第38話 罪と愛

「まさか、稲崎さん……」

 寛斎がつぶやくと、稲崎はさらに笑い声をたてた。


「記念すべき最初の一口は、ちゃんと取ってあるよ。しょうもないお茶なんかで、逝きはしない。……まあ、座ったらどうだい」


 向かいのソファを勧める。寛斎が、宮子の方を見てからソファへと進んだ。二人並んで腰をかけ、稲崎と対峙する。

「二人とも、いかめしいころもで来るのかと思ったら、普通の正装なんだね。よく似合っているよ。次は、白いやつを着たらいい。あ、ころもじゃなくて、洋服のだよ」

 稲崎が上機嫌でしゃべり続ける。


「ああ、桃果ちゃんは、元の世界に帰ったってね。ま、その方がいいかな。あの子はまだ小さい。お父さんもいるし」

 推測だろうか、それとも知っているのだろうか。だとしたら、どうやって。宮子は、稲崎の表情をうかがった。

「なんで知ってるかって? 観てたんだ、あれで」


 稲崎が指さした先には、小型のテレビがあった。


「いろいろ映るから、面白いよ。閻魔様のところにある浄玻璃鏡じょうはりのかがみみたいなものだと思う。その人の過去を見せてくれるんだ。チャンネルは、十二まで選べる」


 何も映っていない液晶が、不気味なものに見えてくる。他の人にしゃべらせまいとするかのように、稲崎が続ける。

「桃果ちゃんのことは、気になっていたんだ。ちょっと悪いことをしたかなって。彼女、ちゃんと向こうへ帰れたよ」

 稲崎が、宮子の顔をのぞきこむ。


「ついでに、あなたの妹の鈴子さんも。……安心したかな?」


 背筋を冷たい手でなでられたように、神経がぞわりとする。彼は、鈴子のことは知らないはずだ。本当に、あのテレビで観ていたのだろうか。

「やだなあ。二人とも、怖い顔して。……奈美の過去は、観てないよ。ストーカーじゃないんだから。そりゃ興味はある。すべてを知りたいと思う。でも僕は、今の彼女さえいれば、十分なんだ」

 体を乗り出して、稲崎が微笑む。相手を黙らせるような、圧迫感のある笑顔だ。


「祝福して、くれるよね」


 沈黙が流れる。やがて、寛斎が口を開いた。

「できれば祝福したい。でも、体のない奈美さんを現世に連れ帰ることは、不可能だ。そして、あなたはまだ生きている。ここに留まれば、死ぬことになる。それは、自殺と同じだ。放ってはおけません」


 稲崎の顔が険しくなる。

「そちらの神主さんの意見は?」

 口元だけで笑顔を作った稲崎に、ねめつけられる。宮子は、気圧されまいと背筋を伸ばした。


「私も、個人的には、お二人が一緒にいられればと思います。が、人の生き死には、神様がお決めになることです。人間が左右してはなりません。それに、奈美さんも、稲崎さんが生きることを望んでいたはずです」


「ハッ」

 稲崎があきれたように鼻で笑い、ソファにもたれかかる。

「どこかのお涙ちょうだいモノみたいだね。『そんなこと、彼女も望んでないわ。生きるのよ!』……バカバカしい」


 声色を変えて、あざけるように宮子を見る。

「ああいう安いドラマはね、作り手が『そうあって欲しい』と思っているだけだよ。自分から死を選ぶのはいけない、間違っている。そこで思考停止だ。なぜなのかを、考えようともしない」


 背中を起こし、稲崎が身を乗り出す。

「勝手に奈美の気持ちを代弁しないで欲しいな。優等生の神主さん」


 おだやかな顔立ちなのに、得体のしれない雰囲気に呑まれそうになる。宮子は両手を握り、血を循環させることで気持ちを奮い立たせた。

「あなたが三諸教本院に来られたとき、奈美さんがそばにいたんです。私に向かって言いました。『彼を助けて』と」


 稲崎が、目を見開いたまま硬直する。しばらくして、目をそらしながら言った。

「助ける、といっても、『救って』ではなく『協力して』だったかもしれない」


 返答に詰まる宮子に代わって、寛斎が口をはさむ。

「自ら死を選ぶのが、なぜいけないのか。自分であれ他人であれ人以外の動植物であれ、命をあやめることは罪です。罪に対して、人は処罰感情を持ちます。無意識のうちに罪悪感を持ち、自らを罰しようとする。幸福を避け、自分自身を貶める行動を取ってしまうのです。道徳的な理由以外で、悪いことをしてはいけない理由はそこです。表向きは平気な顔をしていても、まったく罪悪感を持たないことは、難しいのです」


 稲崎が立ち上がる。

「僕は、罪悪感など持っていないよ。あるのは、奈美への愛情だけだ」

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