第29話 再会
母親の声が、低く響く。
怒っているような、有無を言わせない迫力だ。見開いた目の中で、不自然に大きな瞳が濡れたように光っている。
「なかったことにして、自分だけ救われた気持ちになって、嬉しいか」
突然、母親の首から
深い傷のせいで首がずれた母親は、自分の手で髪をつかんで持ち上げ、ぱくりと開いた首の切り口を、寛太に見せつけた。緋色の肉が、あらわになる。
「よく見ろ。これが現実だ。逃げるな」
血まみれになった寛太は、硬直したまま動かない。唇を噛みしめ、収縮しきった瞳で母親を見ている。
「私はずっと、ここに留まっている。何度でも繰り返す。この痛みを。絶望を」
傷口がふさがり、首が元に戻ったかと思うと、また勢いよく
「……悪かった。母さんの気が済むまで、一緒にいるから。逃げないから」
かすれた声で、寛太が言う。
「じゃあ、お前も死ね」
宮子は耳を疑った。地の底から響いてきたような声は、確かに彼の母親のものだった。
切り傷のせいで斜め右に垂れ下がった頭部が、彼をにらんでいる。血にまみれた両手を、息子へと伸ばす。寛太が目を閉じ、わずかに上を向いて首を差し出す。まだ細いその首に、血に濡れた指がかかる。
「だめ!」
思わず叫んで、宮子は二人の間に割って入った。白い光の粒を両手に集め、それを照射するように、彼の母の肩を押し戻す。
子どもの体だから、いつものように力が入らない。それでも必死で押していると、母親の指が寛太から離れた。
「……宮子。なんで、ここにいるんだ」
戸惑った声がする。宮子は、視線を彼の母から離さず、寛太に言った。
「このお母さんは、あなたが作った幻よ! 痛かっただろう、恨んでいるだろう、って思い込みが作った、幻覚」
神社の清涼な気を頭に思い描き、白い光に変えて、彼の母親に当て続ける。少しずつ、血が薄れ、首の傷口が浅くなっていく。
「よく見て。お母さんはもう、ここにはいないから」
寛太の母が、宮子にあらがうのをやめ、すっくと立ち上がった。首の傷も、血も、もうない。ウェーブのかかった黒髪を揺らし、泰然とした微笑みを浮かべている。
彼女の体はやがて、白い光で描いた絵のようになり、さらに無数の光の粒へと変わった。
「母さん……」
光の粒が、風に吹かれた砂絵のように、さらさらと形を崩す。寛太の母は、微笑んだまま霧散し、消えた。
宮子は、寛太の方を振り向いた。紺色のブレザーと半ズボン姿の彼が、小学六年生よりももっと小さく見えた。
「俺が、閉じ込めていたんだな」
ぽつりとつぶやく。
声をかけることができずに、宮子は座り込んで寛太の方を向いた。
うつむいた彼の顔から、涙がひとしずく、床へと落ちる。それは、ぷくりと盛り上がり、光を反射して輝いた。
豆粒ほどの水滴がはじけたかと思うと、そこから勢いよく水が噴き出した。噴水は細い流れとなり、みるみるうちに小さな川に変わる。
いつの間にかリビングは消え、宮子は自分が大きな川の岸辺にいることに気付いた。
砂利や小石が敷き詰められた河原には、いくつかの積み石がある。三途の川かと思い、立ち上がって見回す。
ここは、吉野川の川原だ。見覚えのある赤い大きな橋が遠くにある。見知った濃緑の山々を見て、宮子は少しだけ安心し、ため息をついた。
寛斎が、水際に座っていた。二十四歳の姿で、修験者の白い装束を着ている。
自分の姿も確かめてみる。大人の体に戻っており、藍色のジャケットの袖をめくると、彼から預かった木製の数珠が左手首にあった。
そっと近づいて、寛斎のとなりに座る。訊きたいことも言いたいこともたくさんあったが、宮子は彼が自分から話してくれるのを待った。
ゆるやかな水音だけが、二人の間に流れる。
「心配をかけてすまなかった」
「どうして」
無理には訊きださないでおこう。そう思ったのに、満杯になった水の表面が、はじけてこぼれてしまうように、口にしてしまった。
また、川の流れる音が響く。宮子は、寛斎の横顔を見つめながら、じっと待った。
「話せば長くなる」
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