第6話 憑依

「桃果」

 宮子は、自分の口が勝手に言葉を発し、桃果を抱きしめるのを、押しやられた意識の隅で、同時に体感した。

 やや高い少女の体温も、頬に触れるやわらかな髪も、確かに感じられる。


「……お母さん?」

 桃果が、宮子の首にかじりつく。その重みで、体がふらついた。

「桃果。ごめんね、悲しい思いをさせて」

「お母さん、何にも悪いことしてないのに、どうして死ななきゃいけないの。そんなの、おかしいよ。ずっとここにいてよ」

 宮子の体を借りた泰代が、ゆっくりと首をふる。涙が頬を伝う。

「できないの。もう、桃果の髪を結うことも、お弁当を作ることも、大きくなった桃果の姿を見ることもできないの」

 やだやだ、と言いながら、桃果が宮子の体をたたく。


「バレエの発表会の衣裳、縫ってお母さんの部屋にかけてあるから。見てあげられないけど、お菓子の精の踊り、がんばってね」

 母娘の会話に胸が痛みながらも、宮子は泰代が理性的なことに、ほっとしていた。このまま体を乗っ取られてはたまらない。

「行かないでよ。ずっとお姉ちゃんの体を借りたらいいじゃん」

 泰代の魂に陰りが出た。よくないことを考えている印だ。


――だめです。もういいでしょう、早く出て行ってください。

 人外の者には、毅然としなければいけない。彼らには人の理屈が通じないからだ。つい情に流されてしまった。

 宮子はイメージの中でまばゆい光の粒を集め、自らの体の中へ行き渡らせた。腹の奥から、胸、頭、手足の先まで。

 陰った魂は光に弱い。このまま追い出せるはずだ。

 しかし、泰代の魂は宮子の体にしがみついており、なかなか引き剥がせない。あせりが集中力を散逸させ、光の粒が陰りに負けそうになる。


 そのとき、宮子の左手で火花が散った。

 強い力で弾かれたような衝撃が走る。

「痛っ」


 その一瞬で、泰代の魂が宮子の体から弾き飛ばされた。

 ようやく体の支配権を取り戻した宮子は、右手で左手首を押さえた。寛斎の念珠が、熱を持っている。


 泰代を探して部屋の中を見回す。反対側の隅に、彼女はいた。

 少し寂しそうな顔をした泰代は、宮子に一礼し、桃果を愛しそうに見つめながら、消えた。


「お母さん、大丈夫?」

 宮子の顔をのぞきこんだ桃果の目が、みるみる色を失っていく。

 彼女にはわかったのだ。もう母親がこの中にいないことを。


「桃果ちゃん、あのね」

「いい。もうわかったから」

 ベッドに飛び乗ると、桃果はすばやく布団をかぶってしまった。

「桃果ちゃん」

 もう一度声をかけるが、返事はない。

 かたくなに丸くなった彼女は、宮子が何度呼びかけても、身動き一つしなかった。

「明日のお葬式のときに、少しお話しましょう」

 そう言い残して、宮子は桃果の部屋を出た。


 父とともに遺族へあいさつをして辞し、駐車場へ向かう。

 神社兼自宅からは近いのだが、荷物が多いから車で来ているのだ。後部座席に荷物を積み、運転席に座る。

「桃果ちゃんは、どうだった」

 助手席で、父が訊ねる。

「ちょっと、まずいことになったかも」


 父に相談したい気持ちと、隠したい気持ちがない交ぜになる。

 父はいわゆる「見える」人ではない。それに、自身の対応のまずさは、宗教者として未熟な証拠だ。知られるのは情けない。

「帰ってから相談していいですか」

 やはり隠すのはよくない。恥を忍んで、宮子は父に言った。


 父は両親を早くに亡くし、若くして三諸教本院を継いでいる。

 最大の理解者である妻にも先立たれ、幼い娘二人をかかえて、それでも父は愚痴ひとつこぼさなかった。「愚直に神様にお仕えするのがつとめ」と言って、毎日の祭祀も手を抜くことがない。苦労しただけあって、他人の悩みにも親身になって相談に乗るし、周りが安心して頼れるよう、常に落ち着いている。

 宮子も早く、父のような神職になりたいと思っている。

 大木のように揺るぎなく、清々しい気をたたえる父は、いるだけで悪いものを寄せつけない。父の病気平癒祈祷は効果があると、一部では評判だ。

 それだけに、母のときだけ病を祓えなかったことが悔やまれるが。


 エンジンキーを回し、ライトをつける。

 発進しかけて、宮子は急ブレーキを踏んだ。植え込みの陰から、黒い服の男性が出てきたのだ。

「通夜祭の参列者かな。夜は服が黒いと見えにくいから、気をつけなさい」

 父が言うのを聞いて、宮子はほっとした。

 体を取り戻したものの、まだ少し違和感がある。今見えた男性が、生きた人間なのか、人外の者なのか、判別がつかなかったのだ。

 父が知覚できるのなら、生身の人間だろう。


 黒服の男性は、こちらに会釈をして去って行った。

 栗色の巻き毛で、三十歳くらい。見たことのない顔だし、故人とやや年齢が合わないから、喪主の会社の人だろうか。


 明日、桃果ちゃんとどう話そう。

 考えながらアクセルを踏み、生活道をゆっくりと走る。

 先ほどの男性を追い越す。

 視線を感じてルームミラーを確認すると、男性が立ち止まってこちらを見ていた。

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