第24話 魂魄

 怯える宮子の肩に、母が手を乗せた。

「怖くなんかないのよ。幽世かくりよに帰るだけなんだから」

 母の手が、あやすように肩をたたいてくる。


「亡くなった方が残した思いを、できる限りご遺族に伝えて、精一杯の感謝と供養をするよう導くのが、お父さんやお母さんの仕事なの。そうすれば、亡くなった方のハクも執着を捨て去り、神様の気に当たることで浄化できる」


 肩を押されて、応接用の座敷へ戻った。

「それよりも、この世にしがみつく方が、怖いのよ」

 母は、外へ出る引き戸を開けた。下駄箱から草履ぞうりを出して履き、こちらを振り返る。おいで、という意味だろう。宮子は、予備に置いてあるヘップサンダルを履いて、あとに続いた。靴が大きいから、歩くたびに足から抜けてしまう。

 レンガ色の鉄扉を出て、母と並んで参道を歩く。楠の木漏れ日が、清々しい。鳥居を抜けて、道路へ出る。


「ほら」

 母の視線を追うと、側溝から人の上半身が這い出ている。

 泥人形のように形が不安定で、半ば溶けてずるずると汁が道路に落ちる。目や口は、穿たれた穴として頭にあるだけで、鼻や耳はもはや識別できない。


 あれが、こちらへ向かってきたら。宮子は母の後ろに隠れ、かつて人だったものを見つめた。

「もう、かなり前に亡くなった人ね。卑怯な方法で財産を取られて、相手を恨みながら死んでいったの」

 は、側溝から這いだしてはまたずり落ち、どうしても地面にあがることができない。


「かわいそう」


 思わずつぶやいた。

「財産を取った人が悪いのに。あの人は被害者なのに」

 宮子の肩に、母が手を置く。

「うん。でもね、同情しちゃだめよ。感情が共鳴すると、乗り移られることがあるから」

 それはよく知っている。彼らがもはや、生前の良識を持っていないことも。だが、冷たい考え方であることは、否めない。母の手が、軽く肩をたたく。


「あの人だってね、チャンスはあったの。遺族がちゃんと供養して、この世での恨みはきれいに忘れて、清々しい気持ちでのちの世へお向かいください、って伝えていたのに、聞く耳を持たなかった。だから、今は耳が潰れて何も聞こえない」


 が、元は口であった穴をぱくぱくとさせる。

「どんなに恨んでも、過ぎたことは変えられないのだから、未練を捨て去ってしまえばよかったのよ。普通は、供養を受けたり、お迎えの光に包まれたりすると、ハク、つまり個人の思念は昇華されるものなの。でも、自分ばかりを哀れんで、よい方向へ行くことを拒むと、あんな風になる。悪い気や自然霊に憑かれて、もう人だったころの記憶もなくして、それでも『何かを恨まなければ』っていう念だけが残り続けて、ずっとあそこで苦しんでいる」


 溺れているかのように側溝に沈み、また這い上がる泥人形が、とても恐ろしく、哀しくなってきて、涙がにじむ。慰めるように、母がまた肩をたたく。

「大丈夫よ。コンはちゃんと天にあがっているから。あれはハク、トカゲのしっぽみたいなもので、その人の一部だけど、本体じゃない。意志はなくて、思念として残っている記憶通りの行動を繰り返すの。誰かが憎いとか、悔しいとか、助けて、とか」


 助けて。


 空き巣に首を切られて死んだ、寛太の母が脳裏に浮かんだ。

 死ぬときに強烈な思念にとらわれてしまったら、ハクが残り続けて、あんな風になってしまうのだろうか。


「……助ける方法はないの?」

 母の白衣の袖を握りしめて、宮子は訊ねた。

「お盆になると、施餓鬼せがき供養をするでしょう。そのときだけは、あの人たちも、食べ物や飲み物を口にすることができるの。それが、最後のチャンス。自分を閉じ込めている思念がほぐれれば、あがれる可能性はある」


 寛太の母は、どうなったのだろう。修験者にまでなった息子の手厚い供養で、ちゃんとあがれただろうか。それとも、殺されたときの痛みや恐怖をずっと繰り返しているのだろうか。

「……友だちのお母さんがね、殺されたの。何にも悪くないのに、突然、首を切られて」

 握った白衣の袖を引っ張る。


「痛かったよね。怖かったよね。残した家族のことが心配だったよね。……何にも悪くないのに、それでも、ハクが残ってあんな風になっちゃうの?」


 タールのような上半身が、また側溝に沈む。その姿が、テレビのニュースで見た寛斎の母の写真と重なり、涙が込みあげてくる。


「戻ろうか」

 母に手を引かれて、鳥居をくぐる。砂利の敷き詰められた参道を、足音を鳴らしながら歩く。涙を止めることができずに、宮子はつないでいない方の手で目をぬぐい、鼻をすすった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る