第1章
第1話 三諸教本院
月参りを五件終えて、宮子は袴のまま自転車に乗り、神社への帰路についた。
三諸教本院は、御祭神である
もとは、大和国一之宮である某神社の一部だったが、明治十五年の社教分離令により、神葬祭や教導職が禁止された。この際に、便宜上「三諸教本院」として独立した背景があるので、父は
せまい生活道を、慣れた調子で進む。掃除をしている近所の人と笑顔であいさつを交わす。いつも通りの日常をこなしつつも、宮子の頭の中は、今朝の寛斎のことでいっぱいだった。
あれから連絡を取ろうとしたが、携帯電話は通じないし、メールを送っても反応がない。宛先不明で返って来ないところをみると、届いてはいるのだろうが。
鳥居前につき、宮子は自転車を降りた。神社に向かって一礼し、自転車を押しながら、木々に挟まれた参道を歩く。砂利を踏む音が、今日はやけに鳴り響いた。神社を囲う白塀の隅の勝手口を開け、自転車を中に入れる。
「ただいま」
声をかけると、事務机でノートパソコンに向かっていた妹の鈴子が振り向いた。パソコン用の黒縁眼鏡をかけていると、ひょうきんなイメージになる。ストレートのショートボブに動きやすい服装と、一見アウトドア派に見えるが、小説家志望で暇さえあれば書くか読むかしているという、根っからのインドア派だ。
「お帰り」
鈴子の声が、薄墨の色になって天井へのぼった。
宮子には、普通の人に見えないものが見える。それは、色や光だったり、いるはずのない人の姿だったりする。
普段は視線を切り替えて見ないようにしているが、親しい人や強い感情には同調しやすいので、うっすらとわかってしまうのだ。
宮子は衣裳を棚にしまいながら、訊ねた。
「どなたか、亡くなったの?」
鈴子が眼鏡をはずし、椅子ごとくるりとこちらを向いた。大きな目が、宮子を見つめる。
「槇原さんとこの若奥さん」
「お姑さんじゃなくて、泰代さん?」
問い返すと、鈴子がこわばった顔でうなずいた。まだ三十代半ばくらいなのに。一人娘は、小学二年生のはずだ。
「心筋梗塞だって」
死者を弔うことに従事していると、どうしてもやり切れない気持ちになることがある。まだ死ぬはずがないと思っていた若くて健康な人が、突然、何の前触れもなく、鬼籍に入る。心の準備ができていなかった家族の嘆く様を見るたびに、胸がつぶれる思いがする。
宮子自身も、小学一年生のときに母を亡くした。
晩ご飯のときまでは普通にしていたのに、脳梗塞を起こして倒れ、あっけなく逝ってしまった。明け方の病院で泣く父の姿と、もう動かない母の蝋人形のような土気色の顔が、心の隅にこびりついている。鈴子はまだ生まれたばかりだったから、生身の母のことを覚えていない。
鈴子が座っている父の事務机には、家族四人で撮った古い写真が飾ってある。白衣姿の父と、おくるみに包まれた鈴子を抱く母、その前でぎこちなく笑顔を作っている小学生の宮子。母も神主だったが、このときは白衣ではなく空色のワンピースを着ており、泰然とした笑みを浮かべている。
何もかも見透かしているかのような母の笑顔は、宮子にとって安心の代名詞だった。
見えざるものが見える宮子は、幼稚園児のころからすでに、周りから浮いていた。嘘つき呼ばわりされたり気味悪がられたりして泣きながら帰ると、母が抱きしめて頭をなでてくれた。
母の死後も宮子は、自宅の
このごろ、母の年齢に近づいていく自身の顔立ちや表情が、どきりとするほど似ていると感じるときがある。母のかけらが自分の中に生きているようで、くすぐったい気持ちになる。
鈴子が、卓上カレンダーで六曜を見ながら言う。
「日程的に、今晩が通夜祭になるんだって。お父さんが枕直しの儀に行ってお話を聞いてきたから、今、祭詞を書いてる」
祭詞とは、通夜祭のときに読み上げる、故人の経歴や人柄をたたえる文章だ。亡くなった方を追慕し、誉めることで
鈴子は小説家を目指しているだけあって、文章を考えることが得意なので、大学の勉強の合間に
「有名大学を優秀な成績で卒業し、専門商社に勤務、大学時代から付き合っていた男性と結婚、かわいい娘さんに恵まれる。友人も多く、親戚や近所の人からも慕われていた。……槇原のお姑さん、いつもお嫁さんのこと誉めてたもんね。姑に好かれるって、よっぽどいい人だったんだろうな。なんか、切ないね」
パソコンの画面を見ながら、鈴子がため息をつく。死んだ本人も心残りだろうが、残された家族もつらいだろう。なぜ他の誰かではなく、この人が死ななければならないのか、と。
生前の槇原泰代を思い出す。
都会で働いていただけあって、洗練された雰囲気はあるものの、それを鼻にかけることもなく、ときに鬱陶しいくらい親密な田舎特有の近所づきあいも、そつなくこなしていた。
娘の桃果の髪をきれいに編み込んだり、スパンコールやコサージュを縫い付けた服を着させたりと、いつも工夫とおしゃれ心を忘れない人だった。
先月の防災の日に、村で炊き出し訓練があった。若い者は力があるからと、宮子と泰代は大釜を火から下ろす役を割り当てられた。
薪で炊く釜に、泰代は「初めて見たわ」と目を丸くし、二人でタイミングを合わせて釜を下ろすとき、キャンプみたいだと楽しそうにしていた。
そうかと思うと、炊きあがるまでの時間をストップウォッチで測り、蒸らし時間や「圧が下がるからふたを開けない」などの注意点を資料にまとめるなど、しっかりした面も見せていた。
泰代の悪い噂は聞いたことがないし、道で会ったときに「宮子さん」と笑顔で手を振られると、嬉しくなった。
いい人だったのに。
「祭詞、書けたよ。プリントアウトするから、言い回しとかチェックして変えてね」
プリンタが起動し、人ひとりの人生がA4の紙一枚にまとめられ、吐き出される。宮子はそれを取り、鈴子のとなりの事務机で、赤字修正をし始めた。泰代の笑顔を思い出すと、無機質な文字の羅列が切なくなってくる。
鈴子が身を乗り出し、宮子の左袖をめくった。手首には、木製の数珠がおさまっている。神主が数珠をつけるのも変だが、袖に隠れて見えないだろうと、今朝のままにしている。まだ彼の手のぬくもりが残っている気がして、はずす気にならないのだ。
「寛斎兄ちゃん、何の用だったんだろうね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます