第47話 行き詰まり

 暗がりの中に、橙色の小さな炎が揺らめく。

 寛斎が念力で松明たいまつを形作り、右手にかかげていた。梵天ぼんてんのついた鈴懸衣すずかけごろも姿が、頼もしく見える。


「帰ろう」


 無言でうなずき、宮子は彼と並んで歩きだした。

 岩窟の壁まで移動し、側面沿いに坂道をのぼる。足音が洞穴内で反響し、やけに大きく聞こえる。


 どのくらい歩いたのだろう。


 腕時計は昨夜十一時八分で止まったままだし、携帯電話は表示が消えている。時間の感覚がわからないことが、不安をかきたてる。行けども行けども、出口にたどりつけない。


 あたりが暗いことも、心細い原因だった。松明たいまつで見える範囲は限られている。その奥の闇に、何か恐ろしいものがいるのではないか。古事記にも、黄泉醜女よもつしこめや雷神が伊邪那岐命いざなきのみことを追いかけた、とある。


 黄泉醜女よもつしこめとは、死のけがれを擬人化したものだ。皮膚は溶けて腐肉が見え、眼窩から目玉が飛び出し、冷え冷えとした死臭を放つ死者たちを想像すると、やはりぞっとする。

 人はみんな死ぬし、自分も例外でない。わかっていても、生きたいという本能なのか、恐怖を感じずにはいられない。


 背後で、何かが動いたような気がした。


 思わず振り返るが、墨で塗りつぶしたような空間が広がっているだけだ。宮子には、目の焦点を切り替えて、闇の奥を見る勇気はなかった。


 無意識のうちに、寛斎のころもの袖をつかんでいた。彼が立ち止まり、宮子の手を握る。

「今、千三百六十五歩目だ。不安なら、歩数を数えろ」


 手をつないだまま、再び歩き始める。そのぬくもりを支えにしながら、頭の中で歩数を読みあげる。

 ――千八百七十一、千八百七十二。


 計数が三千を超えた。

 息切れしているのを隠したいのに、どうしても整わず、呼吸が荒くなってしまう。となりの寛斎は、規則正しく息をしている。やはり、入峰修行で慣れているのだろう。

 のどが渇いた、と思う。水を差し出されたら、何も考えずに飲んでしまいそうだ。


 寛斎が立ち止まり、宮子の手を引っ張る。足を止めると、彼はつないだ手をほどき、松明たいまつをかざして前方を確認しだした。


 行く手が岩でふさがれていた。壁面の岩肌と、少しだけ質感が違う。ここだけが黒っぽい石になっている。


千引石ちびきのいわよ、きっと。この世とあの世の境界をふさぐ、大盤石。これをどければ、元の世界に戻れるはず」


 冷たい石の壁に触れながら、宮子は寛斎を見た。やっと帰れる、という安堵で、声が高くなる。


「少し、離れていてくれ」

 そう言って、寛斎が千引石ちびきのいわの前に結跏趺坐けっかふざで座る。宮子は脇へどけて、彼を見守った。

 松明たいまつが消え、闇が訪れる。視覚を遮断された中、彼の唱える真言が響き渡る。


「……諸有障碍災難即疾消除しょうしょうげさいなんそくしつしょうじょ諸願成就しょがんじょうじゅし給え」


 えい、と気を飛ばすかけ声が発せられる。

 空気が揺れ動くのが、肌でわかる。


 ぱらぱらという音がする。小石がいくつか落ちたのだろう。しかし、隙間から光が差し込むことはなかった。


 再び真言と偈文げもんが唱えられる。かけ声とともに、確かに気の塊が岩に向けて発せられるのだが、千人の力でようやく動くと言われる岩は、びくともしなかった。


 四度目の失敗のあと、寛斎は息を荒くして黙り込んだ。


 これより前にも、鈴子と桃果を現世へ送るために、彼は境界の石を動かしている。それに、黄泉比良坂よもつひらさかへ来たときにも。体力的に、限界なのかもしれない。

 きちんと修行をした行者は、法力を発動させる際に神仏から御力を借りるので、本人の気を消耗しなくて済むはずなのに。


 ――無意識のうちに罪悪感を持ち、自らを罰しようとする。


 寛斎が稲崎に言ったせりふが、頭をよぎる。

 もしかすると寛斎は、自分の行為に罪悪感を覚えたため、術を修するのに神仏とつながることができず、自分自身の生命力を使ったのではないだろうか。


 脅されたとはいえ、幼い桃果とともに稲崎を黄泉比良坂よもつひらさかへ導くという危険を冒した。母親を殺した犯人を呪殺しようとした行為と感情を、追体験した。まだ生きている稲崎が黄泉国よみのくにへ下るのを、黙って見ていた。

 何も言わないが、彼はそれらの責任を感じているはずだ。


 これ以上、力を使わせてはいけない。

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