第44話 破邪
手が汗ばむ。紙の端を握りしめていたことに気づき、宮子は手を離した。鏡台の上で、折り目のついた紙をのばす。
この芳名帳の名前は、正式な漢字を使っていない。それに、彼の本名は、戸籍上はまだ「寛太」だ。
――
宮子は、サイドボードに置いてある灰皿に、芳名帳を折り畳んで入れた。そばにあったライターで、火を点ける。
紙は、朱色の炎をあげ、なめらかに溶けていく。最後のひとかけらが燃えるとき、ひときわ大きく炎がまたたき、一筋の煙を残して消えた。
深く息を吸い込み、宮子は上を向いて叫んだ。
「
ぐらり。
世界が揺れた。地震かと思って壁につかまる。
次の瞬間、窓ガラスにつぎつぎとひびが入った。鏡台の鏡にも、放射状に亀裂が走る。
宮子が身構えると同時に、ガラスが一斉に音を立てて割れた。
腕で頭をおおい、飛んでくる破片を避ける。
おそるおそる見ると、窓の外にあるはずの景色はなく、深い闇が広がっている。赤い絨毯に散ったガラスの破片に、青空や遠くのビルが絵のように映り込んでいる。鏡台も確認したが、鏡が落ちた部分には、ぽっかりとした暗がりがあった。
空気が揺れたかと思うと、窓ガラスがあったはずの闇から、勢いよく炎があがった。窓枠を舐めるように呑み込み、部屋の中央へと外炎を伸ばしてくる。鏡台からも、触手のような焔がうごめている。出口を見たが、そこはすでに火の手が回っていた。
宮子は部屋の中央へ逃げた。
炎が天上を這い、吊り下がったシャンデリア風の電灯に燃え移る。赤い絨毯は、炎の色と同化して、思い思いに火の先端を揺らしている。ソファにかけてあった純白のウェディングドレスが、橙色の炎にさらわれ、溶けるように消えていく。
もはや逃げ場はなく、四方から火焔が迫ってきていた。熱気で息が苦しい。このままでは、焼け死んでしまう。
「
いつも唱えている
「
轟音とともに、天井が崩れる。
ひときわ大きな剥落から身をかばおうと、宮子は両手で頭をかかえた。
すべての音が消えた。
落下物も火傷もない。さっきまであんなに熱かったのに、嘘のようにひんやりしている。宮子は腕をほどき、立ち上がってあたりを見回した。
真っ暗で、何も見えなかった。
この闇がどれほどの奥行きなのか、まったくわからない。ただ、足裏の感覚はあるから、どこかに立ってはいるようだ。
かがみこんで足元を確認する。指先に、ごつごつとした岩肌が触れた。石の冷たさと固さが、今は不安を取り除いてくれる。
膝に布の突っ張りを感じる。触ってみると、ドレスではなく、この世界へ来たときと同じ、ストレッチパンツとジャケットを着ていた。
ポケットを探る。財布と携帯電話にハンカチ、そして円筒形の小型ライトが入っている。
ライトを取り出し、首の部分をひねると、LEDの光がついた。四方にかざして見る。が、光の量が足りないのか、空間が広いのか、せいぜい足元しか見えなかった。
少しでも足しになればと、今度は意識を集中させ、指先から白い光の粒を放つ。ライトだと物理的なものしか照らせないが、これなら観念的なものにも反応するだろう。
「宮子か?」
声が聞こえた。追いかければつかまえることができる距離だ。
聞き間違えるはずもない、寛斎の声だった。
宮子は、声のした方へライトを向け、全力で走った。岩の突起につまずき、体が前につんのめる。
「危ない」
倒れかけた体が、誰かの腕にくるまれる。強い力で引っ張られ、その人の胸の中に抱き寄せられた。
集中が切れ、光の粒が消える。小型ライトは、まったく別の方向へ向いていて、その人物の顔は見えない。
それでもちゃんと、彼だとわかる。
「岩の裂け目でもあったら、どうするんだ」
なつかしい声が、耳のそばでする。
宮子は力の限り、寛斎の体を抱きしめた。厚い胸、服の上からでもわかるぬくもり。確かにここにいて、生きている。顔をうずめて、思う存分息を吸い込む。日に干した洗濯物のような、清潔であたたかなにおいに包まれる。
息を吐くと同時に、涙がこぼれた。嗚咽をこらえきれず、宮子は顔を押しつけ、声をあげて泣いた。
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