第39話 呪われた日

「嘘です。稲崎さんは真面目な人です。会社を不誠実な形で辞めたこと、本当は気になっているのでしょう。誘拐犯の汚名を着せられたまま行方不明で、失踪宣告により死亡となれば、ご家族に迷惑をかけることにも、心を痛めているはずです。奈美さんのお父さんにも、娘のせいで人生を狂わせてしまったという、心理的負担をかけてしまう」


 部屋の中を歩きまわる稲崎に、寛斎は続けた。

「稲崎さん、桃果ちゃんのこと、心配してましたよね。……あなたは、悪人にはなれない。奈美さんのことが大切で、一緒にいるためには何でもしたい。でも、悪いと感じながら平気でいられる人じゃない」


 向かいのソファの背もたれに手をつき、稲崎が寛斎をにらむ。寛斎も、稲崎から視線をそらさずに見つめる。


「私もまだ迷っています。あなたを連れて帰るのが、本当にいいのかどうか」


 一呼吸おいて、寛斎が続ける。

「ただ、少しでも罪悪感を持っているのなら、元の世界に帰った方がいい。よくないほころびが出てしまいます。今生こんじょうを精一杯生きて善行を積み、功徳くどくを奈美さんに回向えこうし、お二人で来世を歩まれた方が……」


「そんな保証がどこにある!」

 寛斎の言葉をさえぎって、稲崎が怒鳴る。


「今、奈美をつかまえなければ、輪廻りんねだか幽世かくりよだかわからないが、はぐれてしまう。すべてはの積み重ねだ。今、奈美と一緒にいなければ、意味がないんだ!」


 目を見開き、眉を吊り上げる。ずっと余裕を見せつけることで距離をとっていた稲崎が、初めて見せる激しさだ。


「君たちは、あれだ。僕を放っておいて結果的に死んだら、自分たちが見殺しにしたみたいで気分が悪いから、とりあえず止めにきただけだよ。違うかい?」


 違う、と自信を持って即答はできなかった。どうするのがいいのか、自分でもまだ迷っている。宮子は稲崎を直視できずに、視線を落とした。


「寛斎君。君は、となりにいる彼女が今死んでも、同じことが言えるかい? お母さんを殺された傷も癒えていないのに、ようやく手に入れた安らぎも失うんだよ」


 からみつくような、ねっとりとした声が体を縛る。

「そっちの神主さんも。ちょっと。寛斎君が死んでしまって、一人残された自分を」


 有無を言わせない稲崎の声に、つい脳裏に浮かべる。冷たくなってもう動かない寛斎を前に、茫然と座る自分を。


 ほんの一瞬考えただけなのに、じっとしていられないほど狂おしく、叫び回りたい衝動に駆られた。


 小学六年生のときからずっと、彼を見てきた。どうしたら力になれるのかを考え、彼のちょっとした好みや癖を発見するだけで嬉しくなった。きれいなものを見たり、おいしいものを食べたりしたら、彼とも共有したいと思った。離れているときも、意識の上では彼と一緒にいた。もはや自分自身の一部になっている。

 その彼がいなくなる。残りの人生を彼なしで生きることになる。その空白に、自分は耐えられるだろうか。


 そして、つらいことの多かった彼の人生が、半ばで終わってしまうのは、哀しすぎる。もっと笑って欲しい。引け目を感じず、生きることを肯定して欲しい。


 前にも、そんな風に思ったことがあった。あれは、高校三年生のときだ。寛斎が法術に失敗して、命を落としかけた――。


「二人とも、思いつめた顔だね。やっと本気で、自分の身に引き寄せて考えたかい?」


 稲崎が鏡台へと歩いていき、置いてあったリモコンを手にした。テレビに向かってそれをかざし、ボタンを押す。

 プツン、という音がして、画面がつく。


 黒い画面が切り替わり、夜道を走る軽自動車が映し出される。車は乱暴に切り返し、空地に停車した。


 ドアを開けて降り立ったのは、十八歳の宮子だった。


 全身がすくむ。人生でいちばん長い日の記憶で、宮子は皮膚が粟立つのを感じた。

 稲崎が、こちらを見て、にやりとする。


「ついでに、考えるだけじゃなく、体験してきたらいい」


 稲崎が言い終わると、部屋の電気が消えて真っ暗になった。




 最初に感じたのは、寒さだった。


 さっきまで室内にいたはずなのに、冷たい風が容赦なく頬を打つ。思わず首をすくめて両手で腕を抱くと、分厚い生地のコートを着ている。

 だんだん目が慣れてくる。青白い月明かりの中、紺のコートを着た宮子は、先ほど観た映像の通り、車の横に立っていた。


 血の気が引き、胃のあたりが重くなる。足がすくんで座り込みそうになるのを、力を入れて踏ん張った。


 あの日だ。あの日に戻ってしまったのだ。

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