第9話 婚約者の死

 かしこまりました、と宮子は事務的に答え、机の下の書類入れから、専用の受付用紙を取り出す。

「こちらに、願主――あなたのお名前と住所、亡くなられた方のお名前、享年、命日をお書きください。ふりがなもお願いします」

 複写式の綴り帳と、ボールペンを渡す。複写部分を切り取って、祈祷の際の読み上げに使うのだ。男はボールペンを取り、ていねいに文字を書き始めた。癖のない、すっきりとした楷書だ。


 願主:稲崎聡史。

 祈祷内容:鎮魂供養。

 安浦奈美 享年二十七歳 九月二十四日帰幽きゆう


 先月亡くなったばかりで、まだ五十日祭も済んでいない。せめて、できることは何でもしてあげたいのだろう。名字が違うから、婚約者か事実婚、恋人といったところだろうか。


 そんなことを考えていると、書き終えた綴り帳を宮子の方に向けながら、男が言った。

「そういえば、最初から僕がをお願いする、と予想されていましたね」

 男とのやりとりを思い出し、宮子は落ち着いて答えた。。

「亡くなられた方の年祭のお札を見ておられたので、つい」

「神主さん、もしかして、何か見えるのですか。彼女が僕のそばにいる、とか」


 稲崎の声が、心もち高くなる。期待を込めた眼差しに、見つめられる。

 自分が「見える」人間であることは、知られない方がいい。宮子は慎重に言葉を選んだ。

「いえ。ただ、稲崎さんの想いの強さは、感じ取れましたので」


 実際、彼の肩に寄り添う女性は、半分以上、稲崎のが作り出したものだ。死者の霊だけだと、弱いエネルギー体に過ぎない。生きた人間の力強いイメージが、それに姿形を与えるのだ。

「そうですか」

 半信半疑とも残念とも取れる表情で、稲崎はため息をついた。

「とても大切に、想われていたのですね」

 慰めるように声をかけると、稲崎はうつむいたまま話し出した。


「来月、文化の日に、結婚式を挙げる予定でした」


 そう言って、首にかけたチェーンネックレスを、シャツの中から取り出す。その先には、プラチナの指輪が通されている。稲崎が左薬指にはめているものと同じデザインだ。

「試着したきり渡せなかった、結婚指輪です。婚約指輪の方は、死んだときも、はめていてくれました」

 稲崎が、指輪を見つめながら語りだした。


 九月二十四日、紀伊半島を大型台風が襲った。

 奈良県南部の山間に住む奈美は、母親と自宅にいた。もともと地盤のゆるい土地のため、上流部で土砂崩れが相次ぎ、あっという間に河の水が溢れた。

 避難警報が出た直後に、奈美の家は建物ごと流された。


 その日、稲崎は大阪の会社にいた。ネットニュースで台風の動向をチェックしていた彼は、「お母さんを連れて、早めに避難するように」と奈美にメールをしていた。

 返信は、なかった。

 会社を早退した稲崎は、台風のために足止めをされながらも、電車を乗り継いで奈美の実家へと向かった。家の電話も携帯電話も、どちらも通じなかった。

 奈美の住む地域が流された、とラジオのニュースで聞いた。

 となりの市まで出ていた奈美の父と合流し、地元の人の軽トラックに乗せてもらった。


 着いた先は、避難所の体育館だった。

 安否確認のために中へ入ろうとする二人を、消防隊員が呼びとめた。その険しい顔を見て、奈美の父が絞り出すような声で言った。

「妻は……娘は……」

 消防隊員は、深く腰を折って礼をした。


「お気の毒さまです」


 それからどうしたのかは覚えていない。

 避難者がいるところとは別の、間仕切りの向こう側で、稲崎と父親は、奈美の遺体と対面した。母親はまだ見つかっていないという。

 何枚ものバスタオルにくるまれていたが、泥水のにおいが鼻をついた。頬にいくつか、すり傷があった。

 男二人で、時間も忘れるほど泣いた。大事な婚約者を、娘を、守ってやれなかったふがいなさを、悔やんでも悔やみきれなかった。


 遺体をお寺に移すからと言われ、ようやく立ち上がった。他にも、家族の遺体の前で泣き崩れる人が、何人もいた。

「せめて、きれいな顔のまま見つかってくれて、よかった。……そない思うしか、しゃあないやないか」

 父親がそう言って、また泣いた。

 母親の遺体は、翌日、下流で見つかった。

 村全体が被害を受け、不自由な生活の中、奈美とその母の葬儀が、ひっそりと行われた。


「葬儀のあと、お義父さんに言われたんですよ。背負うのは儂だけでええ。聡史君は、まだ若い。引け目を感じんと、自分の人生を歩みなさい、って」

 稲崎が、奈美の結婚指輪に自分の人差し指の先を通す。細い指輪は、第一関節で止まった。

「引け目なんかじゃない。僕にも背負わせて欲しいんです。僕の伴侶なんだから」

 神妙に聴く宮子の前に、稲崎は財布から一万円札を取り出し、机に置いた。


「本当に、いい子だったんです。どうしてあんな死に方をしなければならないのか、わからないくらいに。……死後のことはわかりませんが、祈ることで彼女のために何かできるのなら」

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