第3章

第22話 邂逅

 誰かが頭をなでてくれている。一定のリズムで、やさしく、なめらかに。

 心地よさにまどろみつつ、あたたかな手の持ち主を確かめようと、宮子はゆっくりと目を開けた。


「あら、起こしちゃった?」

 見上げるとそこには、母がいた。


 白くきめの整った肌、ほっそりとした輪郭、厚くもなく薄くもなく品の良い桃色の唇。弾力の感じられる、黒く深い瞳。すべてを包み込んでくれるような微笑みは、記憶の中の母よりもさらにあざやかだった。幼いころに死んでしまった、最愛の母親。


「お母さん?」


 母がうなずく。後ろに束ねていた長い黒髪が、左肩からこぼれて宮子の目の前に垂れ下がる。白衣に袴姿だから、神社の仕事の合間に抜けてきたのだろう。


 起き上がって見回すと、そこは柏木家の座敷だった。床の間の横にある御霊舎みたまや前には、祖父と祖母の遺影はあるが、母のものはなかった。

 妙に体がスカスカすると思ってうつむくと、宮子は小学校の制服のブラウスに、私服のジャンバースカートを着ていた。ネコのアップリケは、母がつけてくれたものだ。小さいころは、この服がお気に入りだった。


 ――小さいころ?


 宮子は思わず立ち上がり、手足や体を確かめた。手のひらは小さく、みずみずしくて赤みがかっている。足は棒のように細く、肉づきにメリハリがない。

 これは、小学一年生のときの体だ。


「どうしたの、宮ちゃん」

 母が、首をかしげてこちらを見ている。その表情の作り方が、大人になった自分とそっくりだ。もしかしたら、無意識に母をまねていたのかも、と思いながら、宮子は畳に正座した。

 今、目の前に母がいる。薄れそうな記憶を懸命に上塗りしながら、大事に心へ留め続けていた母が、確かにいる。


「……ちょっとね、変な夢を見てたの」

「どんな夢?」

 うながすように、母が微笑む。

「夢の中で、私は大人になってるの。お母さんにそっくりなんだよ」


「そりゃあ、宮ちゃんはお母さんの子だもん。似てるのは、あたりまえー」

 歌うように言って、母が頬ずりしてくる。ほんのりとしたあたたかさや、化粧品のかすかな甘いにおいに、小さいころの母の記憶がくっきりとよみがえる。

 この確かな感触は、夢ではない。では、本当に向こうが夢だったのだろうか。長い長い胡蝶の夢。


「で、大人になった宮ちゃんは、何になってたの? お医者さん? それとも先生?」

「ううん、神主さん。この神社でおつとめしてた」

 お父さんと一緒に、と言いかけて、口をつぐむ。あの未来に、母はいなかった。視界の端に、御霊舎みたまやと祖父母の遺影が見える。


「そうなの。お父さん、喜んでたでしょう。宮ちゃんと一緒に奉職できて」

 母は、「じゃあお母さんはどうしてた?」とは訊かず、何もかも見透かしたような笑みを浮かべた。話を逸らそうと、宮子はまくしたてる。

「鈴ちゃんはね、小説家を目指してるの。でも、それだけじゃ食べられないし、自宅でできる仕事の方がいいからって、税理士の勉強もしてるのよ。まだ大学生なのに」

 言ってから、小学一年生の会話じゃないな、と思ったが、母は「二人とも、えらいなぁ」と宮子を抱きしめた。あたたかさと甘いにおいで、胸がいっぱいになる。


「……あのね、お母さん。病院で検査してきて。特に、頭の」

 母の死因は脳溢血だった。もし検査を受けていれば、早期発見できたかもしれない。


 不思議そうな顔で、母がこちらを見ている。

「えっと、あの、会社員だと毎年検査があるって、今日学校で聞いたの。うちは、お父さんもお母さんも、そういうの全然行かないでしょ。だから」

 背中に触れたあたたかな手が、宮子を励ますようにさする。

「わかった。宮ちゃんがそう言うなら、お父さんと一緒に、市の健康診断を受けてくるね」


 よかった、これで母は助かるかもしれない。少なくとも、この時間軸では。夢なのか、パラレルワールドなのかはわからないが、とにかく母を死なせたくない。


「でもね、宮ちゃん。……人は、いつか死ぬの。誰でも、例外なく。三諸教本院で神主をするのなら、きちんと理解して、死を受け入れなければいけないのよ」


 意外な言葉に、宮子は母の顔を見つめた。口元は笑っているが、目は真剣だ。

「お母さん」

 もしかして、この母は、自分が若くして死ぬことを知っているのだろうか。大人の記憶を持つ自分と同じく、「その先」のことを知った上で、この「もしも」の世界にいるのだろうか。

 宮子の脳が作り出した夢や幻想ではなく、本物の――。


「お母さん。……、お母さんなの?」

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