黄泉比良坂(よもつひらさか)

芦原瑞祥

黄泉比良坂(よもつひらさか)

序章

プロローグ 「必ず帰る」

 風が、その人の訪れを告げた。


 柏木宮子は、神社の境内けいだいを掃く手を止め、竹ぼうきを塀に立てかけた。

 三諸教本院みむろきょうほんいんの朝は早い。五時に開門して、参道を掃き清めるのは、神職となって二年目の宮子の仕事である。神様がいらっしゃるところを常に清浄に保つのは、とても大切なことなのだ。

 神社は、太鼓をたたけば天井が震えるくらい古くて小さく、管長である父と、大学生の妹・鈴子の三人で、なんとか切り盛りしている。


 こんな朝早くに、誰だろう。


 不思議に思いながら、白衣の襟と浅葱あさぎ色の袴の裾が乱れていないか確認し、結わえた長い髪を整えた。

 誰かが、明確な意思を持って、こちらへ来る。秋風が運んでくる気配の主を探ろうと、宮子は意識を集中させた。目前の景色の奥を見ようと、視線を切り替える。立体絵画を見る要領で焦点をずらすと、別の位相のものが浮かび上がるのだ。


 宮子は小さいころから、見えざるものが見えていた。そのせいで苦労も多かったため、普段は視線を切り替えて見ないようにする、というすべを学んだ。

 いわゆる霊やあやかしと言われるものを目の当たりにするため、あまりやりたくはないが、境内けいだいには害をなすものは入ってこられないので、ここでなら安心してできる。


 参道の向こう、鳥居の外に、光の粒子が見えた。人がまとっているオーラのようなもので、色や明るさ、勢いに個性がある。まっすぐな若木を思わせる緑色の光は、凛として、武骨で、宮子がよく知っているものだった。


 間違いない、彼だ。


 道路へ面した鳥居に向かって、宮子は駆けだした。砂利を蹴る音が、高らかに響く。


「宮子」


 鳥居を出たところで、声をかけられた。右側の植え込みのそばに、幼なじみの須藤寛斎かんさいが立っている。


「寛斎さん」


 大きな丸い梵天ぼんてんのついた結袈裟ゆいげさに、薄黄色の鈴懸衣すずかけごろも、白い手甲てこう脚絆きゃはん。修験者独特の装束が、朝日に映える。淡色の色遣いが、日に焼けた肌の黒さを際立たせる。髪は無造作な五分刈りで、額の上に黒い頭巾ときんをしている。


 宗教に従事する者には、独特の清らかさと近寄りがたさがある。寛斎は、切れ長の鋭い目や、きりりと上がった眉、引き結んだ唇が相まって、さらに威圧感をかもしだすタイプだ。それも彼の魅力の一つだと、宮子は思っているのだが。


 二日に一度はメールでやり取りをしていたが、顔を合わせるのは二週間ぶりだ。口下手な彼は、「雨が降ってきた。そっちはどうだ」など、メールの文面もそっけなく、間違っても甘い言葉などささやいてくれない。が、何かしらコミュニケーションを取ろうと頑張っているのがわかるので、嬉しさで満ち足りた気持ちになる。


 久しぶりに見る寛斎の姿に、宮子は自然と顔がほころぶのを感じた。

 小学生のころから彼のことを気にかけ、いつしか大切な人になっていた。向こうも同じ気持ちでいてくれ、ようやく微笑みあえる仲になれた。


 しかし、今日の彼は笑っていない。いつもなら、ぎこちない笑顔を見せてくれるのに。

 そういえば、昨夜のメールはいつもと違っていた。「おやすみ」と宮子が送信したあと、「戸締まり用心、とにかく用心」と返ってきた。冗談かと思っていたが、何かあったのかもしれない。


「どうしたの」

 向かい合って、おそるおそる訊ねる。私服ではなくころもで来たことが、不安をかきたてる。

 黙っている寛斎に向かって、宮子は目でうながした。視線が合う。彼の三白眼気味な瞳に、吸い込まれそうになる。


「少し、遠くへ行ってくる」


 え、と言ったきり、宮子は言葉が出なくなった。回峰行に入るから、しばらく下山できないのだろうか。それとも、地理的に遠くへ修行に出るのだろうか。今は、奈良市で観光寺の寺務員をしていて、行に出るのは休日だけのはずなのに。


 物言いたげな宮子の様子を察したのか、寛斎が口を開いた。

「必ず帰る。だからそれまで」

 寛斎が、自分の左手にしていた腕輪念珠をはずす。

「これを預かってくれないか」


 木製の念珠を突き出してくる。行法に使用する最多角念珠いらたかねんじゅではなく、一般の人がお守り代わりにするタイプのものだ。

 不思議に思いつつも、宮子は両手を出してそれを受け取ろうとした。


 突然、寛斎が宮子の左手をつかんだ。


 持ったままだった念珠を、押し上げるように這わせてくる。それは宮子の左手首にぴたりとおさまった。寛斎が、念珠を上から両手で押さえる。そのぬくもりや力が、宮子の手首から全身に伝わっていく。

 彼は小さく真言を唱えると、まっすぐにこちらを見て言った。


「いつもこれを身につけていてくれ。俺が帰るまで」


 その真剣な表情から、これはお守りなのだ、と気づく。先ほどの真言は護経ごきょうだ。それらが必要な事態が起こりつつあるということか。

 宮子がうなずくと、寛斎はわずかに厳しい顔をゆるめた。


「何かあったの」

 腕をつかまれたまま、宮子は訊ねた。確かに何か言いたげなのに、口を開いてくれない。

 す、と彼の上半身が近づいてきた。耳元に顔を寄せられ、驚きと緊張で心臓が一気に高鳴る。


「  」


 なに、聞こえない。

 そう言いたいのに、言葉が出なかった。それどころか、体が固まってしまい、首も、指さえも動かすことができない。


「元気で」


 それだけが、はっきり意味をなして聞こえた。

 手首から彼の手の感触が、視界から彼の姿が、消える。遠ざかる足音がだんだん小さくなり、それさえも聞こえなくなった。


 術をかけられたのだ。


 硬直した体をなんとか動かそうと、宮子は身をよじり、声をあげようとした。しかし、意識と体がうまくつながらず、もどかしさだけがつのる。


「宮姉ちゃん、大丈夫?」

 背後から、妹の鈴子の声がした。腕をぐっと引っ張られた瞬間、体を膜のようにおおっていた戒めが解け、呼吸がゆるむ。鈴子は、自分では気づいていないが、「力」が強いのだ。


「……止めなきゃ」

 宮子は、国道へ続く道路を走りかけ、立ち止まって鈴子に叫んだ。

「さっき、寛斎さんが来たの。よくわからないけど、行かせちゃだめ。鈴ちゃん、あっちを探して」

 宮子は道路の左手を指さすと、自身は右手に向かって走り出した。

 後ろで「え、寛斎兄ちゃんが?」という声がしたが、何か察したらしく、駆け出す足音が遠ざかっていった。


 彼の姿を探して、宮子は草履のまま旧道を走った。足音からすると、こちらへ行ったはずだ。

 術をかけられたことで一度は元に戻った視線を、再び切り替える。道路にうっすらと、見慣れた緑色の光の粒が残っている。そのあとを追って、宮子は袴を風にはためかせながら走り続けた。民家にはさまれた生活道を抜け、国道につながるところまで来る。


 しかし、光の粒は、路肩のあたりでふっつりと途切れていた。


 あたりを見回したが、すでに寛斎の姿はなく、車がまばらに行き交うだけだ。ここから車に乗ったのだろうか。彼は免許を持っていないはずだ。タクシーをつかまえたのか、連れがいたのか。


「チビキノイワを動かそうとする者がいるらしいぞ」


 頭上で低い声がした。

 見上げると、人間の目をしたカラスが数羽、西の方へ向かうところだった。カラスたちは宮子が見ていることに気づくと、黒々とした鳥の目に戻り、わざとらしくカアァと鳴いて、飛び去っていった。


 千引石ちびきのいわ。この世とあの世の間をふさぐ、大盤石。


 ――元気で。


 彼の声が、まざまざとよみがえる。宮子は、左手首の腕輪念珠を右手で押さえた。この持ち主のことを案じながら。

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