第12話 汲みにゆかめど道の知らなく
哄笑するかのような「優等生」という言葉にむっとしたが、すぐに思い直す。彼は、精神的に追いつめられている。何らかの答えが欲しくて、この神社にやってきたのだろう。死者を祀る三諸教本院に。
稲崎が、さらに畳みかけてくる。
「失礼ですが、身内を亡くしたことは?」
答えたくない、という気持ちより、嘘をついてはいけないという道徳意識、神主としての矜持の方が勝った。言葉には魂が宿る。できるだけ心を汚したくない。
「幼いころ、母を亡くしました」
答えてから、こういう馬鹿正直なところが優等生然としていると取られるのだろうな、と思う。
「それは、つらかったでしょう。まだ死の意味もわからないころに、自分の一部とも言える母親と死に別れて」
ゆっくりと稲崎が言う。いつもと立場が逆になったようで、居心地が悪い。できるだけフラットな表情で、宮子はうなずいた。稲崎が上半身を乗り出す。
「お母さんが生き返ればいいのに、と思いませんでしたか?」
視線が正面からぶつかる。彼の言葉を、無防備な心で受け止めてしまった。
――お母さんが生き返れば。
母があのとき死なずに生きていれば、と何度も思った。
幼かった宮子にとって、母親は自らの一部だった。突然の死は、自分の手足を精神的に切断されたのと同じことだった。父の手前、気丈にふるまっていたが、食欲もなく、夜も眠れず、世界が色を失って灰色に見えた。大好きだった本も文字が上滑りするだけでまったく頭に入ってこなかった。嬉しいとか楽しいといった感情を、長い間失ったまま過ごしていた。
それでも、生き返って欲しいと願ったことはない。幼いころからタブー意識のようなものがあったからだろうか。
――生き返る。でも、どうやって?
遺体は焼いてしまったし、もう何年も経過している。
とはいえ、世界の各地に、死者がよみがえった事例や秘法が伝わっている。
「生きていてくれれば、と思ったことはあります。が、母はもう亡くなったのですから、この上は、
稲崎が目を見開いてまっすぐ見つめてくる。
「本当に?」
たとえフィクションであっても、死者蘇生がうまくいく話は、極まれだ。大抵は、悲惨な結末を迎える。母がアメリカ映画のゾンビのように、ただれた皮膚から赤黒い肉をのぞかせて徘徊する姿を想像し、宮子はあわてて思考を追いだし、自分に言い聞かせるよう力強く答えた。
「本当に」
視線をはずした稲崎が、小さくため息をつく。
「……では、話題を変えましょう。
質問が飛躍したことに、宮子は「え」と小さく声をあげた。
気を取り直して、記憶の中から情報を引き出す。
「島根県の
稲崎が、かすかに笑う。
「神主さんは、行ったことはありますか?」
「いえ。行きたいとは思っているのですが」
「僕は、行ったことがあるんですがね。
彼の話し方が、雑談的な口調であることに、宮子はほっとする。
「
猪目洞窟は、写真で見たことがある。斜めに迫ってくる岩壁が、確かに威圧感を与えていた。
稲崎の話に相槌を打ちながら聞き入っていると、彼は一呼吸置いてから言った。
「でもね、僕は、
確かに、
「興味深い考えですね」
宮子が素直に言うと、稲崎は嬉しそうに身を乗り出した。
「でしょう? トンネルへはどこからでも入れるけれども、出られた人はいない。
彼の話を聞くうちに、宮子の頭の中で思考が回り始めた。ふと気づいたことが、口をついて出る。
「
稲崎が大きくうなずく。
「それですよ。あの世とこの世の境目」
「『古事記』には、
宮子の言葉に、稲崎が一瞬動きを止める。
「『日本書紀』はチェックしていませんでした。『古事記』とそう変わらないかな、と。
彼の張りついた笑顔が、不気味に見える。
稲崎は正座をし直し、宮子に向かって一礼した。
「御祈祷、ありがとうございました。おかげで、奈美も喜ぶと思います」
これ以上何も言うことができず、「ようこそお参りでした」と神札の入った紙袋を渡す。紙袋を受け取ると、稲崎は立ち上がり、「では失礼します」と言って後ろを向いた。ガラス付き障子戸を開け、外へ出ていく。会釈をして戸を閉めると、稲崎の足音は、ためらいなく遠ざかっていった。
宮子は重いものを受け取ったような心持ちで、しばらくぼんやりとたたずんだ。
出入り口近くに置いてある花瓶に生けた、キバナコスモスが目に入る。そのあざやかな黄色が、万葉集の歌を思い起こさせた。三諸教本院の近くにある山の辺の道に、この歌碑が建っているから、特に覚えているのだ。
宮子は、御祈祷受付用紙を見た。彼の氏名と住所、亡くなった婚約者の名前が残されている。
稲崎は、「あの世へ通じるトンネルの入り口」があるかもしれないと期待して、
考え事をしていると、公園の方から五時を告げる「七つの子」のオルゴール音が聞こえてきた。
――
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