第42話 偽りの死

 目が覚めると、宮子はソファの肘掛けに突っ伏していた。濃紺に花模様のソファ生地や、赤い絨毯の色彩が目に入る。


 そっと、誰かの手が肩に触れた。あたたかく、そして生きている。

 宮子はその手を両手で包み込み、頬ずりをした。

「よかった。……怖い夢を見てたの」


 違和感に気づく。手の形が違う。彼はもっと、骨ばった指と大きな手のひらだ。

 頬を離して凝視する。細い指や、やわらかな手のひらが、白いタキシードの袖口から出ている。


「君の彼氏じゃなくて、ごめんね」


 あわてて手を離して振り向くと、稲崎がソファの後ろに立っていた。憐れむような、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

 部屋の中には、他に誰もいない。


「……寛斎さんは、どこですか」

 まばたきせずに、宮子は稲崎をまっすぐ見つめた。

「あなたが見た通り。黄泉比良坂よもつひらさかのもっと奥にいるよ」


 先ほどのことが、生々しくよみがえる。唇を重ねて息を吹き込んでも、何の反応もなく戻ってきてしまう自分の呼気。淡色のころもを染める血の、鉄味をおびた、むせかえるようなにおい。ぬくもりと弾力が失われていく固い体。意志を持って動いていた人間が、「ぬけがら」になる瞬間。


 宮子は自分の腕を抱き、震えを止めようとした。

「嘘よ。ここは、観念の世界のはず。強く念じることで、その時間や人を含む空間を現出させる、現実であって現実ではない場所。だから、彼が死ぬはずはない。死ぬはずがないのよ」

 自分に言い聞かせるよう、宮子はつぶやいた。稲崎が、ソファの背もたれに肘をつき、身を乗り出す。


「観念でも、人は死ぬんだよ」

 やさしい声に、かえってぞっとする。


「ブアメードの血の話を知ってるかい? オランダで、こんな実験をしたんだって。被験者をベッドに縛りつけ、目隠しをする。足の指を少しだけ傷つけ、被験者には容器に水滴が落ちる音を聞かせ続ける。しばらくして、実験者がこう言う。『もう致死量の血液が出てしまったね』そうしたら、被験者は死んでしまったんだって。足指の傷は、せいぜい血がにじむ程度で、他に怪我も病気もしていなかったのに」


 だめ押しのように、稲崎が言う。

「想像だけで死に至ることは、可能なんだよ」


「でも、さっき会ったのは、十八歳の彼だった。今の彼じゃない」

 二十四歳の彼は、別のところにいたのではないだろうか。だとしたら、寛斎はまだ生きているはずだ。


「ここは観念の世界だ。時間も、空間も、同時に存在し、北京ペキンの蝶の羽ばたきがニューヨークで嵐を起こすみたいに影響し合っている。……残念だけど」

 稲崎が、最後はささやくように告げる。


 何も考えられず、ただ体がちぎれそうに痛い。両目から、涙というより眼球が溶けて流れたのではないかと思うほど、熱くて大量の液体が流れ、頬をぬらす。


「……いやだ。いやだいやだ!」


 宮子は頭をかかえ、ソファにうずくまった。寛斎のいない世界を拒否することでしか、正気を保てそうになかった。


「さっきの優等生とは思えない取り乱し方だね」

 いつの間にか、稲崎がとなりに座っている。


「死んだものはしょうがない。残された者は精一杯生きるのがつとめ。でしょ?」

 改めて聞くと、それはとても冷たい言葉だった。


 親しい人の死という共通項はあっても、重ねた時間や思い出は、一人ひとり違う。誰も代わりになれないし、すべてを察することもできない。つまり、特別なのだ。「特別」を、共通項でくくってはいけない。


「生きろって言われてもね。恋人が死んだことで、自分自身の一部も、確実に死んでしまったんだよ。他の人には見せない、彼女しか知らない自分の一面。言葉遊びみたいな二人だけの決まり文句、長く一緒にいることで、個性が溶け合って同じ雰囲気になる感じ。そういったすべてが、彼女と一緒に死んで、二度と戻って来ないんだ。……今なら、僕の言っている意味がわかるよね」


 稲崎の言葉に、宮子は力なくうなずいた。

 その通りだ。寛斎とともに、自分の一部、いや、かなりの部分が死んでしまった。


 口下手ながらも、「今日は観月祭かんげつさいだな」「そろそろ稲刈りか」といった短文のメールを、「そっちはどうだ」と一言添えて送ってくれたときの、くすぐったい気持ち。会ったあと、まだ帰りたくなくて、ぐずぐずとそばにいる感じ。彼の好物の羊羹ようかんを見ると、今どうしてるかな、食べさせてあげたいな、と考えてしまうこと。

 あの幸せな時間は、もう永遠に味わえないのだ。


 親しい人を亡くした者が最初に欲するのは、励ましや未来の展望ではなく、死者への追慕であることの意味が、はっきりと理解できる。一緒に消えてしまった自分の一部を、そのときだけでも呼び起こしたいのだ。

 稲崎は、奈美とともに死んでしまった自分の比率が高すぎたから、ここまで来てしまったのだ。


 稲崎が立ち上がり、鏡台の前へ向かう。

「もう、僕のことを止めようとは思わないよね」

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