第41話 接吻

 世界が、ひどくゆっくりに見えた。

 宮子に気づいた寛斎は、目を見開いたが、決してその印を解かず、真言を唱え続けている。宮子は彼の手をつかんでほどこうとした。が、手甲ごしに触れる腕は頑健で、びくともしない。


 飛びかかった反動と宮子の体重が、すべて寛斎へとかかる。彼は印を結んだまま、床へと倒れた。それでもなお、本尊を勧請かんじょうする真言を唱えながら。


 ――その真言を唱えてはだめ。


 床に打ちつけられた寛斎へ、おおいかぶさるように体を重ね、宮子はその口を自分の唇でふさいだ。


 火熱で乾いた唇に触れた瞬間、炎が喉を通り、体内の管という管を焼いたように感じた。あまりの熱さに体が痙攣し、気を失いそうになる。


 寛斎の積年の想いが作り出す灼熱の中、宮子は懸命に水をイメージした。清流が滝となり炎を呑み込むところを、途切れそうになる意識の中で必死に観じる。

 暴れ回る火の勢いは強く、水がつぎつぎと蒸発していく。が、宮子は根気よく、清らかな水で炎を包み込んだ。彼を抱きしめるように。


 やがて迦楼羅炎かるらえんは勢いを削がれ、細い火となって水の中に消えた。


 頬が、ひんやりとした空気に触れた。

 密着した体に、寛斎の腹がわずかに上下するのを感じる。宮子が両腕に力を入れると、彼の手はあっけなくほどけ、両肩の脇にぱたりと落ちた。


 炎が、消えた。


 宮子は、そっと唇を離した。少し顔をそむけて息を吐き出し、深呼吸をしてから寛斎に向き直る。

 護摩壇ごまだんの火は消え、煙のにおいが漂っている。彼の顔を、窓から入るわずかな月光が照らしていた。


 至近距離にある寛斎の目は、宮子を通り越して虚空を見つめていた。その黒目がみるみる収縮し、このまま色を失ってしまうのではないかと思えた。

 あとに残ったのは、うつろな瞳。絶望した人間の目。


 六年前と同じ光景だ。

 方法はこれしかなかった。それでも、やはり狂おしいほど胸が痛み、涙がにじんで寛斎の顔が見えなくなる。


 十八歳の彼の悲願だった犯人調伏ちょうぶくぎょうを邪魔したのは、自分だ。彼を絶望させているのは、他でもない自分自身なのだ。


 でも、これでいい、と宮子は思い直す。とりあえず、彼が無間地獄むげんじごくに堕ちることは避けられた。


 先ほどから、何かが焦げたにおいがしている。これは、自分の長い髪が燃えた臭気だ。

 十八歳のあのときも、加持を中断した代償として、髪を焼かれた。髪の毛なんて、また伸びる。それで寛斎が助かるなら、どうということはない。


 寛斎の目に焦点が戻ったかと思うと、宮子を突き飛ばして上半身を起こした。

 床によろめいた宮子は、彼の呻き声を聞いた。尋常ではない、明らかに危機に瀕した声を。


 飛び起きて、膝立ちで駆け寄った瞬間、寛斎は大量に吐血した。

 咳き込んだために、赤い飛沫が勢いよく散る。月明かりで、ころもの色がどす黒く変わっているのがわかる。うずくまる彼の上半身を支え、背中をさすると、彼は再び血を吐き、床に倒れ込んだ。

「寛斎さん!」


 これも織り込み済み、過去の通りだ。ぎょうを止めた代償として急病にかかったのだ。でも、命さえあれば立ち直れる。


 宮子は落ち着いて、彼の上半身を自分にもたせかけた。のどを詰まらせないよう、指で唇と歯を押し開き、気道を確保しようとする。

 彼の意識はすでになく、あごは抵抗なく動き、開いたままになった。指から手首へと、血が伝う。


 違和感に、体中の皮膚が粟立った。

 念のため、鼻と口の近くに耳を近づける。


 ――嘘。


 頭の中が凍りつく。宮子はあわてて、手首と頸動脈に触れて確認した。


 呼吸も脈も、なかった。


「嘘よ! あのときと違うじゃない!」

 六年前、寛斎は確かに出血性胃潰瘍で吐血し、意識を失った。だが、呼吸も脈もあったし、救急車で運ばれて手術を受け、一命を取りとめたのだ。


 寛斎を仰向けに寝かせ、その上にまたがって心臓マッサージを始める。胸骨の上に両手のひらを重ね、上半身の重みを乗せて必死で押す。途中で、鼻をつまんで口から息を送り込む。何度も繰り返すうち、汗が流れ、涙と一緒になって寛斎の体へと落ちる。


 もう何百回、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返しただろうか。

 しびれて感覚のない腕を投げ出し、頭を彼の胸につける。祈るような気持ちで。


 しかし、再び鼓動が聞こえることはなかった。


 体温のないその胸に頬をつけたまま、顔を見上げる。もはや、そこに彼は「いない」ことを、宮子は悟った。


「いやぁ!」


 動かない寛斎の体を抱きしめ、宮子は叫んだ。叫ばなければ、どうにかなってしまいそうだった。悲しいとか苦しいとか、そんなおとなしい感情ではなかった。


 体を焼かれるような熱さの中で、宮子は叫び続け、気を失った。

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