、電話などできないが、珍しく彼女は出かけている。花音は友達の番号をリダイヤルした。ぷつぷつと途切れるような音の後に、呼び出し音が鳴った。と、思うと、懐かしい声が飛び込んでくる。
「あ! カノンだ! やっと繋がった!!」
中学からの仲良しだった絵理奈だ。
「やー、エリエリ、久しぶり! ごめんね、何度もかけてくれたのに」
「いやあ、いいってことよ。ってか、三ヶ月とか経った? もう慣れた?」
「うん、まあぼちぼちって感じ」
「ぼちぼちって。オッサンくさっ。陸の孤島に閉じ込められてるうちに、世間に取り残されてるんじゃない?」
「あはは……当たるとも遠からずってとこかな……」
「ほら、またオッサンっぽいことを……何か、ごめんね、あたし、会いに行けなくて」
「いいよ、そんなの。ここ、そっから遠いんだし。電話かけてくれただけで十分」
「でも、何か聖葵って大変なんでしょ? 調べたら、色々ヤバい噂あるみたいだしさあ」
「ヤバい噂? 何それ?」
努めて明るく聞いたつもりだったが、顔が少し引きつった。その気配を感じたのか、絵理奈は電話の向こうで声を潜めた。
「カノン、あんたホントに大丈夫なの?」
「だから、エリエリったら、何をそんなに心配してくれちゃってるのよ」
言いながら、冷たいものが背筋を走った。ぞっとして振り返ると、閉めたはずのドアが開き、兼子という家政婦が花音を見つめていた。常に祖母の傍にいるため、一緒に出かけたものだと思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。
「カノン?」
耳元で、絵理奈の声が聞こえる。と、それを最後に、携帯は家政婦の手の中で電源が切れた。
「蓉子様は、携帯電話の使用を禁じられたはずです」
祖母の名を絶対の主人のように口にし、家政婦は踵を返す。待って、花音は必死の思いでそれを呼び止めた。
「ごめんなさい、けどそれがないと友達と本当に離ればなれになっちゃうの。だから、せめて電話番号だけでもメモらせて――」
バタン、拒絶するようにドアが閉まった。花音はしばらく呆気にとられて、そのドアを見つめていた。
『あんた、ホントに大丈夫なの?』
絵理奈の声が頭に響く。全然大丈夫じゃない、大丈夫なんかじゃないよ、花音は胸の中でつぶやいた。いきなり電話が切れて、絵理奈は何て思っただろう。怒っただろうか。それとも心配してくれるだろうか。けど、そのどっちにせよ、絵理奈との間に他の連絡手段はない。どんなに花音の様子がおかしくても、例えば警察に連絡するなんて、そんなことはできないだろう。
『聖葵っていろいろヤバい噂が……』
それに、絵理奈が言っていた噂とは何だろう。パソコンも携帯もない部屋で、花音は途方に暮れた。こんな場所では何も調べられない。せめてあの神庭桜のことを絵理奈に聞くべきだった、花音は後悔した。ヤバい噂、そんな言葉を聞いてしまったいまは、あの〈花〉と呼ばれ、薄青い硝子の額に収まった少女たちのことも気にかかる。
『〈花〉を輩出した家は、聖葵で尊ばれる一族となる』
桐子の言葉も、そう考えると奇妙だ。〈花〉とは美少女コンテストのようなものかもしれない、あのときはそう思ったが、それならなぜ、美少女の家が尊ばれることになるのか。それも桐子の口ぶりでは、〈花〉を輩出した家は一生安泰といったようであった。
朝霧小夜子。
ふと、その名前が頭に浮かんだ。この朝霧家の輩出した〈花〉。この大きすぎる屋敷は、朝霧小夜子のおかげなのだろうか。だとしたら、彼女は誰で、いまどこにいるのだろう。
そのとき車回しにベンツが停まり、祖母が降りてくるのが見えた。年齢の割にぴんと伸びた背筋と優雅な仕草は、さすがあの聖葵の生徒だったことを感じさせる。祖母が質問に口を開くことはないだろう、その姿を見て、花音は思った。聖葵のいいところならともかく、調べるのは『悪い噂』なのだ。
それなら母親は何か知っているだろうか、花音はその遅い帰りを待つことにした。
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