第4話 通夜祭

 通夜祭は、夜七時に始まった。


 宮子は、斎主である父を補佐する副斎主として、鈍色にびいろの衣冠に身を包み、亡くなった槇原泰代郎女いらつめの祭壇横に控えていた。ふすまを取り払った六畳間二つ分の座敷には、親族が喪服を着、うつむいたり忍び泣いたりしている。

 その中に、故人の娘、桃果の姿も見える。小学校の制服姿で、祖母の腕にしがみついている。いつもはきれいな編み込みをして髪飾りもつけていたのに、今日は長い髪を後ろで無造作にくくっている。髪を結ってくれる母親がいなくなったからだと思うと、胸の奥が重くなる。


 他の神社に依頼していた四人の伶人れいじんが着座する。通夜祭中に楽を奏するため、それぞれ龍笛りゅうてきしょうを手にしている。

 父が祭壇前にゆっくりと歩み寄る。

 身長が高く姿勢のいい父は、背中だけでも存在感がある。作法にのっとった足運びや、ぴしりとした向きの変え方も、ストイックで威厳に満ちている。

 祭壇前に座り、重々しく斎主一拝する。それを合図に、祭員が各々の楽器を構えた。笙の音が、花が開くように広がり、龍笛と篳篥ひちりきがおごそかに旋律を奏でる。その中を、宮子は故人に供えるせんを両手で持ち、ゆっくりと祭壇に近づいた。案と呼ばれる台の上に、それを供える。


 通夜祭には、死者の霊が再び帰ってきて蘇生することを願う意味がある。そのため、斎主は心を込めて死者の生前を讃えるのだ。

 父が懐から、祭詞の書かれた和紙を出し、両手で広げる。鈴子が書いた、力強い毛筆の文字が見える。

「言わまくも悲しく、思うも悔しき、槇原泰代郎女命いらつめのみこと御霊みたま御前みまえに、慎みうやまい、しのことばたてまつらんとたいらけく」


 会葬者が手をついて礼をする。宮子は祭壇横からその様子を見守った。

「あはれ汝命いましみこと、生まれながらにやさしく素直にして、よく父母に仕え、かしこく深く勉学を好み給ひて」

 小学校から始まり、中学、高校、大学と、卒業した学校名と年月日が読み上げられる。友人が多く、人の和を取りもつ性格だったこと、大学では心理学を学び、「子どもが生まれたら、児童心理学の知識を活かして、のびのびとした子に育てたい」と言い、本当にその通りにしたことなどが、古語でおごそかに語られる。


「槇原佑介に嫁ぎ、夫婦の仲睦まじく、よく家を整え、人の喜びをともに喜び、人の愁いをともに愁い、私心なく背の君の親族に親しみ」

 押し殺した嗚咽の声がした。喪主である夫が、手で目頭をおおっている。

「花ならばまた咲き、月ならばまた満ちなむものを、人の身ばかり頼み難きものはなし」

 部屋の中だけでなく、縁側を開け放った庭からも、忍び泣く声が聞こえる。

「荒くることなく、厳の御霊みたまとなり給ひ鎮まり給ひて、親族家族うからやから縁ある人々を守り恵み、あななひ給へと、袖の涙を掻き払いつつ、謹み敬いもまをす」


 祭詞奏上が終わると同時に、鈴子の書いた文字が、細長い花びらのように舞い上がり、柩の上へ散華した。

 柩の中に、気配を感じる。しかしそれは、生きた人間のものではなかった。

 もはや、よみがえりは期待できない。


 誄歌しのびうた奏上のあとは、玉串を奉てんする。まずは斎主が、案の上にさかきを奉り、音を立てない忍び手で二礼二拍手一礼する。続いて喪主、血縁の濃い人から順に拝礼となる。


 娘の桃果が、祖母に手を引かれて祭壇前にやってきた。

「ほら、玉串をもらって」

 祖母がささやくのに、桃果は唇を引き結んで首を振った。

「あなたのお母さんでしょう」

 祖母に言われ、桃果の目から涙が湧きあがった。


 ――死んだお母さんには会いたくない。

 母が死んだとき、宮子は病院の廊下でそう言って、父や看護師を困らせた。遺体を見てしまったら、母の死が確定してしまう。見なければ、「まだ生きているかも」と思える。あとで考えると、そういうことだったのだろう。


 宮子は祖母と桃果に、おだやかな表情を向けた。子どもなりに、考えるところがあるのだろう。

「無理にしなくても構いませんよ。……じゃあ、おばあちゃんと一緒に、お辞儀だけしましょうね」

 泣き声を立てまいと歯を食いしばる女の子に向かって、宮子は静かに言った。桃果は祖母のとなりについて祭壇前に座り、それでも見よう見まねで二礼二拍手一礼をした。


 通夜祭が終わる。もはや死が確定したとして、遷霊祭せんれいさいが執り行われることになる。

 宮子は玉串が置かれた案をさげて脇へやった。柩前にある、霊璽れいじを安置した案の前に、蓆をしく。斎主である父がそこに座って一拝し、霊璽れいじの覆いを徹し、名前が書かれた表側を柩へ向ける。


「これより、故人の魂を、霊璽れいじという、あの位牌のようなものへお遷しする儀式を行います。……電気を消していただけますか」

 宮子の呼びかけに、電灯の下にいた人が紐を引っ張って明かりを消した。

 即席の闇が作られる。この儀式は、浄暗の中で行われなければならないのだ。他の人たちから見えないよう、宮子は斎主の後ろに立ち、袖を広げてその姿を隠した。

 警蹕けいひつという低い唸り声をたてて、かしこみをうながす。父が小声で、故人にのみ聞こえるように、遷霊詞を唱える。


 うっすらとした光が、ひつぎから昇りたった。


 濁りのないところを見ると、故人は死を受け入れているようだ。白い光の玉が尾を引きながら、霊璽れいじへと遷っていく。

 宮子は警蹕けいひつを止め、「明かりをつけてください」と呼びかけた。電気がともる。斎主が霊璽れいじを参列者側に向け、覆いをかぶせる。


 故人の娘、桃果の泣き声が聞こえた。

 暗闇の儀式で、自分の母親が得体のしれないものになった、と感じているのかもしれない。霊璽れいじや墓は、縁あるものから見ると、どこか空しく、それでいて圧迫感があるものだ。人ひとりを顕すには単調な依代よりしろで、それなのに「確かに何かいる」という臨在感をかもしだしている。

 生前のあたたかな人の肌を持った者が、冷たい無機質なものに変質した、と感じるのも無理はない。


 泣きやまない桃果をよそに、遷霊祭は粛々と進んだ。

 会葬者の弔問に移り、親族たちは縁側へ並び、参列者に黙礼を繰り返す。その間も、父親や祖母の背に隠れて、桃果は泣いたり放心状態になったりを繰り返した。


 祭祀や霊前講和が終わり、宮子と父が衣冠をしまっているところへ、桃果が近づいてきた。拳を握りしめ、物言いたげに、じっと宮子のことを見ている。

「桃果ちゃん、どうしたの」

 声をかけても、彼女は口を開かない。

「じゃあ、二人きりでお話しようか」

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