第10話 御霊鎮め

 愛する婚約者の冥福を祈りたい。その言葉に、宮子は小さくうなずいた。

「かしこまりました。安浦奈美さんの御霊みたまは、心を込めて祀らせていただきます。……用意をして参りますので、しばらくこちらでお待ちください」

 宮子は立ち上がり、受付表の複写部分を持って、衝立の向こうの社務所へと向かった。


 常備してあるさかきの枝に紙垂しでをつけて台に乗せ、神殿前に通じる廊下を通って運ぶ。社務所に戻ると、流しで手を洗い、口をすすぐ。狩衣かりぎぬ烏帽子えぼしをつけ、姿見の前で服装の乱れがないか、確認する。祈祷用の祝詞のりとを用意し、先ほどの複写用紙とともに、白衣の懐にはさむ。願主と亡くなった方の名前を復唱してから、宮子は受付の座敷へと向かった。


「お待たせしました、ご案内します」

 衝立から顔を出すと、稲崎は首から下げた指輪を左手で握りしめながら、目を閉じていた。とても静かな表情だったことが、逆に痛々しい。

「お願いします」

 大きく目を開き、稲崎がこちらを見た。


 障子を開け、彼を先導してとなりの部屋へ向かう。二十畳ほどの座敷の前方に、座布団が並べてある。その先は板の間になっており、ここで祭祀を行う。

 正面の壁の真ん中がくり抜かれて外に通じており、短い渡り廊下を進むと、大神様の朱塗りのやしろがある。その前の台には、米、酒、塩、水をはじめ、野菜や魚が供えてある。板の間の両脇には朽木くちき模様の布がかけられ、三種の神器のレプリカが飾られている。

 稲崎は興味深そうにそれらを見回し、最前列の中央より一つ左側の座布団に座った。宮子は、板の間へと進み、稲崎の斜め前に座って一礼した。


「それでは、これより安浦奈美郎女命いらつめのみこと様の御霊鎮みたましずめの御奉仕をさせていただきます」

 稲崎が、手をついて深々とお辞儀をする。

 宮子は立ち上がって、板の間の隅にある太鼓の前に座り、ばちを取った。祈祷の始まりを告げる太鼓の音を、高らかに響かせる。

 ドン、ドン、ドンドンドンドドドドド、ドン。


 ばちを置き、立ち上がる。作法通り、右足から半歩ずつ、手は左親指を右手で持つ、叉手さしゅという形で。神前まで進み、むしろの上に着座するときは、左足から膝をつく。作法を厳格に行うことが、神様への敬意の表し方なのだ。二拝二拍手一拝し、まずは祓詞はらえことばを唱える。


けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなきのおおかみ


 諸々もろもろ禍事罪穢まがごとつみけがれれがあれば、どうかおはらいください、という旨を述べ、「はらえ給えきよめ給え」というおなじみのフレーズを唱える。

 はらえが終わると、懐から祝詞のりとを出し、奏上する。安浦奈美の御霊みたまが安らかであるよう、大神様にお願い申し上げ、大祓詞おおはらえのことばを唱える。


 続いて、四方を大麻おおぬさで祓う儀式を行う。

 宮子は、切り込みを入れて折った白い紙がいくつも垂れ下がる棒を持ち、大神様に近い部屋の角を、続いて横を、左右左と紙垂しでをなびかせて祓った。


 ゆっくりと、稲崎の前に近寄る。

「お祓いをしますので、頭をお下げください」

 稲崎が手をついて、頭を下げる。

 左肩に先ほどの女性が浮かび上がり、じっとこちらを見た。安浦奈美だ。その唇が、かすかに動く。


 ――た・す・け・て。


 今のは、安浦奈美の意志だろうか。稲崎のではなさそうだ。

 かすかに残る彼女の思念が、稲崎の力を借りて、語りかけたのかもしれない。


 ――奈美さん、あなたはもう、この世の者ではなくなったのです。体を持たずにこちらへ留まるのは、とても苦しいことです。悪いものに取りこまれてしまうなど、危険も多々あります。いろいろと思い残すこともあるでしょう。悔しいこともあるでしょう。けれどもこの上は、大神様の元で安らかに過ごし、婚約者やお父様のことを見守ってください。


 宮子は大麻おおぬさを左右に振った。シャッシャッという紙ずれの音が響き、場を清める。

 ――ちがう、彼を……。

 一振りごとに空気が涼やかになり、奈美が薄れていく。それと同時に、彼女の声も掻き消えてしまった。

 ――


 あわてて大麻おおぬさを振る手を止めたが、奈美はすでにいなくなっていた。しばらくすれば、また稲崎の念が、彼女の形を作り出すのだろうが。


 奈美の言葉は気になるが、祭祀を中断することはできない。神様に対する重大な不敬になるからだ。作法通りに玉串を奉り、拝礼する。

幽世かくりよの大神、あわれみ給い恵み給え。幸魂奇魂さきみたまくしみたま、守り給えさきわえ給え」

 幽冥神語ゆうめいしんごを三回唱え、二拝二拍手一拝をする。あとは撤饌てっせんするだけだ。


 大神様の前から、三宝に乗せた神札をたまわる。稲崎の斜め前に座り、三宝をとなりに置く。

「これをもちまして、安浦奈美郎女命いらつめのみこと様の御霊鎮みたましずめを、とどこおりなく済ませました。こちらのお札を、神棚か、部屋の中の高く清浄なところへ安置し、故人のご冥福をお祈りください」

 宮子が一礼すると、稲崎も礼を返した。

「先ほどの幽冥神語ゆうめいしんごを書いたものも、一緒に入れておきます。三度お唱えすると、幽世かくりよの大神様がすべての困難から守ってくださいます。お祈りの際だけでなく、普段から折に触れて唱え、ぜひ、大神様のご加護をお受けください」

 神札と幽冥神語ゆうめいしんごを紙袋に入れていると、声をかけられた。


「あの、訊いてもいいですか」

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