第28話 挽回
すべての始まりの日。元凶の日。
この日さえ無事にやり過ごせば、あの悪夢の日々を無かったことにできる。
桜の木で遊ぶ男児の集団に、寛斎の姿はない。宮子は、住宅地へと走った。
寛斎は、あの日をやり直そうとしている。
手前から順に表札を確かめ、「須藤」の名を探す。奥から二番目の家の門と玄関の戸が、開け放たれていることに気づく。駆け寄って表札を見た。
須藤
心臓がひときわ大きく鼓動を打つ。
ここだ。
開いた扉の中の薄暗さが、不気味な奥行きを持っている。速まる脈にせかされるように、扉の陰から玄関をのぞきこんだ。クリーム色のパンプスと、青いラインが入った男児用運動靴がある。
ガタリ。
廊下の奥で、大きな音がした。続いて、争うような物音と気配が伝わってくる。
「出ていけ!」
少年の怒声に追われるようにして、誰かがこちらへ走ってくる。
宮子はあわてて顔を引っ込め、扉の外側に隠れた。門の方向は逆だから、陰になって見えないはずだ。
気配が濃くなったかと思うと、荒々しい呼吸をまき散らしながら、男が扉の向こうへと走り出た。宮子は息を殺し、身を硬くした。気配と足音は、立ち止まることなく門を出ていく。
おそるおそる、扉から顔を出す。
くたびれたジーンズの上下を着た痩せた男が、靴を手に持ったまま、住宅地の出入り口から道路へと靴下のまま走っていき、見えなくなった。
一瞬だけ振り返ったその顔は、ニュースで何度も見た、寛斎の母を殺した犯人・小西だった。
――寛斎さん。
犯人と対峙して、彼は、彼の母は無事だったのか。
宮子は玄関に入って靴を脱ぎ、足音を立てないように廊下を進んだ。
「母さん、大丈夫か」
出会ったころの彼の声だ。まだ、寛斎ではなく、寛太と名乗っていたときの。
女性の咳き込む声がする。リビングをそっとのぞきこむと、寛斎と同じく浅黒い肌をした人が、床に座り込んで背中をさすられていた。
「うん、大丈夫。……寛太が来てくれて、助かった」
顔をあげて、傍らの息子を見る。ウェーブのかかった黒髪に、目鼻立ちのはっきりした顔。確かに、彼の母親だ。傷一つなく、生きている。
寛斎、いや寛太が、嬉しそうに微笑む。
この時間軸では、彼の母親は死ななかった。彼が出家して寛斎と名乗ることもまた、ないのだろう。あのつらい日々を、全部帳消しにできたのだ。
「俺がついてるから。母さんに、怖い思いをさせたりしないから」
彼の声が震える。泣くのをこらえているのが、伝わってくる。
小学六年生で母親を殺されて以来、二十四歳の今に至るまで、ずっと苦しんできたのだ。たとえパラレルワールドでも、母親が生きているのは無上の喜びだろう。
胸に熱いものが込みあげ、宮子も思わず涙ぐむ。
「じゃあ、ずっとそばにいてくれるのね」
彼の母が、十一歳の寛太を見つめる。「もちろんだよ」と、彼は笑ってみせた。めったに見られない彼の幸せそうな表情に、宮子も目を細める。
「その言葉、確かに聞いた」
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