第11話 黄泉国の神話

 どうぞ、と顔をあげて答えると、彼はじっとこちらを見ながら言った。

「最初に、イザナキノオオカミっておっしゃいましたよね。こちらは、大国主命おおくにぬしのみことを祀られていると聞きましたが」

 祝詞のりとをきちんと聞いているのだな、と宮子は身が引き締まる思いがした。背筋を伸ばし、落ち着いて答える。

「あれは、祓詞はらえことばと申しまして、御祭神に関係なく、神事のいちばん初めに奏上するものなのです」


「やはり、伊邪那岐命いざなきのみことが、黄泉国よみのくにから帰ったあと、けがれを清めた神話に基づいているのですか」

 神事や神道について、少しかじっているようだ。日本に住みながら、日本神話を知っている人は少ない。思想や真偽は別として、この国に伝わる歴史と物語をもっと多くの人に知って欲しい、と宮子は常々思っているので、嬉しくもあった。

「はい。祓詞はらえことばは、伊邪那岐大神いざなきのおおかみ様が黄泉よみから帰られ、川で禊祓みそぎはらえをなさったときにお生まれになった祓戸大神はらえどのおおかみ様たちに、禍事罪穢まがごとつみけがれをはらってください、とお願い申し上げているのです。よくご存知なのですね」

「彼女が、『古事記』が好きで、よく聞かされていたんです」

「そうですか。奈美さんは、博識な方だったのですね」

 稲崎が目を伏せる。しばらくして、再び口を開く。


「もう一つ、訊いてもいいですか」

 はい、と宮子が答えると、稲崎がこちらを見据えた。

伊邪那岐命いざなきのみことは、黄泉国よみのくにへ愛する伊邪那美命いざなみのみことに会いに行った。それなのに、死穢しえで醜くなっていたからと逃げ出し、妻と決別した」


 神話によると、火の神を産んだために亡くなった妻を追い、伊邪那岐命いざなきのみこと黄泉国よみのくにを訪れる。しかし、黄泉国よみのくにの食べ物を口にしてしまった伊邪那美命いざなみのみことは、もはやあちらの国の者となってしまった。

 黄泉国よみのくにの神と相談するので、その間決して姿を見ないで、と告げて女神は黄泉国よみのくにの御殿へ戻る。待ちきれなくなった伊邪那岐命いざなきのみことは、くしの歯を折り火をともして、御殿の中に入っていった。男神がそこで見たのは、腐ってうじがたかり、八種の雷神が成り出る、変わり果てた姿の伊邪那美命いざなみのみことだった。


 伊邪那岐命いざなきのみことが驚いて逃げ出すと、伊邪那美命いざなみのみことは「私に恥をかかせた」と怒り、黄泉醜女よもつしこめや雷神、黄泉国よみのくにの軍勢につぎつぎと追わせた。男神はそれらを、破邪の力を持つ桃の実で退散させた。

 最後に、伊邪那美命いざなみのみこと自身が追って来た。

 男神は、巨大な千引石ちびきのいわ黄泉比良坂よもつひらさかをふさぎ、現世うつしよ黄泉国よみのくにとの行き来ができないようにする。


 岩をはさんで二神が向かい合い、夫婦の別離の言葉を交わした。

「愛しいわが背の君がこんなことをするなら、私はあなたの国の人々を、一日に千人くびり殺しましょう」

「愛しいわが妻よ、お前がそうするなら、私は一日に千五百の産屋うぶやを建てよう」

 国生み神話の主役であった夫婦は、この後、生の神と死の神となって対立する。


「おかしいとは思いませんか」

 稲崎が、表情を険しくする。

「愛しい妻に、自分から会いに行ったくせに、けがれているから逃げ帰るなんて。……僕なら、どんな姿になっていようと、逃げたりしません」


 挑むような視線が、宮子を射ぬく。

「大神様の御前ですので、いったんあちらに」

 宮子は、神札の入った紙袋を持って立ち上がり、受付の部屋へと先導した。机の前の座布団を彼に勧め、障子を閉めて向かいへ座る。


 宮子自身も、同じ疑問を持ったことがある。妻に対して、その仕打ちはひどい、と。しかし、神主である以上、伊邪那岐大神いざなきのおおかみ様を否定することはできない。

「で、どうなのでしょう」

 稲崎が催促する。宮子は慎重に、言葉を選んだ。

「古代、まだ医学は発達していませんでした。死体には細菌が多くついていますから、そこから感染して亡くなる人もいたのでしょう。ですから、『死』は『けがれている』から近寄るな、という生活の知恵が生まれたのだと思います。生きている者の身を守るための方便で、死者自体がけがれているという意味ではないのでしょう」

 稲崎が、宮子の衣冠いかん姿を視線でなぞっている。値踏みするような目だ。


「あなたは神主だから、そういう優等生的な答えしか言えないのでしょうね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る