第40話 調伏

 ――彼を止めなきゃ。


 宮子は、空地の横にある長い石階段を、走ってのぼり始めた。この上には、寛斎の師、玄斎が住んでいたいおりがある。


 二人が十八歳のとき、玄斎が亡くなった。三月の四十九日法要が終われば、寛斎は師の遺言により、山を下りて父親の元へ戻ることになっていた。彼の父親は、妻を殺された悲しみや周りの無理解、犯人が死刑にならなかった憤り等が重なって、精神的に滅入ってしまい、助けが必要だったのだ。


 月光が不気味なほど明るく、足元をくっきりと照らす。影に縁取られた静かな世界の中に、自分の足音と荒い息づかいだけが響いた。階段は腹立たしいほど長く、のぼってものぼっても先がある。


 ――お願い、間に合って!


 あのときは、ギリギリだった。もしかして、今回はタイミングがずらされているのだろうか。だとすると、寛斎は。


 やっと門の前にたどりついた。

 息が切れて、激しく咳き込む。心臓が破れそうなほど鼓動を打つが、休んでいる暇はない。


 正面扉は閉まっているので、宮子は脇の通用口を開け、身をかがめて中に入った。小さな庭に、寛斎が世話をしていたお気に入りの白梅が、ひっそりとたたずんでいる。その静寂の中に、真言が低く響く。

 あの夜と同じ、寛斎の声だ。


 宮子は足音を立てないよう、爪先で小走りになった。まだ荒い息を殺して、入り口の戸を引き、体を横にして滑り込ませる。


 土間の左側にある板の間に、結界の注連縄しめなわが張り巡らされている。その中に、行者の装束を着た寛斎の、斜め後姿が見えた。

 前には、火のついた護摩壇ごまだんがある。木の燃え具合や炎の勢いからすると、点火して間もないだろう。


 まだ間に合う。


 宮子は念のため、炉の形を確認した。病気平癒なら丸い炉というように、行法によってどの形の炉を使うかが決まっているからだ。


 ――三角の炉。


 わかっていたのに、全身の皮膚がぞわりとする。

 三角の炉を使用するのは、調伏法ちょうぶくほう。つまり、敵を呪う行法をしている証拠だ。


 人を呪わば穴二つ、という通り、母親を殺した犯人を呪殺するなら、寛斎も無事ではすまない。私的な恨みで加持かじを修するのは、行者としての禁に触れる。

 万一彼が、師僧から正式に調伏法ちょうぶくほうを伝授されていなければ、越法罪おっぽうざいになる。寛斎の事情を知りながら、玄斎が調伏法ちょうぶくほうを授けたかどうかは、疑問が残る。越法罪おっぽうざいは、無間地獄行きの重罪だ。


 彼が永遠の闇に堕ちるのを、黙って見ているわけにはいかない。何としても、止めなければ。


 宮子は板の間に駆け寄った。気づいているはずなのに、寛斎はまったく意に介さず、真言を唱え続けている。


「お願い、やめて」


 あのときは、もっと違うことを言ったはずだ。犯人を呪殺してもお母さんは喜ばないし、師である玄斎様も悲しむ、と。


 しかし、宮子はわかっていた。彼は、そんなことは百も承知なのだ。

 少年の日から、毎日苦しみ、悩み抜いた末、この場でぎょうを修しているのだ。師僧から慈悲の心を育てるよう教え続けられてもなお、理屈ではどうしようもない、行き場のない想いが、彼を調伏炉ちょうぶくろの前に座らせているのだ。


 血まみれの床で、首を切られた母親の亡骸のとなりに座る、少年の日の寛斎。涙すら流せず、母の遺影を持って、茫然と葬儀に出る姿。犯人逮捕の報を聞いて、包丁を持って駆け出し「殺してやる」と叫ぶ声。裁判を傍聴し、報道陣に向かって無言で合掌し一礼する、山伏装束の異様さと険しい表情。

 それらがごうの炎となって荒れ狂い、印を結んで真言を唱える彼の背後に見えた。


 止められない。でも、止めなければ。


「そんなことをしたら、あなたは代償として、無明むみょうの闇を永遠にさまようことになってしまう。……お願いだから、やめて」


 板の間にあがりこむと、宮子は寛斎のそばへ寄り、護摩木ごまぎをくべる手をためらうことなくつかもうとした。


 不意を突くつもりだったのに、彼はすばやく手を引っ込め、手刀しゅとうを作って宮子に向かって気を放った。


 とたんに、体の動かし方を忘れたかのように、宮子は床に崩れ落ちた。意識と体がばらばらになってしまい、指一本動かすことができない。


 動きが遅かった。あのときと同じになってしまった。


 目玉だけで視線を動かし、寛斎を見上げる。

 彼は、宮子を一瞥すると、護摩壇ごまだんの方へ向き直り、真言を唱え始めた。まだ少年の名残がある彼は、険しく思いつめた表情をしている。目は吊り上がり、黒目の部分に炎が映っている。

 中身も十八歳の寛斎だ。二十四歳の彼ではない。無理やりでなければ、行法を止めないだろう。


 宮子は呼吸に意識を集中させた。寛斎の師、玄斎から教わった、呼吸瞑想だ。吸います、吐きます、と息に合わせて念じる。

 だんだんと、体と意識がつながってくる。精神統一をし、足に力を集める。一瞬だけなら動けるだろう。


 寛斎が、新たな印を結ぶ。あの形は、加持の本尊をお迎えするための第一段階だ。神を召喚すれば、手遅れになってしまう。今、阻止しなければ。


 すべての力を足に込める。

 宮子は床を蹴り、十八歳の寛斎に向かって飛びかかった。

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