第43話 ウェディングドレス

「何もここまでしなくても」


 鏡の前でえりを正す稲崎の背中に、宮子は言い放った。彼が寛斎を過去に飛ばさなければ、こんなことにはならなかったのに。

 てっきり「それは逆恨みだ」と言われるかと思ったが、稲崎は反論しなかった。動きを止め、鏡越しにじっと宮子を見ている。


 稲崎が振り向いた。先ほどまでの意地悪な表情ではなく、タキシードにそぐわない哀しげな顔をしている。サイドボードにある電話を取り、番号を押す。

「三〇二号室です。……あれを持ってきてもらえますか」


 受話器を戻すと、稲崎は宮子へと近寄り、ぽつりと言った。

「僕のことなんかほっといて、桃果ちゃんだけを連れ帰ってくれればよかったのに」


 ぶつかり合う視線は、ノックの音にさえぎられた。

「どうぞ」

 稲崎が声をかけると、扉が開き、女性スタッフが二人がかりで何かを運んできた。大きな白いものが、窓の前に立てられる。


 トルソーに着せられた、純白のウェディングドレスだった。


 一礼して、スタッフが出ていく。

 窓際で光を受けて輝くドレスは、あまり胸元が開いておらず、シルク生地の美しさを活かしたシンプルなものだった。裾はすらりと長く、清楚な感じで、宮子の好みによく合っている。


「このドレスは、あなたに差し上げるよ。決心が固まったら、これを着て寛斎君に会いに行くといい」


 稲崎が、鏡台に置いてあった小さなケースを手にして、ドアへと歩きだす。扉を開けたところで、宮子の方を振り向く。


「時間だ。僕は、奈美のところへ行くよ。見ての通り、これから結婚式なんだ」


 ケースを開けて、中の指輪を見せる。三諸教本院に来たとき、チェーンに通して首から下げていた、プラチナの結婚指輪だ。


「やっと、奈美に渡せる」


 稲崎が心底嬉しそうに目を細め、歯を見せて無防備に笑う。声は弾み、遠足前のような浮かれた気分が、宮子にも伝わってくる。

 指輪を満足げに眺めてからふたを閉じ、じゃあ、と言い残して稲崎が去る。


 あとには、ウェディングドレスと宮子が取り残された。


 ソファから立ち上がり、トルソーへと近づく。美しく輝くドレスは、死のイメージからかけ離れている。


 ――これを着て、寛斎さんと。


 彼は、何と言うだろう。また無茶なことをして、とあきれるだろうか。管長さんや鈴子ちゃんに申し訳ない、と嘆くだろうか。それとも。


 宮子は、ウェディングドレスのホックをはずし、トルソーから脱がせた。ずしりとした重みが、腕に伝わる。

 いったんドレスをソファにかけ、今着ているボレロを脱いだ。両手を背中に回し、エメラルドグリーンのドレスのホックをはずして、ファスナーを下ろそうとする。

「あ」


 ホックが、左手首にはめたままの数珠にひっかかる。寛斎にもらった念珠ねんじゅが切れてしまわないよう、宮子は右手で慎重にホックから離した。


 無事を確かめるように、数珠を指で一玉ずつなでる。あの朝、彼がはめてくれたときの手のぬくもりを、まだ思い出せる。


「俺が帰るまでって、約束したのに」

 涙が込みあげてくる。数珠に唇を寄せ、頬ずりする。


 ――あたたかい?


 数珠は、木のぬくもり以外の熱を帯びていた。

 術者である寛斎が死んだのなら、術を仕込んだ数珠はバラバラにほどけてしまうはずだ。それなのに、まだ紐は切れていない。


 ――生きている!


 宮子はテレビに駆け寄り、リモコンをかざしてスイッチを入れた。

 真っ黒だった液晶に、寛斎の姿が映る。ブラックスーツに身を包み、かたわらにはドレスアップした宮子自身がいる。この式場に来たときの、受付の場面だ。


「ご芳名をお願いします」

 寛斎が筆ペンを取る。少し逡巡したあと、「須藤寛斉 宮子」と連名で書く。


 あのときは、別のことに気を取られていたが、なぜ彼は「寛」と略字で書いたのか。そして、宮子の名字を省いたのか。


 術をかけるには、相手の名前がいる。本人の自筆だと、効果も高い。寛斎は、しゅをかけられることを恐れて、わざと略字を使い、「柏木」の名字を書かなかったのではないか。


 宮子は鏡台に駆け寄った。引き出しを片っぱしから開ける。

「あった!」


 左の引き出しに、特殊な折り方をした白い紙を見つけた。


 紙は「神」にも通じる。それを折り、包み、結ぶことで、術をかけることもできるのだ。

 震える指で、折りをほどいて広げる。やはり、芳名帳の一ページだった。二人の名前の周囲に、記号のような呪符じゅふが墨書されている。

 見よう見まねのしゅでも、作法通りに行えば効き目はある。このせいで、寛斎は助かるはずの場面で助からなかったのだ。

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