第26話 事件の日
気がつくと、宮子は川沿いの道路に立っていた。
車は通っておらず、大きなしだれ桜の木が、白地に薄紅をのせた花を風になびかせ、悠然と立っている。房ごとに違った動きをするせいか、小さな花々の陰影のせいか、桜は生き物のように見えた。
――桜? 今は十月だったはず。
ここは
うつむくと、宮子の手足は細く、小学校の制服を着ていた。とりあえず、時代は過去らしい。先ほどよりも成長した体つきからすると、高学年のようだ。
気を取りなおして、宮子はあたりを見回した。
少し先に、新興住宅が建ち並ぶ一角がある。こんな場所は記憶にない。遠方にすら山が見えないから、奈良県ではなさそうだ。
道路の角から、四人の男子児童が歩いてきた。ランドセルが体に対して小さく見えるから、高学年、おそらく六年生だろう。彼らは桜の木を指さして歓声をあげると、車が来ないことを確かめてから、一斉に走り寄った。ランドセルを地面に置き、太い幹を器用に登りはじめる。
桜。
宮子は思い出した。寛斎の母が殺された日、彼は学校帰りに友人たちと桜の木に登って遊んでいたことを。以前、彼とシンクロして記憶が垣間見えたことがある。
彼の記憶の中で、小学生の男の子が数人、駆けていった。大きな八重桜を指さし、一人が振り返って得意げに言った。
「な、須藤。すげえでかい桜だろ」
視線の主は、小学六年生のころの寛斎だった。ちょうど大阪の新興住宅に引っ越したばかりで、新しい友達の誘いに浮かれて寄り道をしたのだ。
男の子たちは木の根もとにランドセルを置き、桜の木にのぼったり、花びらを集めて紙吹雪ごっこをしたりと遊び始めた。今、宮子が見ているように。
ひとしきり楽しんだ後、お腹がすいた彼らは、いったん家に帰ってランドセルを置いた後、おやつを持ってここに集合する約束をし、家路についた。
そして小学六年生の寛斎は、母親の死体と対面した。
以後、「まっすぐ帰っていれば、母は死なずにすんだかもしれないのに」という後悔を引きずることになる。桜の季節が来るたびに、あの日の記憶が彼を苛み続ける。
寛斎の母を殺した犯人の名は、小西晴信。当時二十三歳。無精ひげを生やした痩せた男だった。
大企業に勤めていた父親がリストラのために職を失って学費を払えなくなり、小西は名門大学中退を余儀なくされた。ちょうど数年前の法改正で、正社員をリストラして派遣社員に切り替えることが一般的になってきた時代だった。
兄は医学部の学生だし、祖母の介護費用も必要だ。奨学金ではどうにもならない金額だし、自分なら大丈夫という自信もあったため、小西は自ら退学を選んだという。
しかし、最終学歴が高卒で、実践に役立つ資格も取っていなかったため、就職活動は難航した。本来なら名門と言われる大学を卒業するはずだったプライドもあったのだろう。小西は、なんとか職についても数週間で辞めてしまうということを繰り返していた。
最後に就いたのは、印刷工場の紙積みの仕事だったらしい。機械の速度と競争しながら、重い紙を延々と補充するため、腰を痛めてしまった。苦労して受験戦争を勝ち抜いてきた自分が、紙を運ぶだけの仕事をしていることに嫌気がさし、やはり一週間で辞めたという。
大見栄を切ったことや、自分と兄との格差を目の当たりにしたくない気持ちが邪魔をして、実家には戻れなかった。小西はそのうち、生活費にも困り出した。コンビニエンスストアやパン屋が売れ残り商品をゴミに出さないかをチェックして周り、ゴミ袋をくすねるようになった。廃棄パンを食べながら泣いた、と彼は供述した。
こんなはずじゃなかった。なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。小西の恨みは社会へと向かった。「富める者は、余っている分を弱者に回すのが当然」と、万引きもするようになった。
小西の中で、被害者意識だけが膨れ上がっていった。
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