第一話 開いてびっくり! 小1女児おじさんからの贈り物
私服に着替えて一段ベッドに腰掛けた秀介は、数少ない親友に母から理不尽な要求をされた旨をスマホメールで伝えたあと、
さてと、あの怪しいプレゼント箱開けてみるか。
例の物を鞄から取り出してローテーブル上にそっと置き、蓋を外す。中にはあのお方がおっしゃっていた通り国、英、数、社、理。五教科分のテキスト、それぞれ一冊ずつの計五冊が詰められてあった。どの教科もサイズは同じでB5用紙くらい。厚みは二センチほど。紙質もけっこう良かった。
「萌え教材か。確かにタメになるかも」
秀介の表情が思わずほころぶ。全教科、表紙がかわいらしい女の子達のアニメ風イラストで彩られていたのだ。
秀介は一番上に乗せられていたB5用紙一枚分の説明書も確認してみる。
2頭身くらいにデフォルメされた、六歳か七歳くらいに見える赤いランドセルを背負ったお団子頭なロリ美少女キャラのカラーイラストが描かれており、ふきだしに丸っこくかわいらしい文字でこんなことが書かれてあった。
「苦痛な家庭学習が娯楽に変わっちゃう、萌えキャライラスト付き高校生用学習テキストはもう開いてくれたかな? キミの家庭学習を手厚くサポートしてくれる萌えキャラは、表紙に描かれているこの五人の女の子達。キミの通う高校の先生と同じように、教科毎に違うタイプの女の子が指導してくれるというわけなのだ。この個性的な五人の美少女家庭教師達といっしょに楽しみながらお勉強しよう。偏差値五〇未満のキミも、基礎からじっくり学べるので今から始めれば東大現役合格も夢じゃない! 3Dにも対応だよ♪」
秀介がやや早口調でそれを読み上げると、
「そこらの参考書より、ずっと役に立ちそうだ。キャラデザもすごく良いな。キャラクターデザイン&テキスト監修、小1女児おじさん葵。あのおっさん、自称と同じペンネーム使ってるんだな。葵って名前も、小1女児っぽい。本名だったりして。男女共に使われる名前だし」
顔をぐぐっと近づけ興奮気味に呟く。最初に英語のテキストを捲ってみた。
「おう!」
思わず感激の声を上げる。一ページ目に、英語に対応するキャラクターの全身カラーイラストと、簡単なプロフィールが載せられていたのだ。
「この栗巣エマって名前の女の子が解説してくれるってわけか。これはかなり期待出来そうだ」
わくわくしながら次以降のページをパラパラ捲ってみる。
「あれ?」
秀介は目を疑った。要点のまとめや演習問題が載っているのかと思いきや、何も書かれていなかったのだ。
「こっちは……」
続いて社会科のテキストを捲って確認してみる。これも表紙と最初のページにキャラクターイラストとプロフィールが載せられているだけで、あとは白紙だった。
「……どれも、真っ白だ」
全教科分捲ってみて、秀介は目を疑った。
「騙したな、あのおっさん。表紙詐欺じゃないか」
当然のように落胆し、がっかり気分で英語のテキストをパラパラと捲っていたその時、予期せぬ出来事が――。
「あっ、あのう」
どこからか、聞きなれぬ女の子の声が聞こえて来たのだ。
「何だ? 今の声」
秀介は不思議に思い、周囲をきょろきょろ見渡す。
耳元で聞こえた気がするんだけど、誰もいないよな?
少しドキッとしながらそう思った直後、
「うっ、うわわわわわぁ!」
秀介はあっと驚き、口を縦に大きく開けて、絶叫した。
突如、英語のテキストの中から、飛び出して来たのだ。
服装は『Let‘s enjoy studying♪』とホワイトロゴプリントされたオレンジ色チュニックにデニムのホットパンツ、水色ニーソックスという組み合わせ。ほんのり茶色なセミロングウェーブヘアは胸の辺りまで伸びていて、つぶらなグレーの瞳ですらりとした体つき、背はやや高めで一六〇センチ台半ばくらいあるように見えた女の子が――。
イラストそっくりだった。紙上に描かれた人間の女の子が飛び出してくるという、物理現象を完全無視した出来事が今しがた秀介の目の前で起こったというわけだ。
「グッイーブニン、ナイストゥーミートゥ。ワタシ、シュウスケくんに英語を指導することになった、栗巣エマだよ。アイムフロムインジィイングリッシュテキスト、リトゥンバイショウイチジョジオジサンアオイ。シュウスケくんと同じ、十年生だよ。アイムフィフティーンイヤーズオールド。マイファザーがアメリカン、マイマザーがジャパニーズなハーフなの。いっしょにお勉強頑張ろうね♪」
その女の子はエマと名乗りぺこりと頭を下げ、微妙な発音の英語も交えて挨拶した。そのあと秀介の手を握り締めて来た。
「……………………」
秀介の口は、顎が外れそうなくらいパカリと開かれていた。
「Oh,シュウスケくん、a(ア)を発音する上でベストな口の形だね。Very good!」
そんな彼を見て、エマは嬉しそうににこにこ微笑む。
続いて、国語のテキストが自動的に開かれた。そしてまた中から女の子が――。
「こんばんは、利川秀介さん。この度は飛び出す萌え教材高校生用を受け取って下さり、誠にありがとうございました。わらわは現国と古典を担当させていただく、新玉皐月(あらたま さつき)と申します。中学二年生です。今後、末永くよろしくお願い致します」
江戸時代の町人娘を思わせる地味な着物姿だった。黒縁の丸眼鏡をかけ、濡れ羽色の髪を撫子の花簪で飾り、背丈は一五〇センチ台前半くらい。秀介に向かって丁重に深々と頭を下げ、おっとりとした口調で挨拶して来た。
「はじめまして秀介君。わたくし、社会科担当の徳川・エリザベス・州湖良(すこら)。高校二年生、グレゴリオ暦換算で十七歳よ。分からないことや悩み事があったら、遠慮せずに何でも相談してね」
この子の背丈は一六〇センチくらい。小麦色の肌、面長でつぶらな鳶色の瞳、ほんのり栗色な髪をポニーテールに束ねていた。そして色鮮やかなインドの民族衣装サリーを身に纏っていた。
「えっ、あっ、どっ、どうも。おっ、おっ、俺、とうとうアニメの世界と現実の世界との区別が付かなくなってしまったのか?」
秀介は当然のように戸惑う。
「夢じゃないよ。現実なのだ」
「実数の世界だよ」
背後からまた聞きなれぬ二人の女の子の声がした。
「アタシ、理科担当の金星化能蒸(きんぼし げのむ)でーす。物理・化学・生物・地学、どの選択科目でもアタシにお任せあれ。中学一年生、十二歳。よろしくね♪ シュウスケトン」
この子は紫色の髪を螺旋状にしていた。四角顔でネコのように縦長な瞳、背丈は一四〇センチ台後半くらい。ソテツの葉っぱで胸と恥部を覆っただけの非常に露出度の高い姿だった。
「数学担当の、三分一理密等(さんぶいち りみっと)です。小学四年生、九歳です。これからよろしくね、秀介お兄ちゃん」
こちらの子はおかっぱ頭にしたクリーム色の髪を、松ぼっくりとパイナップルとひまわりの花、合わせて三つのチャームを付けたダブルりぼんで飾り付けていた。丸っこいお顔とくりくりしたつぶらな瞳。背丈は一三五センチくらい。なんと、全裸だった。
「うわぉっ!」
振り返った秀介はそんな二人のあられもない身なりを目にし、反射的にのけぞる。そして目を覆った。
「こらこらっ、化能蒸ちゃん、理密等ちゃん。そんなはしたない格好で現れちゃダメでしょっ! 受講生の秀介君はエリクソンのライフサイクル論によると青年期の男の子なんだから。えっと、あっ、ちょうど都合良くいいのがあったわ」
州湖良が注意した。そして彼女は、学習机の本立てに並べられてあった、秀介が学校で使用している地図帳を手に取りパラッと捲る。続いて開かれたページに手を添えると、なんと波打つ水面のように揺らいだのだ。
三秒ほどのち、州湖良は何かを掴み上げた。
「これを着なさい」
「分かった。裸子植物風に登場してみたけど、被子植物風になるよ」
「きれいな模様だね。この部分の面積はどれくらいかな?」
それを化能蒸と理密等に投げ渡す。この二人は素直に従った。
州湖良が先ほど取り出した物の正体は、ベトナムの民族衣装『アオザイ』だった。色は純白で花柄の刺繍も施されていた。
なっ、なんでこんなことが、起こってるんだ?
秀介は目の前で次々と起こった超常現象にただただ唖然とするばかり。
「絶対、夢だよな?」
とりあえず右手をゆっくりと自分のほっぺたへ動かし、ぎゅーっと強くつねってみる。
「いってぇ!」
痛かった。
現実……だったらしい。
「嘘だろ?」
まだ秀介は、この状況を信じられなかった。
「どうしたの秀介? すごい大声出して」
ガチャリと部屋の扉が開かれる。母が入って来たわけだ。
「かっ、かっ、母さん。さっ、さっき、この本の中から、おっ、おっ、女の子が、五人、飛び出して、来たんだ。ほらここにっ……あっ、あれ?」
秀介は強張った表情で伝えたものの、
「誰もおらへんやないの」
母にきょとんとした表情で突っ込まれてしまう。
「いや、さっきいたんだけど、おっかしいな」
秀介は訝しげな表情を浮かべた。
「秀介ったら、とうとうアニメの世界と現実の世界との区別が付かなくなってもうたんやね。またエッチそうな少女マンガ五冊も買うて。必死になって勉強せな、あかんやないのっ!」
母は険しい表情で忠告してくる。
「これは少女マンガじゃないって! 歴とした高校生向けの学習教材なんだ! 最近は表紙や中身にかわいい女の子の絵が描かれた学習教材も増えて来てるんだよ」
秀介は母の目を見つめながら強く主張する。
「そうなの?」
母は再びきょとんとなった。
「表紙に教科名も書いてあるだろ」
秀介は迷惑そうに主張する。
「あらほんまやね。せやけどこんな変な教材、成績アップに役立つのかしらねぇ?」
「絶対役立つって」
「母さんは余計下がってまうと思うわ~。それより秀介、夕飯出来たでー」
母はため息まじりにそう告げて、部屋から出て行った。
やっぱ、気のせい、だよな?
秀介はハハハッと笑う。
次の瞬間、
「あのお方が、秀介さんの垂乳根ですね」
国語のテキストから、皐月がぴょこっとお顔を出した。
「うわぁっ!」
秀介は反射的に仰け反る。
「また驚かせて申し訳ありません。というか、こんなに驚くとは思いませんでした」
皐月はてへりと笑ったのち、全身を出して直立姿勢になった。
「驚くに決まってるだろ」
秀介はごもっともな意見を述べた。
他の四人もまた飛び出して来る。
「お部屋の様子を見て、シュウスケくんは本当に萌え系のアニメが大好きな男の子なんだなぁって、judgmentしたの。これならワタシ達がテキストから飛び出して、三次元化する。というphenomenonを起こしてもごく普通に受け入れてくれるかなぁと思って♪」
エマはにこにこ顔で伝える。
「秀介さんの垂乳根は、常識的なお方のようですし、わらわ達の姿を見たら腰を抜かすかと思いまして、とっさに隠れました」
皐月はゆったりとした口調で語る。
「俺だって相当驚いたよ」
「ワタシ達の広告に、3Dにも対応って説明があったでしょ?」
エマは笑顔で問いかける。
「いや、それって、特殊な眼鏡をかけて、最近では裸眼でも見えるやつもあるけど、実際は平面上にある映像や絵が立体的に見えるやつのことだろ?」
「秀介さん、それは前世紀的な発想ですよ。今や3Dというのは、二次元平面上に描かれたイラストが質感と触感と重量感と香りを伴って、実際に飛び出してくるものなのです。秀介さん若いのにお年寄り風な考え方ですね」
江戸時代風な格好をした皐月がくすくす微笑みながら指摘してくる。
「俺の考えは、間違ってないと思うんだけど……」
秀介は困惑顔になる。
「まあまあシュウスケトン、素粒子の世界では、日常生活では起り得ない現象がしょっちゅう起きてるんだし、素直に受け入れなよ」
「秀介お兄ちゃん、二次元が三次元になることは、Z軸座標が増えたってことだよ」
化能蒸と理密等はにこにこ笑いながら言った。
「受け入れろと言われても……ていうか、この教材を発明したあのおっさん凄過ぎだろ」
「そりゃあ葵君は東大卒業生だもの」
「あのおっさん、東大卒だったのか! 見かけによらず。まさに東大生の発明品って感じだな」
州湖良から伝えられたことに、秀介はあっと驚く。
「葵さんは生まれてからずっと田園調布在住ですよ」
皐月が説明を加える。
「ってことは、わざわざ関西まで遠征してくれたってわけか」
秀介はあのおっさんに対する尊敬度がさらに高まったようだ。
「ちなみに公立中学、それなりの都立進学高出身、理Ⅰ現役合格みたいよ。中学受験ではお母様の勧めで開成を受けたらしいけど、失敗したって言ってたわ」
「這い上がり型かぁ。あのおっさん、そんな経歴で東大受験成功させてるんだな。この教材、ますます信頼出来そうだ」
「褒めてくれてThank you.ワタシ達みんなファミリーネームは違うけど、設定上は五人姉妹だってデベロッパーのアオイくんはうざいくらい熱く語ってたよ。ペンネームだからヒズリアルネームはワタシも知らないけどね」
エマはにこにこ顔で語る。
「マーチ以下はFランが口癖で、大学入試改革に猛反対している葵さんは東大生時代、大手予備校が主催する中高浪人生対象の模擬試験の採点アルバイトをしていたそうです。そのさい、成績不振な中高浪人生達に、基礎から勉強することの面白さをもっと知ってもらいたいなとしみじみ感じたそうです。そこで、萌え美少女キャラと楽しく学べる教材を作ろうと、ある日一人でアキバ巡りをしていた時にふと思い立ったそうです。しかしながら、ただ平面上に描かれた二次元美少女キャラが解説するというやり方では、既存の教材でもとっくに使われていた手法なので、葵さんはさらにそれを発展させ、二次元美少女キャラを三次元化させようと考えたそうです。キャラクターを五人にしようと思った理由は、主要五教科の数と同じということもありますが、葵さんが当時嵌っていて、また、東大を目指すきっかけとなった少年漫画のヒロインの数に倣ったということもあるようです」
皐月は伝聞表現を何度か用いて、この教材が生まれるに至った経緯を長々と話す。
「俺も二次元美少女キャラが飛び出してこないかなぁって妄想することはたまにあるけど、そんなこと絶対起こり得ないって分かりきってるよ」
秀介はアニメの世界と現実との区別がきちんと付いていることをアピールする。
「葵君は東大在学中に、二次元美少女キャラ三次元化計画を実現させるつもりだったんだけど、上手くいかなかったので、卒業後も諦めずにその研究に専念してたわ」
今度は州湖良が説明した。
「すごい探究心だな。俺には絶対真似出来ないよ」
「葵君は計画実現のために情報科学、数学、電磁気学、量子力学、特殊相対性理論、生命科学、人間科学、心理学、音声学、その他様々な学問をたった一人で日夜研究し、去年の五月、ついにわたくし達を三次元化させることに成功したの」
「……てっ、天才過ぎる。二次元キャラを三次元化させるって、普通そんなこと、どう頑張っても実現出来ないだろ」
「それが出来てしまったんだから、そう突っ込まれると反応に困っちゃうな。完成後、葵君はさっそくホームページを作成し、通信販売を開始したの。でも、ホームページ自体を見つけて下さる方もほとんど現れなくて。魅力が無かったのかスルーされ続けられたの」
唖然とする秀介に、州湖良はさらに説明を続ける。
「この教材、販売当初のプライスは一億円、つまりワンハンドレッドミリオン円だったんだよ」
「ええええええええっ!」
エマから聞かされ、秀介は仰天した。
「あまりに売れないので、清水の舞台から飛び降りるつもりで、萌えアニヲタで非リア充な高校生に無料配布することに決めたのだそうです。そのようなお子さんを持つ、阪急沿線にお住まいの教育ママさんなら、販売当初の価格でもご購入していただけるかと葵さんは想定しておられたようでして」
「いやいやいや、あり得ないから」
皐月の説明に、秀介はすかさず突っ込んだ。
「萌えキャラがいっぱい出てくるコミックやアニメやゲーム、ラノベのせいで成績が下がった高校生にぴったりの教材だよってアオイくんは自信満々に言ってたよ」
「まさに、俺のことだな。ところでそのおっさん、職業は研究者か大学教授かな?」
「東大大学院修士課程修了後はずっとニートよ」
州湖良は即答した。
「その用語、この間の中間テスト現社の問題で出てたよ。定義を説明せよって。Not in Education,Employment or Trainingの略だっけ? 俺、その問題はちゃんと当たってたよ。それにしても、才能の無駄遣いだな。東大出て、それだけノーベル賞級のものすごい功績を作りながら、どうしてそうなった?」
秀介はかなり不思議に思ったようだ。
「昨今ではたとえ東大大学院卒といえども、コミュニケーション能力、リーダーシップ、協調性というものが欠けていては就職が上手く行かないみたい。引き篭もって日夜一人で研究に勤しんでいるような人は敬遠されてしまうのだと、葵君はわたくし達が秀介君ちへ向けて旅立つ直前、二〇畳の自室に篭ってアイ○ツを熱心に視聴しながら語ってたわ」
州湖良は呆れ顔で説明する。
「例えば秀介さんのクラスにも、お勉強はとても良く出来るけど、お友達はほとんどいないお方が一人くらいはおられるでしょう?」
「……あっ、確かに」
皐月に問われると、秀介は数少ない親友の一人のことがすぐに浮かんでしまった。
「そういう子が将来、高学歴ニートになりやすいみたいよ」
州湖良は淡々と説明する。
……あいつも十年後、そうなってそうな予感。話し方もあのおっさんと似てるし。
秀介は彼のことが少し心配になったようだ。
「それに、葵君はとっくに三十路を迎えられているから、年齢的に就職は厳しいとか」
州湖良からこんなことも伝えられると、
「社会は厳しいんだな」
秀介は深く同情しながら呟いた。
「ワタシ、シュウスケくんが将来アオイくんみたいにならないように、学力だけじゃなくコミュニケーションアビリティもアップさせてあげるね♪」
エマにウィンクまじりの笑顔で言われ、
「それは、ありがたいな。俺コミュ力低いし」
秀介は微笑んで嬉しそうに呟いた。
「秀介お兄ちゃん、あたし達といっぱいお話しして、コミュ力も無限大に上げちゃおう♪」
理密等に満面の笑みで話しかけられると、
「うっ、うん」
秀介はちょっと俯いて照れ臭そうに返事した。
その直後に、
「秀介ぇー、いい加減夕飯食べやぁー。冷めてまうやろっ!」
母にまた扉を開けられた。
「わっ、分かったよ」
秀介はビクッと反応し、周囲を見渡す。
またもみんな姿を消していた。
やっぱ、夢なのかな?
秀介は首をかしげながら電気を消して部屋を出て、ダイニングへと向かっていった。
「秀介、新しく買った一風変わった参考書に熱中してたみたいだな」
父は楽しそうに微笑む。
「うん、まあね」
秀介は苦笑いでこう答え、
絶対俺の見間違えだよな?
心の中でこう確信して椅子に腰掛けた。
「その参考書上手く活用すれば、秀介も父さんみたいに現役で阪大受かるかもな」
父は上機嫌で鶏の唐揚げを頬張りながらそんな期待を抱く。七三分けで眼鏡をかけ、痩せ型。見た目通りの気弱な性格だが、私立中高一貫校の数学教師を勤めていて生徒や同僚の先生方から高い好感と厚い信頼を集めているらしい。
*
秀介は、夕食後は自室には戻らずまっすぐお風呂場へ。
洗面所兼脱衣場で服を脱ぐと、ハンドタオルを手に取って、いつもと変わらず大事な部分は隠さずにすっぽんぽんで浴室に入る。続いて風呂椅子に腰掛けて、シャンプーを押し出した。
髪の毛をゴシゴシこすっている最中だった。
「やっほー、シュウスケトン!」
突然そんな声がしたと思ったら、湯船がバシャァァァーッと飛沫を上げ、中から化能蒸が飛び出して来たのだ。
「ぅおわあああぁぁーっ!」
秀介はびっくりして思わず仰け反る。もう少しで後ろのタイル壁に後頭部をぶつけるところだった。
「遊びに来ちゃった♪」
化能蒸は舌をぺろりと出して、てへっと笑う。
「どっ、どうやって、入って来たの?」
秀介は当然のように驚き顔。慌ててタオルで大事な部分を隠したのち質問してみた。
「空気中、およそ二〇パーセントを占める酸素に変身してここまで浮遊して来たあと、お湯の中に溶け込んでたのだ」
「そっ、そんな能力まで、使えるのか?」
秀介は目を大きく見開く。
「うんっ! 五人の中で、変身能力を使えるのは理科のこのアタシだけなんですよ。えっへん!」
化能蒸は自慢げに、嬉しそうに答える。
「そっ、そうなのか……っていうか、せめてタオルは巻いてっ!」
秀介は化能蒸がすっぽんぽんだったことに今頃気付き、とっさに目を覆う。
「シュウスケトン、アタシ、アレはもう来てるけど、まだまだお子様体型だから全然問題ないのに。シュウスケトン照れ屋さんだね。じゃあこうするよ。シュウスケトン、タオル巻いたから手をのけてみて」
「ほっ、本当?」
言われるままに、秀介は手をゆっくりと目から離した。
本当にバスタオルが化能蒸の肩の辺りから膝の上くらいにかけてしっかり巻かれていた。
「どう? 似合う?」
「うっ、うん。それより、どうやって一瞬で?」
「さっきはアタシの体の一部をタオルの素材、ポリエステル繊維に変化させたのだ」
「そっ、そういうことか」
「酸素に変身したのもそうだけど、普通はこんなこと化学的に起り得ないでしょ。でもアタシ、物質の化学的性質とか質量保存の法則とかは完全無視して自由自在に変身出来るという設定になってるから。アタシ、当然のようにこんなのにも変身出来るのだ」
そう告げると化能蒸はパッと姿を消して、一辺の長さ三センチくらいの立方体の形をした、銀白色の物体へと変化した。そのまま重力に逆らえず湯船の中にポチャンッと落下する。
飛沫を上げた次の瞬間、
バチバチバチッ、ポーンッ! と破裂音を立て湯船から火花も上がった。
「うわぁーっ!」
秀介はさっき以上に大きく仰け反る。
――ゴツンッ!
「いってぇぇぇーっ!」
後頭部を後ろ壁にぶつけてしまった。
「金属ナトリウムに変身してみたよ♪ ナトリウムは原子番号11の体心立方格子構造を持つアルカリ金属元素でK殻に2個、L殻に8個、M殻に1個の電子があり電子配置は【1s2、2s2、2p6、3s1】、イオン化傾向が大きく炎色反応は黄色を示し、水と激しく反応して水素を発生させる性質などを持っているのだ。化学の勉強になったでしょ?」
化能蒸は再び元の人間の姿に戻った。
「……ってことは、湯船の中、今、水酸化ナトリウム水溶液になってるんじゃないのか?」
「ご名答。ちなみに化学反応式は2Na + 2H20 →2NaOH + H2だよ。浸かったらお肌ぬるぬるになるよ」
化能蒸は無邪気な笑顔で解説する。
「ご名答じゃないよ、危なくて入れないだろ」
秀介はかなり困惑した表情を浮かべる。
「変身した量は少なかったし、そんなに濃度は高くないから安全性にはほとんど問題ないんだけどね。シュウスケトン気になってるようだから元の状態に戻しておくね」
そう言うと、化能蒸はその水溶液の中にドボォォォーンッと飛び込み瞬く間に姿を消した。
「秀介ぇ、やけに騒がしいけど何かあったの?」
母が浴室扉のすぐそばまで迫ってくる。
「なっ、なんでもないよ」
秀介は慌てて返事した。
「秀介、今日帰ってから何か変よ」
母はそう不思議そうに告げて、リビングへと戻っていく。
「シュウスケトン、中和しておいたぜ」
化能蒸はまたさっきの姿へ。
「うわっ」
秀介は少し驚く。
「シュウスケトン、さっきアタシ、どんな物質に変身したと思う?」
「分かるはずないだろ」
「化学式HClの塩酸だよ。NaOH + HCl → NaCl + H20の化学反応式で表されるのだ。中和反応における基礎中の基礎知識だよ。中学の頃に習ったでしょ? ちゃんと覚えておかなきゃダメだぞ!」
「……わっ、分かった」
「そんじゃあシュウスケトン、アタシ、先にお部屋戻っておくね」
化能蒸はそう告げてウィンクし、またも姿を消した。
気体の酸素に変身したのかな?
と秀介は推測した。
それよりこのお湯、本当に、大丈夫なのかな?
恐る恐る、湯船に手を突っ込んでみる。
いつもの湯加減と変わりなかった。確かに元通りになっていた。
秀介は安心して洗面器にこのお湯を掬い、シャンプー塗れの頭を洗い流す。
そのさい、秀介の舌にお湯がわずかにかかった。
なんか、少ししょっぱい。
秀介は少し顔をしかめる。
化学反応によって生成された食塩が、ちょっぴり含まれていたのだ。
もう一度、冷静に考えてみよう。さっき起きたことって、本当に、現実なのか? あり得ないだろ。人間の女の子が、ただの紙で出来たテキストから飛び出して来たなんて。
風呂から上がった秀介は脱衣場でパジャマを着込みながら、思い直してみる。
いるわけ、ないよな?
二階に上がると、恐る恐る、自屋の扉を開けてみた。
「おかえりシュウスケトン」
「秀介君、湯加減どうだった?」
「秀介さん、入浴時間から推測すると、烏の行水ではなかったようですね」
「秀介お兄ちゃん、ちゃんと百まで数えた?」
「シュウスケくん、入浴するは英語でtake a bathだよ」
いた。さっきの五人が――。
彼女達の姿が、しっかりと秀介の目に映った。消していったはずの電気もついていた。
「……あのう、俺、今日は疲れてるみたいだから、もう寝るね」
秀介は若干引き攣った表情で教材キャラ達に向かってこう伝えると電気を消してベッドに上がり、布団にしっかりと潜り込んだ。
「ありゃまっ、もう寝るのか? シュウスケトン」
「秀介お兄ちゃんともっとお話したいのに。でもあたしももう眠いし、寝よう。おやすみ、秀介お兄ちゃん」
「秀介君、わたくし達が三次元化したせいで、急な環境変化に順応出来ず体調崩しちゃったのかしら?」
「そうかもしれませんよ、州湖良さん。今宵はゆっくり寝させてあげましょう」
「シュウスケくん、明日からは本格的に家庭学習指導していくよ。グッナイ!」
こうして教材キャラ達は、それぞれの教科に対応するテキストの中へと飛び込んでいった。
……あれは、幻覚に違いないっ!
秀介はそう思い込むことにした。
☆
真夜中、三時頃。
「ねーえ、秀介お兄ちゃぁん」
どこからか、とろけるような声が聞こえてくる。
「――っ」
秀介はハッと目を覚まし、ガバッと勢いよく上体を起こした。
「ん?」
瞬間、秀介は妙な気分を味わう。
左腕に、何か違和感があったのだ。
「秀介お兄ちゃん」
「この、声は?」
秀介は恐る恐るゆっくりと、顔を横に向けてみた。
「うわぉっ!」
思わず声を漏らす。
彼のすぐ隣、しかも同じベッド同じ布団の中に、理密等がいたのだ。
「おしっこしたいから、付いて来て」
理密等は頬を赤らめて、秀介の左袖を引っ張りながら照れくさそうに要求してくる。
「あっ、あの……」
俺は今、夢を見ているんだ。きっとそうだ、それ以外あり得ない。
秀介は自分自身にこう言い聞かせる。
「秀介お兄ちゃぁん、あたし、おしっこがオーバーフローして漏れそう。もう我慢出来ないぃぃ」
理密等は今にも泣き出しそうな表情になり、全身をプルプル震わせた。
これは夢だ、これは夢だ、夢に違いないっ!
けれども秀介は無視することに決めた。心の中でこう呟いて、再び布団に潜り込む。
ほどなく彼は二度目の眠りに付いた。
☆ ☆ ☆
朝、七時四〇分頃。
「うわあああああああーっ。うっ、嘘だろ……」
萌えキャライラスト入り目覚まし時計のとろけるようなボイスアラームと共に目覚めた秀介は、起き上がった直後に絶叫した。
布団とシーツが、おしっこまみれになっていたのだ。
「こっ、これって……」
秀介は布団とシーツを見下ろす。彼の着ているパジャマも、おしっこまみれだった。ちょうどズボンの前の部分が黄色いシミになっていた。もちろんにおいも併せて漂う。
どう、処理しよう。
冷や汗を流し、深刻そうな表情で悩んでいたその時、
「秀介、どうしたの? 朝からご近所迷惑な大声出して」
「うわっ、かっ、かっ、母さん!!」
折悪しく、ガチャリと扉が開かれ母が部屋に入り込んで来た。
「ん? 何これ? 秀介、ひょっとして、おねしょしたのぉ?」
母は秀介のズボン前をじーっと見つめながら、問い詰めてくる。
「ちっ、違う! 断じて違うんだ母さん。これは、真夜中に、小学生の女の子が俺の布団に入り込んで来てそれで、その……」
秀介は必死に言い訳しようとする。
「秀介、アニメの世界と現実の世界を混合するんじゃないの」
母はくすっと笑った。
「ほっ、本当なんだって。その、あの教材の中から、飛び出して来て」
秀介は床の上に置かれた五冊のそれを指差しながら訴えてみた。
「はいはい、いいからはよ着替えなさい。智帆ちゃんもうすぐ来ちゃうわよ」
けれどもやはり無駄だった。母はにやにや笑いながら命令してくる。
「信じてくれよぉー」
秀介は悲しげな表情を浮かべながらパジャマを脱ぎ、下着も替えた。そして制服に着替え始める。
「秀介、それ、お母さんに貸しなさい」
「いいって、俺があとで持っていくから」
「まあまあ秀介、遠慮せずに」
「あっ!」
あっという間に、パジャマ一式と下着を奪われてしまった。
「早めに洗濯しなきゃ、汚れ落ちにくくなるでしょ」
母はそう告げて部屋から出て、意気揚々と階段を下りていく。
今、時刻は七時四七分。
まだ大丈夫だな。
秀介がそう思った次の瞬間、
ピンポーン♪
玄関チャイムが鳴ってしまった。
「おはようございます、秀介くん、おば様。今日は昨晩お祖母ちゃんちから届いたお野菜果物と水羊羹の詰め合わせをお裾分けするために、少し早めに来ちゃいました」
いつもより五分ほど早く智帆が迎えに来たのだ。しかも智帆が玄関扉を開けたのと、母が階段を降り切って玄関前に差し掛かったのとが同じタイミングだった。
「おはよう智帆ちゃん、今朝秀介ね。おねしょしちゃったのよ。これを見て」
母は嬉しそうに、智帆の目の前に黄色く変色した秀介のパジャマをかざした。
「あらまぁ」
智帆は段ボール箱を両手に抱えたままやや前かがみになり、興味深そうにそれをじっと見つめる。
「どわああああああああっ、えっ、冤罪だぁーっ」
秀介は慌てて階段を駆け下りながら、弁明する。
「秀介くん、恥ずかしがらなくても。たまにはこういうこともあるよ」
智帆は柔和な笑顔でフォローしてあげた。
「あの、智帆ちゃぁん、俺、やってないから」
知られてしまった秀介は、かなり沈んだ気分になる。
「秀介、はよ顔洗って朝ごはん食べて、学校行く準備しなさい」
母はにこにこ笑いながら命令する。
「わっ、分かったよ」
秀介はしょんぼりしながら洗面所へ向かっていった。
「智帆ちゃん、秀介ったらね、表紙にかわいらしい女の子の絵ぇが載っとる変な参考書ようさん買い集めとるんよ」
「おば様、私は変じゃないと思います。そういう系の参考書、私のお友達にも使ってる子いますよ」
「智帆ちゃんがそう言うんなら、まともな参考書なのかな?」
「はい、きっとそうです」
母と智帆は引き続き会話を弾ます。
こんなことがあったためか、普段より三分ほど遅れて智帆と秀介は家を出た。
制服は今週いっぱいまで移行期間だが、二人とも今週初めより冬用学ラン・セーラー服から完全夏用の半袖ポロシャツ&学ラン夏用ズボン・夏用セーラースカートに変えていた。伝統校らしく制服は男女とも古めかしいのだ。
もし昨日の出来事が本当のことであれば、俺はおねしょをしていない。もし夢の中の出来事であったならば、俺はおねしょをしたことになってしまう。どっちがいいんだ? この場合。
秀介は通学路を早足で歩きながら葛藤する。
「あの、秀介くん。元気出して。おねしょのことはもう忘れちゃおう」
智帆に優しく励まされ、
「うん、そうだね」
秀介は穴があったら入りたい気分になった。
同じ頃、秀介のお部屋ではエマ、理密等、州湖良、皐月が三次元化して、部屋の中央付近に集まっていた。化能蒸だけはまだ教材内で睡眠中だ。
「リミットちゃん、bedwettingしちゃったんだね」
「ごめんなさい。暗くて、おばけが怖くて行けなかったの。秀介お兄ちゃんが帰って来たら謝らなきゃ」
しゅーんとなっていた理密等を、エマは優しく慰めてあげる。
「理密等ちゃん、今夜からは、おトイレ行く時わたくしが付いていってあげるからね」
「ありがとう、州湖良お姉ちゃん」
理密等は州湖良の胸元にぎゅっと抱きついた。甘えん坊さんなようだ。
「寝小便を垂らしてわぶる理密等さん、いとらうたしです」
皐月は我が子を見守るようにその様子を微笑ましく眺めていた。
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