第46話 華燭

 ファーストバイト。これからはずっとあなたの食事を作る、生計をたてて食べることに困らせない、という意味でケーキを食べさせあうセレモニー。

 稲崎は、黄泉戸喫よもつへぐいの一口目を、これに取っておいたのだ。


 ――どうすればいいの。


 宮子は寛斎を見た。彼もまた、こちらを見ている。いつもは鋭い眼光を宿している目が、力なく揺れている。


 黄泉戸喫よもつへぐいは死を意味する。でも、二人を一緒にいさせてあげたい。


 岩陰に隠れていた白い影が、ゆっくりと動く。灯明の明かりに、プリンセスラインの華やかなドレスが照らされた。顔は、ベールに隠れて見えない。

 純白の長手袋をした手が、何かを持っている。左手には、一切れのケーキを乗せた皿。右手には、銀色のフォーク。


 稲崎が立ち止まり、両手を彼女へと広げる。いったん足を止めた花嫁は、その仕草に安心したように、再び歩き始めた。


 止めるなら、今のうちだ。

 でも、二人を止める資格など、あるのだろうか。しかし、まだ生きている稲崎が死ぬのを、黙って見ているわけにもいかない。


 頭の中で何十回も、「でも」と「しかし」が繰り返される。


 花嫁が、稲崎の前に立つ。

 薄明かりで、稲崎が笑っているのがわかる。ベールの中の奈美を、いとおしそうに見ている。


 答えを求めて、宮子は再び寛斎を見た。彼もまた、決めかねたように立ち尽くしている。


 躊躇したのかじっとうつむいている奈美を、稲崎がうながす。彼女はようやく手を動かし、皿のケーキを一口分、フォークで切り取った。二等辺三角形の鋭角の部分を、上に乗った赤い果物とともに、ていねいにフォークで刺す。

 背の高い稲崎が、膝を少し曲げてかがむ。彼のあごの下まで、奈美が皿を持ちあげる。


 ――これでいいの?

 冷や汗が、宮子の背中を伝う。心臓が、重い鼓動を刻む。まだ答えは出ない。


 花嫁が、おずおずとフォークを持ちあげる。ケーキの一片が、稲崎へ向かって差し出される。

 稲崎が、口を開ける。


 ――本当に、いいの?

 口の中がカラカラで、声が出ない。


 宮子は口をつぐんだ。


 稲崎が首を伸ばし、フォークに刺さったケーキを口に含んだ。そのままゆっくり引き離すと、あとには銀色のフォークだけが残った。

 姿勢を正し、味わうように咀嚼すると、彼はベールの奥の花嫁を見つめながら、それを飲みこんだ。喉仏が上下するのが見て取れる。


「ずっと、一緒にいるよ」


 彼は花嫁の顔をおおうベールを持ちあげ、後ろへやった。

 そこには、腐って皮膚が溶け、艶のない糸束のような髪が張りついた、女性の顔があった。目玉は丸く飛び出ており、生前の面影はない。


 あわてて顔を隠そうとする彼女の手を、稲崎がつかんで制する。そして、めくれあがって歯が見えている唇に、ためらうことなく口づけをした。


 拍手が響いた。

 寛斎が、両手を顔の前にかかげ、手を打っている。

 一打ちごとに、あたたかみのある上品な壁紙や、深紅の絨毯、豪奢なシャンデリアが現出し、暗く湿った洞窟が、結婚式場の一室へと変わった。クロスを波打たせたテーブルには、リボンと花に彩られた白いウェディングケーキがある。


 宮子も拍手をした。心を込めて、強く。

 腐敗した奈美の顔が、きめ細かな白い肌に戻る。艶やかな緋色の唇や、通った鼻筋、まつ毛に縁取られた大きな目を取り戻した彼女が、心からの笑顔で稲崎を見つめる。

 引き離された嘆きの時間を取り戻すかのように、二人は視線をからませ合った。


 稲崎が、腕を少し折り曲げて、彼女がつかまる部分を作る。奈美は皿をテーブルに置き、彼の腕に手を通した。


 ゆっくりと、二人が歩きだす。


 宮子はいっそう大きく拍手をした。胸の奥から何かが込みあげてきて、涙があふれる。

 稲崎と奈美が近づいてくる。長い裾のせいで歩きにくそうにしている奈美を気遣うように、稲崎がとなりを何度も確認する。


 手をたたき続ける宮子と寛斎の横を、二人が通る。

 すれ違いざまに、稲崎が小さく言った。

「ありがとう」


 二人は振り返ることなく、絨毯の上を進んだ。少し傾斜し、下へ向かう道を。

 観音開きの扉が、音もなくひとりでに開く。その先は、塗りつぶされたように真っ黒だ。

 手前で止まった二人は、一度こちらを向き直って、深々とお辞儀をした。


 宮子は、力の限り手をたたいた。寛斎も、拍手をし続けている。

 稲崎と奈美は、お互いを見てうなずきあった。ゆっくりときびすを返す。そして、闇の中へと一歩を踏み出した。


 白いタキシードとウェディングドレスが黒に呑まれ、見えなくなる。

 扉がゆっくりと閉まった。


 宮子と寛斎は、同時に拍手をやめた。

 きらびやかな披露宴会場が消え、暗い洞窟に戻る。静まり返った薄闇の中で、となりにいる寛斎のころもだけが、うっすらと見える。


 これでよかったのだろうか。


 その問いを、寛斎に訊くことはできなかった。出ない答えをかかえ、自分で考え続けるしかないのだ。たとえ悔やむことになっても、一生かかっても。

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