第15話 逃亡

 ホールに近い列はすでに埋まっているので、車はその後ろの列へと回り、空いている場所に切り返しなしで滑り込み、停まった。扉の開く音がする。

 宮子は建物の陰から、降りてくる人物を見極めようとした。栗色の髪が、他の車たちの向こうに見える。

 やはり、稲崎だ。


 バタンとドアを閉め、栗色の頭が助手席の方へ回り込む。再びドアの開く音がする。しばらくの間のあと、今度は先ほどよりもそっと、ドアを閉じる音がした。

 稲崎が何かを話しているが、内容までは聞こえない。もう一人の人物は背が低く、車に阻まれてこちらからは見えない。


 ――たぶん、桃果ちゃんだ。


 宮子は息をひそめた。今出ていっても、逃げられてしまう。ホール内に入ってから声をかけて、彼女を保護しよう。万一、稲崎が反撃したとしても、誰かが助けてくれるはずだ。


 栗色の頭が、後列の車から前列の車へと移動する。たぶん、桃果もその前を歩いているはずだ。あと少しで、姿を確認できる。宮子は思わず建物の角から首を出し、彼らを凝視した。

 稲崎が立ち止まり、後ろを振り向く。何ごとか声をかけると、車のドアが開く音がした。もう一人いるのか。


 車の屋根の上に現れた頭を見て、宮子は目を疑った。

 五分刈りの頭に頭巾ときん、色の黒い肌、鋭い目。どんな雑踏の中でも、見間違うはずがない。いつもいつも、いるはずのない場所でさえ、彼の姿を探してしまう、その人がいた。


寛斎かんさいさん……」

 思わず声が出た。つぶやいた程度だったにも関わらず、寛斎がすばやくこちらを向き、宮子の姿をとらえる。視線がぶつかる。


 彼は目を見開き、一瞬、「しまった」という表情をした。

 稲崎も、寛斎の視線の先を追って宮子の姿を見た。とたんに、何か短く言葉を発し、車へ戻ろうとした。


 ――車で逃げられてしまう。


 宮子は、三人の方へ走った。ドアが開く音がする。しばらくの間のあと、寛斎の頭が視界から消え、ドアが閉まる。タイミング的に、もう一人を先に乗せたのだろう。やはり、桃果もいるに違いない。


 もう一度ドアが開閉し、エンジンをかける音がした。逃げられてしまう。

 宮子は彼らの車の二つ手前の筋に入り、後ろの駐車列へと向かった。車が発進しかけたところで、通路に出た。左折して出口へ向かおうとするシルバーのセダンの前に、両手を広げて立ちはだかる。


 急ブレーキの音が響き、車は宮子の三十センチほど手前で止まった。

 不思議と恐怖は感じなかった。気持ちが高揚していて、ぶつかっても構わない、とさえ思った。


 フロントガラスの中をのぞきこもうとすると、ヘッドライトがつき、宮子は眩しさで目を細めた。気を取り直して詰め寄ろうとしたとき、車が急スピードでバックをはじめた。あわてて駆け寄るが、人の足との差は、みるみるついていく。


 車は駐車スぺースを抜け、T字に交わる通路に車尾を振って方向転換すると、スピードを増して前進した。宮子の目の前を、車の側面が通過する。


 ハンドルを握るのは稲崎、そしてやはり、後部座席に桃果がいた。妙に静かな眼差しで、宮子の方を見ている。

 そしてそのとなりに、修験者の装束を着た寛斎が、腕を組んで座っていた。


「待って!」

 宮子は、車を追って走った。後部座席の窓から、寛斎の頭が見える。

「行っちゃだめ、行かないで!」


 車が角を曲がろうとする。宮子はあわててナンバーを頭に入れた。わナンバーだから、レンタカーだ。シルバーのセダンは、駐車場の出入り口でテールランプを赤く光らせていったん止まったが、すぐに左折し、エンジン音を残して視界から消えた。


 ――寛斎さん、どうして?

 左手首の念珠を右手で握りながら、宮子は三人を乗せた車を茫然と見送った。

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