第25話 母

ハクはね、もうコンとも体ともつながっていないから、とても弱いの。だから、生きている人が、亡くなった人のことを考えたりすると、そこから力をもらおうとする」

 ざりざりと、足音が響く。

「今までありがとう、っていう想いならいいけど、そうじゃないと、亡くなった人を逆にこの世にとらえてしまう。『きっと恨んでいるだろう』とか」


 以前、寛斎に同調して、記憶を垣間見てしまったことがある。

 水玉模様と間違うほどカーテンに飛び散った血飛沫ちしぶき、床一面の血の海に横たわる、彼の母親。あまりに深く切られて不自然に傾く首、血を吸い束になって固まった髪、毛束で隠れて見えない顔……。

 理不尽に終わらされた生に、しがみつかないわけがない。恨みも無念も、はかりしれないだろう。そう思わずにはいられない光景だった。


「周りの人のそんな思い込みが、見えないおりを作って、その人を閉じ込めてしまうことがあるの。『恨みを持った人』としてのイメージを勝手にかぶせ、よくないものとして」

 三諸教本院に戻ると、神殿に礼をして、二人は中に入った。


「じゃあ、その人は恨んでなくても、周りの人が『恨んでるだろう』って思い続けていたら、『恨みを持った人』になってしまうの?」

「そういう場合もあるし、その人はとっくに未練を解いてあがったのに、生きている人が勝手に亡霊を作りだして、苦しむ場合もある」


 寛斎もそうなのだろうかと思いながら、座敷から渡り廊下を通り、自宅へと向かう。彼は母親への祈りを、一日たりとも欠かしたことはない。高名な修験者であった彼の師僧も、折に触れて供養をしていた。

「それは、どうやって見分けるの?」

「きちんと見れば、わかるはずよ」

 母が立ち止まって、微笑む。


「宮ちゃんは、その男の子のことが好きなのね」

 友だちの母親、としか言っていないのに。頬が熱くなるのがわかる。

「じゃあ、助けになってあげて。絶対に手を離しちゃだめよ」

 母が、宮子の背中を押すようにたたく。


「行きなさい。その子のところへ」


 母だ。これは、宮子の脳が作り出した夢や幻ではなく、本当に母なのだ。


「お母さん。……やだ、もっとお母さんと一緒にいたい」

 苦笑しながら背を向けた母が、また歌うように言う。

「もういい大人なんだから、聞き分けのないこと言わないの」


 ふと見ると、大人の体に戻っている。服装も、黒のストレッチパンツに藍色のジャケットと、あの夜と同じだ。


 廊下の向こうから、赤ん坊の泣き声がした。

「鈴ちゃん、おしめかしら」

 いそいそと小走りになり、母がふすまを開ける。


「ちょっと待って。鈴子もこっちに来ているの?」

 振り返った母が、意味ありげに笑った。

「鈴ちゃんは、お父さんに似て、ゆるぎがないから、大丈夫」

 鈴子の泣き声が、激しくなる。


「そろそろ親離れの時間よ。……またいつか会いましょう」


 はかま衣擦きぬずれの音と、かすかな甘いにおいを残し、母がふすまの向こうに消える。


「お母さん」

 あとを追って、宮子も部屋に入った。が、そこに母はいない。御霊舎みたまやを見ると、遺影が増えていた。祖父母のものと、そして、母の。


「……やだ、お母さん!」


 赤子の声が聞こえてくる奥側のふすまへと駆け寄り、力いっぱい引く。そこに部屋がない、と気づくより早く、宮子の体は外へと飛び出していた。


 落ちる。


 記憶はそこで途切れた。

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