ナルシサスには分からない

彼女の変化の始まりは何でもない会話だった。


「ねえ、ここってどうするのかしら。」

彼女の得意な編み物で、模様をつくるところだったらしい。

「メリ姫様?あなた様の一番得意の編み物でしょう?それにそんなに難しいところじゃ…」

「…わからないのよ。どうしちゃったのかしら…」

「こちらの台詞ですけれど、ど忘れなんてよくあることですもの。こうですわ。」

「ありがとう。」


メリの笑顔はいつも通りだったとメイドからは聞いているし、仕えの者たちもまさか、といっていた。

彼女はもともと抜けているところがあったし、そこまで疑う者もいなかった。


「ねえ、貴方の名前は何かしら?」

「え、クイネですよ。あなた様が名付けて下さったんでしょう?」

「あらそうだったかしら。ごめんなさいね、最近こういうことが多いのよ。」


最近、というかあいつが死んでからだ。

人の顔と名前は覚えるのが苦手だと前々から笑っていたが、自分が名付けた騎士の名前を忘れるような者ではない。


「ねえ…貴方の名前は?」

「…婚約者の名前まで忘れたか。」

「婚約者なの?ごめんなさいね。」


困ったように笑われると調子が狂う。

いつも元気で溢れていて、上から物を言う彼女が憎たらしかったのに、そうでなと寂しくて仕方がないのだ。


せっかくあいつが死んだのに。どうしてお前は俺を、彼女を縛り付けるんだ。




「クラワ王子、あなたまじめだけど無愛想ね。アジーンの方がよっぽど王子らしいわ。」

「そんな、姫様!!とっても優秀な王子として有名なんですよ!」

「そうかしら、私にとってはアジーンの方がよっぽど王子様よ?」

メイドを青ざめさせながらもそんな風にふふ、と笑ったのが懐かしい。




「おまえ、誰に謝っているのか分かっているのか?」

「婚約者さんでしょ?名前を教えて下さる?頑張って覚えるから。」

「頑張って…覚える?」

「そうなの、頑張らないと覚えられないのよ…」


なぜ、頑張らないと覚えられなくなったのか。原因があいつの死だとは思いたくない。


「頑張ってでも覚えろ、そうしたら元に戻るはずだ。」

「そうなのね…頑張るわ。」


それでも、彼女はひとつ、またひとつ忘れていく

彼女はそれでも覚えたり思い出す気力すら無くなってしまった様子だとメイドからは聞いていた。


「…私、なんでこうやってまでして生きなくちゃいけないの。」


呪い師に見せて、呪いまでしたところで、ぼそりと呟いたそうだ。


それでも、どうにかなるだろう、彼女は強い女だからと思いこむようにしていた。

私もそんなに暇ではない。

何度も何度も自分に言い聞かせては努めて忘れるようにしていた。


「ツヴェートの戦況は、悪くないようです。」

「…そうか、軍の応援が効いたか。」

「クラワ王子の言うとおりに応援を入れましたら、戦況がひっくり返ったそうで。さすがです。」

「いや…」

「婚約者さん。」


彼女が、執務室に入ってきたのはこれが初めてだった。

彼女が頑張らなくては覚えられないと言ったので、時間ごとにここまでを覚えてくるように、と課題を出していた。

しかし、まだ時間にはなっていないし、ここ数日の彼女は殊更覚えることが難しくなってきていた。


「婚約者さん、私疲れちゃった。」

「クラワ、だ。どうした、まだ時間になっていないぞ。」


「もういいのよ、放っておいて。」


あの日と同じだ

僕の一番嫌いな言葉。


「絶対に嫌だ。おまえは私の婚約者だ。それなりの存在になってもらわなくては…「それが!!」

今まで聞いてた声で一番大きな声だった。


「できないのよ、どうしたら信じてもらえるの!?死ねばいいの?」


鬼気迫るとはまさにこのこと。蛇ににらまれた蛙は私だ。


「死んでほしければ俺はとっくにおまえを殺している。」

「そのほうが楽だって言っているのが分からないのかしら?

 何で婚約者さんに生きることを強要されなくちゃいけないのよ、友達でも家族でもないのよ。」


まっすぐな視線は射るように鋭く、鈍く突き刺さる。


「不可能な話だ。ずっと婚約者と決まっていた。家族は隣国だろう、私がどうにかしなくてはいけない話である事は明白だ。」

「どうもしなくてもいいから、放っておいてちょうだい。

きっと、あなたのほしかった私じゃないわ。」


いっそ、殺してしまったら?私は壊れてしまったから。


にたりと笑った彼女が正気かなんて僕に分かるはずはない。

それを知っているのは、彼女か、あいつだ。


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