第30話 乱心
こちらを向き直った寛斎が、つとめて顔に出さないように言う。
長くなってもいい。宮子がうなずくと、彼は小さくため息をつき、
「稲崎さんに会ったのは、今年の春だった。俺が勤めている寺に、会社の新人研修の引率として来たんだ」
水面に、スーツ姿の稲崎が浮かび上がる。彼の過去の経験が、そのまま映像として映し出されているのだ。
体にぴったりと合った黒い上着、紺の縁取りが入った白いシャツ、アクアブルーのネクタイ、どれも仕立てのよいブランド品だ。着るものにも気を遣い、服装に負けないだけの自信に満ちた雰囲気から、彼が仕事のできるタイプだとうかがえた。
新入社員らしき若い女性が二人、稲崎のことをちらちら見ながら、「三十歳でもう課長だって」「独身かな」とささやいている。
「新入社員たちが瞑想している間、別室でスケジュールの打ち合わせをした。一段落ついて雑談をしてるとき、稲崎さんから質問されたんだ。彼女の家に結婚の許可をいただきに行くんだけれど、父親が休日のみとはいえ修験者らしい。何か特別に守ることとか、しちゃいけないことはあるんですか、って」
スクリーンとなった水鏡の中で、スーツ姿の稲崎が、茶色の
「やっぱり、酒とか肉とかはだめなんですか」
「いいえ。山に入っている間はともかく、里、つまり日常生活をしているときは大丈夫ですよ。といっても、個人的に
「他に、何か注意点は」
稲崎が、不安げに訊ねる。先ほどの自信ありげな雰囲気が、嘘のようだ。
「大事なのは、心ですから。……たとえば、お宅にうかがったら、まずはご家族にあいさつをしますでしょう。それと同じように、相手のお家の仏壇や神棚にも、手を合わせてごあいさつをなさってください。座るときは、決して神仏に背を向けてはいけません」
なるほど、と稲崎は手帳にメモを取り始めた。
ひとしきり話したあと、寛斎が「うまくいくといいですね」と言うと、稲崎は「絶対成功させます」と笑った。挫折が少ないゆえの品のよさが感じられる表情だ。たぶん、偏差値の高い大学を出て、就職も難なく決まり、そのまま出世街道に乗ったのだろう。
映像が揺らいで、いったん途切れた。寛斎の投げた小石が、水面を乱したのだ。
「正直、ちょっとうらやましかった。いろいろ恵まれていて、屈託がなくて」
水面がだんだんとないでくる。宮子は次の言葉を待った。
「次に稲崎さんと会ったのは、あじさいの花が咲いている雨の日だった。婚約者と一緒に、うちの寺へお参りに来た。
川面に、淡いピンク色のワンピースを着たきれいな女性と、稲崎が映る。微笑んでお辞儀をする安浦奈美は、表情や仕草こそ控えめだが、稲崎を見つめる視線や、彼が濡れないよう傘をかたむける気遣いに、深い愛情がにじみでていた。
寛斎は、少しうつむいて黙り込んでから、また話を続けた。
「先月、大型台風が近畿地方を襲った。新聞の死亡記事に、安浦奈美さんの名前があった。同姓同名の別人であって欲しい、と思った。……あの台風で、知り合いの行者さんが亡くなったから通夜に参列したんだが、どうしても気になって、近くの葬祭会館で行われている安浦家の通夜にも行ったんだ」
白菊で埋め尽くされた祭壇に、安浦奈美とその母の遺影が飾られているのが、水面に映る。遺影のやわらかな笑顔が、参列者の涙を誘っている。
「かわいそうにね。奈美ちゃん、もうすぐ結婚するはずだったのに、こんな形で送り出すことになるなんて」
涙声で噂し合っているのが聞こえる。親族席では、艶のないばさばさの髪をした稲崎が、喪服に身を包み、涙を拭きもせず、肩を震わせていた。
「稲崎さん、そのあともずっと、彼女の
三諸教本院に来たとき、婚約者のことにこだわっていた稲崎を思いだす。彼にとって、奈美の死は、自らが生きる世界が壊れてしまったのと同じ意味なのだろう。
「二週間ほど経ったころ、稲崎さんがうちの寺に来た。通夜に来てくれてありがとう。少し話がしたいから、仕事終わりに食事でもどうかって。奈美さんのことでいろいろあるんだろうって思ったから、夜にファミレスで待ち合わせた」
寛斎の表情が曇る。
「稲崎さん、会社は辞めたと言っていた。葬式のあと、辞表をPDFでメール送信したきり、引き継ぎもせず、会社からの電話も無視してるって。そんな人じゃなかったのに」
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