第35話 桃の神

「でも、ここに留めたら、桃果ちゃんも死ぬんです」


 泰代の動きが止まる。

「友だちと遊ぶことも、大人になることも、夢を叶えることも、何にもできなくなるんですよ」

 宮子の言葉に、泰代が耳をふさぎ、声を押し殺して泣きだした。くぐもった声が胸に刺さる。彼女だって、娘を留めるのがよくないと、わかっているのだ。


「泰代さん、大岡越前って知ってますか?」

 鈴子の言葉に意表をつかれ、泰代の泣き声が止まる。彼女は顔をあげ、不思議そうにうなずいた。


「子争いっていう、有名な話がありますよね。二人の女が互いに、自分がこの子の母親だと訴えを起こした。大岡越前は、子どもの左右の腕を力いっぱい引っ張って、勝った方を母親とする、と言った。女たちは腕を引っ張り始めたけど、子どもが痛がって泣くのを見て、本当の母親の方は腕を離してしまった。越前守えちぜんのかみは、腕を離した方の女を母親とした、っていう話」


 考え込むように、泰代がうつむく。

「旧約聖書にも、似たような話があります。この場合は、ソロモン王が『子どもを剣で半分に切り裂き、片方ずつ与えよ』と裁きを下します。一方の女が、『どうか生きている子をあの女に与えてください。決して殺さないでください』と言ったので、王はその女に子を与えたそうです」


 鈴子が何を言いたいのか、泰代も感じたようだ。

「大岡越前の話の実母は、愛情が薄いから手を離したんじゃありません。すごく葛藤したと思います。それは、みんなわかってます」


 泰代が涙を拭きながら、小さくうなずく。

「たとえ自分と一緒にいられなくても、子どもにつらい思いをさせない道を選ぶ。それも愛情です」


 鈴子がこちらを向き、目でうながす。宮子はあとを引き受けた。

「泰代さん。あなたがどれだけ桃果ちゃんを愛情深く育てていたか、村の人はみんな知っています。礼儀正しくあいさつをして、友だちとは仲良く、小さい子には面倒見がよく、桃果ちゃん、すごくいい子です。泰代さんがお母さんだからです」


 泰代が唇を引き結び、目をかたく閉じる。

 宮子は躊躇した。本当は、こんな残酷なことは言いたくない。母娘を一緒にいさせてあげたい。


「泰代さん。桃果ちゃんの成長を、これからは遠くで見守ってくださいますか」


 目を閉じて顔をゆがめたまま、泰代は動かない。唇が小刻みに震えている。


「桃果ちゃんを、元の世界へ連れて帰ります。……許して、くれますね」


 宮子は、ゆっくり、しかしはっきりと言った。

 泰代は両手を握りしめ、何かに耐えるような表情で天を仰いだりうつむいたりしたあと、涙混じりに小さく答えた。


「はい」


 宮子は、寛斎や鈴子と顔を見合わせ、うなずいた。泰代の苦渋が、胸に重くのしかかる。しかし、長時間現世うつしよを離れると、魂が弱ってしまう。幼い桃果はなおさらだ。早く帰らなければ。


「あの神社の鳥居を使おう」

 寛斎の視線の先には、植え込みの向こう側の、神社の摂社せっしゃがあった。二人で並んで通るにはせまいくらいの、小ぶりの木製鳥居がある。

 鳥居は元来、境界や門の意味を持っている。を出現させるには、ちょうどいい。


 桃果を抱きかかえた寛斎、宮子、鈴子、そして泰代が、植え込みの切れ目へと移動する。生活道を越え、木立の中にひっそりとある小さなやしろと鳥居の前に立つ。木々にさえぎられているため、昼でも薄暗い。


「俺が、あの鳥居の中に、元の世界へ戻る道を通じさせる。……鈴子ちゃん、無事に桃果ちゃんを送り届けてくれるか」

 寛斎が鈴子に向かって言う。「やるっきゃないでしょ」と、鈴子が気合いを入れる。


「じゃあ、鈴ちゃん、お願い」

 宮子が言うと、鈴子は斜めがけにしたバッグから、ふせんと筆ペンを取り出した。呼吸を整えてから、はみ出しそうなほど大きく勢いのある筆遣いで、一文字を書く。


 桃


 ふせんを受け取り、宮子は小声で唱えた。

けまくもかしこ意富加牟豆美命おほかむづみのみこと


「桃」の字が一画ずつ舞い上がり、溶け合う。

 白いころもを来た、着せかえ人形程度の大きさの神が、宙に浮かびこちらを見ている。男女どちらにも見える童子のような顔立ちで、黒髪を角髪みずらに結い、桃の花を挿している。意富加牟豆美命おほかむづみのみこと、つまり、桃の実の神だ。


 『古事記』によると、伊邪那岐命いざなきのみこと黄泉国よみのくにの軍勢に追われて、黄泉国よみのくに現世うつしよとの境である黄泉比良坂よもつひらさかまでやってきたとき、桃の実を三つ取って投げつけたところ、黄泉よみの軍勢はことごとく退散したという。

 そこで伊邪那岐命いざなきのみことは、桃の実に意富加牟豆美命おほかむづみのみことという神名を授け、あらゆる現世の人々が苦しんでいるときに助けるように、と仰せになったのだ。


 宮子は深々と腰を折って拝礼した。

青人草あおひとくさの苦しき瀬に落ちてわずらへ悩む、これを助け給え」

 桃の実の甘いにおいがする。宮子はさらに続けた。


黄泉比良坂よもつひらさかにて迷い、難儀しております。……そこの女童めのわらわは、名を桃果と申します。この名の元に、どうかご加護を。無事に顕世あらわよへとお連れください」


 ――よかろう。


 頭の中に、幼子のような、それでいて凛とした声が響いた。

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