第3話 寛斎の過去

 あれは十三年前、宮子と寛斎かんさいが小学六年生のときだった。


 父の知人の行者が、新弟子だという男の子を連れて、三諸教本院に五日間滞在した。それが、寛斎との出会いだ。

 当時はまだ法名をいただいていなかった彼は、「寛太」と名乗った。日に焼けた色黒の肌に、三白眼気味の鋭い目が印象的だった。


 ぶっきらぼうで愛想の悪い寛太に、小学六年生の宮子は反感を抱いた。が、妹の鈴子と一緒にアニメを観て笑ったり、宮子の作ったご飯を「うまい」と言ってくれたり、何より師僧について懸命に修行する姿に、だんだん惹かれていった。

 まだ十一歳なのに、朝は誰よりも早く起きて掃除をし、師僧の動きをよく見て、何か言われる前に必要なものを絶妙のタイミングで渡す彼を、素直に「すごい」と思った。


 彼の滞在中、十一歳の宮子は夢を見た。

 どこか、知らない家の中を歩いている。薄暗い廊下を抜けて、扉が開いている部屋をのぞきこむ。電気はついておらず、ぼんやりと明るいカーテンが見える。壁の一面を覆いつくす、水玉模様の大きなカーテンだ。不揃いな丸い柄が、外から照らされてシルエットになっている。

 宮子は、その違和感に、カーテンを凝視した。


 それは、水玉模様ではなく、血飛沫だった。

 模様と間違えるほど、くまなく飛び散っているのだ。


 床は一面の血の海だ。

 その中央に、女の人がうつぶせに倒れていた。

 首には深い切り傷がある。ウェーブのかかった髪が血に濡れて束になり、顔を隠していた。


 そのかたわらに、寛太が座り込んでいる。

 泣くことすらできず、すべての感情を失った無機質な顔で、虚空を見つめている。


 廊下から足音がして、父親らしき男の人が現れた。部屋の惨状を見ると、彼は絶叫した。女の人のところへ走り寄ろうとしたが、血で足が滑り、床に倒れ込む。そのまま這っていき、女の人を抱き上げた。

 が、あまりに深く切られた首の傷のせいで、ウェーブのかかった長い髪の頭が不自然に垂れ下がり、男の人はまた叫ぶ。


 その声を聞いても、寛太は動かない。眉ひとつ、動かさない。時間が止まってしまった部屋で、彼はいつまでも、血だまりの中に座り続けていた。


 目が醒めた宮子は、新鮮な空気を吸って悪夢を払おうと、窓を開けた。

 そのとき、さかきの木の下に、寛太が結跏趺坐けっかふざの姿勢で座っているのが見えた。何かを祈るようでも、呪うようでも、振り切ろうとするようでもあった。

 二階の窓からその姿を目にした宮子は、涙を枯らしてしまった彼の代わりに泣いた。


 それとなく父に訊ねると、寛太君の母親は事件に巻き込まれて亡くなられた、と教えてくれた。彼が六年生になったばかりのころ、空き巣と鉢合わせして首を刺されたそうだ。

 第一発見者は、寛太だった。

 寄り道をせずまっすぐ家に帰っていれば、母は死なずに済んだかもしれない、と悔やんでいるという。


 宮子自身も母親を亡くしていたが、彼の悲しみや憤り、世の中への不条理感は、想像できないくらい激しいだろう。

 そんな感情を押し殺して行者の道に進む彼が、とても危うい存在に思えた。


 ――彼を守りたい。


 初めて覚えた感情だった。

 力になんてなれないかもしれない。おこがましい自己満足かもしれない。それでも、寛太のことが大切で、気になって、じっとしていられなかった。


「ここに座っていたよね」

 宮子は渡り廊下の下をくぐってさかきの木に近づき、袴の裾に気をつけながらかがみこんで幹をなでた。

 大人になった今も、寛斎のことが大切だという気持ちに変わりはない。むしろ、日増しに強まっている。


 事件から数年後、寛太の母を殺した犯人が無期懲役の判決を受けた。控訴審も同じく無期懲役だった。

 テレビのニュースで、彼の父が妻の遺影を抱きながら、「極刑にならなくて悔しい」とコメントするのを見た。

 出家して「寛斎」と名を改めた彼は、修験者の装束で裁判を傍聴していた。


 報道陣が、まだ少年の名残のある彼にマイクを向けた。

 寛斎は、ただ無言で合掌し、一礼した。

 悲劇の少年としてマスコミは彼をもてはやしたが、寛斎はますます心を閉ざすばかりだった。


 高校に通いながら、寛斎はいっそう修行に打ち込むようになった。が、精神的に滅入ってしまった彼の父を支えるため、師僧が亡くなると同時に山を下りて親元に帰り、高校卒業後に観光寺の寺務員として働き始めたのだ。


 十三年の月日が経っても、寛斎の心をおおう闇は消えていないだろう。

 それでも、ちょっとした会話に笑ってくれたり、本や映画を楽しんだり、何かを食べて「おいしい」と言ってくれたりするのが、宮子には嬉しかった。


 寛斎が里へ戻ったとき、つまり半僧半俗になったとき、「これからは下の名前で呼んでいいか」と言われた。古代では、異性に下の名前を問い、口にすることは、特別な仲を意味した。不器用な彼なりの告白だった。

 遠慮なく相手を気遣い、助け手となれる距離に入り込めたはずなのに、するりと離れていってしまった。


「何があったの。……私は寛斎さんの力になりたいのに」

 左手首の念珠に触れながら、宮子は立ち上がった。ゆっくりと歩いて神殿前まで戻る。少し開けたままだった鉄扉を閉じ、かんぬきをかける。風に髪を揺らされ、宮子は空を仰いだ。茜色の空に、雲がたなびいている。


 雲隠れ、という単語が頭をよぎる。

 ――必ず帰る。

 その言葉に、宮子は胸騒ぎを感じていた。

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