第二話 学習指導本格始動! 怠けたら体罰もあるわよ
午前八時二五分頃、豊根塚高校一年二組の教室。
秀介が自分の席に座ってくつろいでいると、
「ぃよう、しゅうすけ。ついに母ちゃんから恐れていたこと告げられてもうて災難やな」
彼の中学時代からの数少ない親友、寺浦涼太がほぼいつも通りの時刻に登校して来て近寄って来た。丸顔で目は細め、背丈は一六九センチと普通だが、ぽっちゃり体格な子だ。
「おはよう涼太(りょうた)、母さんの求めるハードルは高過ぎるよ」
秀介は苦笑いを浮かべつつも、明るい声で挨拶を返してあげた。中学入学当時、涼太の出席番号は今学年同様、秀介のすぐ前だった。そのことがきっかけで入学式の日から自然に話し合う機会が出来、お互い仲良くなったというわけだ。秀介は中学時代は涼太と同じパソコン部に所属し、高校でも同じ文芸部に入部した。
友達選び間違えたかなぁ? いや、涼太と出会えてよかったよ。新しい世界が広がったから。と秀介は今になって反語的に思うことが時々ある。
なぜなら涼太は、中学入学当時ファ○通と三大週刊少年誌とテレビ雑誌、智帆が読んでいた少女漫画誌くらいしか雑誌の存在を知らなかった純粋な秀介に、マニアックな月刊漫画誌やアニメ雑誌、声優雑誌、美少女ゲーム系の雑誌。さらにはラノベ、同人誌、深夜アニメの存在などを教え、そっちの道へと陥れた張本人だからだ。涼太自身は小学五年生頃から萌え系の深夜アニメに嵌っていたのだという。
「おはよう涼太くん」
「……おっ、おはよう」
突如、智帆に明るい声で挨拶された涼太は思わず目を逸らしてしまった。彼は智帆に限らず、三次元の女の子がよほど年上でもない限り苦手なのだ。かわいい女の子に話しかけられると緊張してしまうのは物心ついた頃かららしい。その性格が、彼が二次元美少女の世界にのめり込むようになった原因ではないかと秀介は推測している。
「やぁ、おはよう」
ほどなく秀介のすぐ後ろの席の男子生徒も登校してくる。秀介にとっての親友は涼太と彼くらいなものだ。昨夜、皐月に問われた件で思い浮かんだまさにそいつである。
「おい、てつひで、高校でも相変わらず学年トップ記念に母ちゃんに何ご褒美もらった?」
涼太はにこやかな表情で問いかけた。
「特にご褒美はなかったですよん。いつものことですしぃ」
哲英はほんわか顔で質問に答える。涼太にとって哲英は秀介と同じ文芸部仲間なのだ。
「哲英は相変わらずの天才振りだよな」
秀介は深く感心する。同じ幼小中出身のため哲英のことは昔からよく知っている。つまり智帆にとっても古い顔馴染みというわけだ。
「おれもてつひでみたいな天才的頭脳が欲しいぜ。吸収っ!」
涼太は哲英の頭を両サイドから強く押さえ付けた。
「あべべべ、寺浦君、痛いので止めてくれたまえええぇぇ~。僕は天才ではないですよぉん。僕でも北野とか星光とか灘とかの最上位校進んでいたら、並以下の成績になっていたことでしょうしぃ」
哲英は首をブンブン振り動かし抵抗する。
「てつひで、明らかにトップ維持のためにこの高校進みやがったな。卑怯な奴め。期末では、どれか一科目だけでも勝ってみせるぜ」
そう宣言し、涼太は手を離してあげた。哲英のフルネームは北之防哲英。公立中学入学当時から今に至るまで校内テストの総合得点で学年トップを取り続けている秀才君である。坊っちゃん刈り、四角い眼鏡、丸顔。まさに絵に描いたようながり勉くんな風貌な彼は、背丈は一五六センチと高一男子にしては低く、学年ワーストクラスだ。
「哲英くん、期末も学年トップ取れるように頑張ってね」
智帆はほんわか顔でエールを送る。
「はっ、はいぃ。頑張りますぅ」
哲英は俯き加減で緊張気味に反応した。彼も涼太ほど重症ではないが、物心ついた頃から三次元の女の子を苦手としていて、小学校高学年の頃にはすでに二次元美少女の世界にどっぷり嵌っていた。しかしながら、哲英がそういった趣味を持っていることは、秀介は高校に入学して文芸部に入部するまで知らなかったのだ。
どうしようかな?
秀介は昨日の出来事をこの二人に話そうかな、と思った。けれど、信じてもらえるわけは無いだろうと感じ、黙っておくことにした。
八時半の、朝のSHR開始を告げるチャイムが鳴ってほどなく、
「皆さん、おはようございます」
クラス担任で英語科の播本先生がやって来た。背丈は一五〇センチちょっと。ぱっちり瞳に丸顔。ほんのり栗色なサラサラヘアーはミディアムボブにしている。二八歳の実年齢よりも若く見え、女子大生っぽさもまだ感じられるそんな彼女はいつも通り出席を取り、諸連絡を伝えて一時限目の授業が組まれてあるクラスへ移動していった。
このクラスの今日の一時限目は家庭科。一年生が今学習しているのは保育の分野だ。
「このページを捲ると可愛らしい厚紙工作が迫り出してくる飛び出す絵本、皆さんも幼い頃に楽しんだと思います。遊び心があって懐かしいでしょ?」
小顔でぱっちり瞳、ほんのり茶色な髪をフリルボブにし、お淑やかそうな感じの四十代女性教科担任はそれを教卓から、クラスメート達に向けて見せた。
あの教材、厚紙工作どころか、生身の人間が、飛び出して来たんだけど……。
「利川君、どうかしましたか?」
「……あっ、いっ、いえ、なんでも」
秀介はロダンの『考える人』のような格好をしていたため、教科担任に心配されてしまった。秀介の席は教卓に近いため目立ちやすいのだ。
二時限目は体育。今日は男女とも体育館で行われることになっていて男子は跳び箱、女子はバドミントンだ。体操服は今日から完全夏用。男女とも同じ柄で、学年色黄色のラインと校章の付いた白地半袖クルーネックシャツと、青色ハーフパンツだ。
「利川君が強制入塾されそうになってる烈學館、昔は体罰ありのスパルタ教育だったけど今はかなり生ぬるくなってるらしいよ。この塾に通ってる子のツイッターによると。今日の帰り、外観だけでも見に行ってみないかい?」
「そうだなぁ。一応見ておいた方がいいな。涼太はどうする?」
「もちろん行くぜ。どんな感じの塾なんかめっちゃ気になるからな」
哲英、涼太、秀介、他男子が準備運動の腕立て伏せをしている最中、
「先生、光久さんが倒れましたっ!」
女子の一人が大声でこう叫んだ。
「えっ!」
秀介は思わず声を漏らす。そして視線を女子のいる方へと向けた。
本当に、智帆がうつ伏せ状態で倒れこんでしまっていた。
準備運動として体育館内の周囲を走っている最中だったらしい。
「熱中症?」
「チホっぺ、大丈夫? 頭打ってない?」
「ちほちゃん、しっかりして!」
「貧血っぽいね」
智帆のすぐ近くにいたクラスメート達を中心にざわつく。その声が十数メートル離れた秀介の耳元にもしっかり届いていた。
「しゅうすけ、見に行ってあげた方がいいんじゃねえか?」
「利川君、これは緊急事態ですよん」
涼太と哲英からにやけ顔でそう言われると、
「そっ、そうだな」
秀介は急いで男子体育教師のもとへ向かい、
「先生、ちょっと、智帆ちゃんの様子、見に行って来ます」
こう伝えて、智帆のもとへ駆け寄った。
「ちっ、智帆ちゃん」
秀介は智帆の顔色を心配そうに見つめる。いつもはきれいなピンク色をしている唇が、白っぽく変色していた。頬も青白くなっていた。
「あっ……秀介くん」
智帆は幸いすぐに意識を取り戻した。
「大丈夫?」
秀介は心配そうに話しかけてあげる。
「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから」
智帆はこう答えて、ゆっくりと立ち上がった。
「よっ、よかったぁ。でも、保健室には行った方がいいよ」
秀介は強く勧める。
「保健委員さん、光久さんを保健室へ連れて行ってあげてね」
女子体育教師はこう呼びかけた。
「その子今日欠席です」
すると女子の一人が叫んだ。
「あらまっ」
女子体育教師は苦笑いする。まだ出欠確認をする前だったので気付けなかったのだ。
「そうだっ! 利川くんが連れて行ってあげて」
別の女子から頼まれる。
「おっ、俺が、連れて行くの」
「もっちろん。きみの彼女でしょ?」
「いや、そうじゃ、ないんだけど」
「いいから、いいから」
その子に背中を押された。
「頑張ってね!」
女子体育教師からもエールを送られる。
「あの、智帆ちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」
秀介は緊張気味に、智帆に話しかける。
「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうよ」
智帆は元気なさそうな声で伝えた。
「しっかり掴まってね」
秀介は智帆の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。
「ごめんね、秀介くん」
智帆は申し訳なさそうに礼を言い、秀介の両肩にしがみ付いた。
「――っしょ」
秀介は一呼吸置いてから智帆の体をふわりと浮かせる。
おっ、重いっ!
途端にそう感じたが、もちろん黙っておいた。
「秀介くん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」
「べつにいいよ、気にしないで」
なっ、なんか、胸が。智帆ちゃん、いつの間に、こんなに大きく……。
むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。
智帆のおっぱいの感触が薄い夏用体操服越しに、秀介の背中に伝わってくるのだ。
急ごう。
なんとなく罪悪感に駆られた秀介は早足で歩こうとする。けれども足がふらついてしまい結局ゆっくりペースに。体育館正面出入口から保健室までは、距離にして百メートルちょっと離れていた。秀介は智帆を落とさないように、慎重に歩き進んでいく。
「失礼、します。田積先生、あの、この子が、体育の授業中に、貧血で、倒れました」
やや息を切らしながら保健室の、グラウンド側の扉をそっと引いて小声で叫び、智帆を背負ったまま中へ入った。
「田積先生、失礼しまーす」
智帆は元気無さそうに挨拶する。
「いらっしゃい」
養護教諭、田積先生は二人を笑顔で迎えてくれた。ぱっちり瞳に卵顔。さらさらした黒髪は黄色いりぼんでポニーテールに束ねている、三〇歳くらいの女性だ。
今保健室には、この三人以外には誰もいないようだった。
「じゃ、下ろすよ」
「ありがとう」
秀介は、智帆をソファの前にそっと下ろしてあげた。
智帆はソファにぺたりと座り込む。
「光久さん、これをどうぞ」
田積先生は、保健室内にある冷蔵庫から貧血に効く栄養ドリンクを取り出し、智帆に差し出した。
「ありがとうございます」
智帆はぺこりと一礼してから丁重に受け取る。瓶の蓋を開けると、ちびちびゆっくりとしたペースで飲み干していった。
「光久さん、今日は早退した方がいいわね」
「いえ、私、少し休めば大丈夫ですよ」
智帆は元気そうな声で答えてみるが、
「ダメだよ智帆ちゃん、無理しちゃ。今日は早退した方がいいよ」
秀介も田積先生と同意見だ。
「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」
智帆は困惑顔になる。
「俺が取ってあげるから、心配しないで」
「大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だって。俺、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」
「本当?」
「うん、本当」
「利川君、心配されてるのね」
田積先生はにこっと微笑む。
「まあ、俺、普段授業中寝てしまうことが多いですし」
秀介は照れ笑いする。
「二人ともとても仲良いわね。光久さんは、貧血になったのは今回が初めてかな?」
「はい。私、テスト期間中は睡眠時間削って勉強してて、水泳の授業も近いからダイエットしようと思って、最近は朝食もほとんど食べてなかったからかな?」
智帆は照れ気味に打ち明けた。
「原因は非常に良く分かりました。光久さん、朝食を抜くのはダメよ。保健や家庭科の授業でも再三言われてるでしょ」
田積先生は爽やか笑顔顔で忠告する。
「はい、今後は気を付けます。もうあんなしんどい思いはしたくないので。それに私、食べること好きなので、それを我慢したことでストレス溜まっちゃったのも良くなかったですね」
智帆はてへっと笑った。
「光久さんの身体測定のデータ見ると標準体重よりちょっと少ないから、少々増えたってダイエットはする必要ないからね。敏感になり過ぎて太ってないのにダイエットしようとする子が本当に多くて……」
田積先生はパソコン画面を見つめながら、ため息まじりに助言した。この学校の生徒達全員の身体測定データが、専用ソフトに保存されてあるのだ。
「すごい! データベース化されてるんだ」
秀介は興味を示し、画面に顔を近づけた。
「あんっ、秀介くん。私の見ちゃダメェッ!」
智帆はとっさに秀介の両目を覆う。
「あっ、ごっ、ごめん智帆ちゃん」
秀介が謝罪すると、智帆はすぐに手を放してくれた。
「利川君、女の子はお友達同士でも体重を知られたくないものなのよ」
田積先生は秀介が目を覆われている間にデータ画面を閉じてあげた。
「ごめんね智帆ちゃん、俺、もう戻らなきゃ」
秀介は智帆に頭を下げて謝り、保健室から出て行く。
その頃。秀介のお部屋では、
「シュウスケくん、あの女の子ととても仲良さそうだね。きっとガールフレンドだね」
「アタシもそう思うぜ。交尾はもう済ませたのかな?」
「秀介お兄ちゃん、三次元にもいたんだ。意外だね。クラス内での階級低そうなのに」
「秀介君、異性交遊関係についてはリア充なのね。中高時代、学力は学年トップ層ながら三次元の女の子からは全くモテなかったらしい葵君とは正反対ね。三次元にもいるのに受け取って下さったなんて、とてもありがたいわ」
「わらわは、ただの幼馴染だと思うのですが……クラスに一人くらいいる、どんな冴えない男の子にも、たとえ葵さんみたいな正直気色が悪いタイプであっても嫌がらず温かく接してくれる、心優しい女の子という感じがしますね」
五人がテキストから飛び出しベッドの上に座り込んで、テレビを眺めていた。
秀介の学校での様子を、モニターを通じて観察していたのだ。
「それにしてもこのグッズはベリーワンダフルインベンションだね。上空からの映像だけじゃなく建物内部の映像まで見れるなんて」
エマはとある加工品に大いに感心する。
「これさえあれば、地球上の任意の地点のライブ映像を映し出すことが出来るよ。ストリートビューと、衛星カメラの合体版かな? これは葵君の発明品なの」
州湖良は自慢げに語る。学習机の本立てに置かれていた地球儀と、テレビ端子とが一本の水色ケーブルで繋がれていたのだ。
「ド○えもんのひみつ道具みたーい。あたしのテキストには、そんなの組み込まれてないよ。いいなぁー」
「アオイソロイシン、スコランゲルハンス島にいい物持たせてくれたね。未来的技術だ。音声が入ってこない欠点はあるけど」
理密等と化能蒸は羨ましがった。州湖良の入っていた社会科のテキストには、他に開発者小1女児おじさん葵の発明品も任意のページにいくつか詰められてあるのだ。ただし普通の人、そして州湖良以外のこの四人にも単なる白紙のページにしか見えない。取り出すことも州湖良しか出来ない仕様になっている。
「あっ、あのう、いいんでしょうか? 盗撮なんかして?」
皐月は困惑顔で州湖良に問いかけてみる。
「……法律的に、良くないとはわたくしも思いますけど、その、秀介君の学校での様子が気になってしまって」
州湖良は少し俯き加減になり、バツの悪そうに言い訳した直後、
――ドスドスドス。と廊下を歩く足音が五人の耳元に飛び込んで来た。
「シュウスケくんのマミーが来るようだね。みんな隠れて!」
エマは注意を促す。彼女がテレビの電源も切った。
エマを先頭に他の四人も自分のテキストの中に素早く身を引っ込める。
一番動作の遅かった皐月が引っ込んでから約二秒後に、扉がガチャリと開かれ、母が秀介のお部屋に足を踏み入れて来た。
「まったく秀介ったら、また散らかしちゃって。変なコードまであるし。……これ、秀介が使っとる変な教材ね。これも散らかってるってことは、ちゃんとお勉強したのかな?」
母はため息まじりながらもちょっぴり嬉しそうに告げながら、床に散らばっていた教材を学習机の上に積み重ね、掃除機をかけて部屋から出ていった。
「マミー、重ねたら出にくくなっちゃうよ。Are you all right?」
一階へ降りていったことが確認出来ると、エマは英語のテキストからぴょこっと飛び出す。そして他の教科のテキストをベッドの上に一冊ずつ並べてあげた。
すると他の四人はすぐに飛び出してくる。
「甚だ重たかったです」
皐月はホッとした表情で告げた。彼女が一番下になっていたのだ。
「シュウスケトンのママ、よりによって一番重たそうなエマルトースを一番上にしていくとはね」
「ワッ、ワタシ、そんなに重たくないよ」
化能蒸に指摘され、エマはむすっとなった。
「アメリカナイズな食生活送ってるっていう設定になってるくせに」
「そんな設定ないもん!」
エマはそう主張して、化能蒸の髪の毛を引っ張る。
「いたたたたたっ、やったな、エマルトース」
化能蒸はエマのほっぺたをつねる。
「二人とも、しょうもないことでケンカは止めましょうね」
州湖良は優しくなだめてあげた。
「だってゲノムちゃんがぁー」
エマはつねられながら言い訳する。
「鹸化はしてないぜスコランゲルハンス島。カルボン酸の塩もアルコールも生成されてねえだろ」
化能蒸は髪の毛を引っ張られながら反論する。
「訳の分からないこと言ってないで、いい加減にしなさい。めっ!」
州湖良は二人の頭をゴチンっと叩いた。
「Ouch!」
「いたーっい。分かったよ、止めるよスコランゲルハンス島」
「ワタシも大人気なかったな」
すると二人はすぐにケンカをやめてくれた。州湖良のことを恐れているのだ。
「化能蒸お姉ちゃん、エマお姉ちゃん。秀介お兄ちゃんのその後を見た方が面白いよ」
理密等の手によってまたテレビが付けられると、教材キャラ達は再びモニター画面に食い入る。
その頃、秀介の通う学校では三時限目世界史Aの授業が始まっていた。
眠いけど、なんとか取らなきゃ、智帆ちゃんに迷惑掛けちゃう。
智帆のために、一生懸命シャーペンを走らせノートを取る秀介の姿に、
「シュウスケくん、leave school earlyしたチホちゃんのために頑張ってるね」
エマ達はまたも感心させられた。
*
その日の放課後。秀介、涼太、哲英の三人は週一回木曜日だけ活動している文芸部の部室、情報処理実習室へ。そこには最新式に近いデスクトップパソコンが五〇台ほど設置されてある。文芸部の主な活動内容は小説やエッセイ、詩、俳句、短歌、川柳などの創作。パソコンを使って作業をすることも多いため、ここを部室として使っているのだ。
ところがこの三人は、パソコンでアニメ鑑賞やインターネットをしていることがほとんどである。顧問はいるものの、放任状態となっているため特に咎められることはないという。二十数名いる他の部員達もオンラインゲームで遊んだり、動画投稿サイトや某巨大ネット掲示板を眺めていたりと本来の活動内容とは全然違ったことをしている者は多い。真面目に活動している者は少数派なのだ。ちなみに男女比はほぼ半々である。
三人は一台のパソコンの前にイスを寄せ合い、近くに固まって座った。
秀介が電源ボタンを入れ、彼の学籍番号とパスワードでパソコンを起動させる。
「まずはこれから見ようぜ」
涼太は録画した深夜アニメ番組が焼かれてあるブルーレイディスクを通学鞄から取り出し、投入口に入れて再生した。
「わーお、いきなりヒロインのシャワーシーンですか。謎の湯気が邪魔ですが萌えますね」
開始十秒で、哲英の表情がほころぶ。
「やっぱ女は二次元に限るよな?」
流れてくる高画質かつ高音質な映像を眺めながら、涼太はにやけ顔で問いかける。
「その通りだね。三次元にはろくなのがいないよん」
哲英は即、同意した。
「確かに二次元の女の子はすごくかわいいけど、俺は恋愛対象にまではならないなぁ。髪の色が変だし。あんな水色とか緑とか、ピンクとかオレンジとかあり得ないでしょ」
秀介はキャラクターよりも若干、ストーリー重視なのだ。まだ、この二人ほどは萌え系深夜アニメには熱中していないようである。
「そこには突っ込んでやるなって。しゅうすけはまだまだ二次元世界初心者だな」
「利川君は、僕や寺浦君のようにまではならない方がいいよーん。もう戻れなくなっちゃうからね」
哲英は自虐をまじえて忠告する。そんな様子を秀介のお部屋から、
「シュウスケくんったら、あんなテンプレートでmass production typeのアニメ美少女キャラに鼻の下伸ばしちゃって」
「アニメ美少女はプロのキャラクターデザイナーさんの造形。わたくし達をデザインしてくれた葵君は所詮アマチュアだから、容姿で劣っちゃうのは仕方ないわ。だからわたくし達は内面で魅力を出さなきゃね」
エマと州湖良はちょっぴり嫉妬心を抱きつつモニター越しに眺めていたのだった。
秀介達三人はあのあと五時過ぎに学校を出て、体育の授業中に打ち合わせた通り、興味本位で最寄り駅前に聳え立つ烈學館の建物側に近寄ってみた。
四階建てで東大本郷キャンパス安田講堂を髣髴とさせる赤茶色の煉瓦造り。周囲の建物と比較して威圧感があった。中学受験、高校受験、大学受験全てに対応しているわりと大きめの進学塾で少人数制、習熟度別クラス、熱血指導が謳い文句らしい。入口横には東大○○名、京大○○名、阪大○○名、灘○○名、東大寺学園○○名、星光学院○○名などなど、名門校の合格実績が書かれた看板も目に付く。
「遅いぞ、こんな基本的な数列の問題くらいもっとパッパッパッと解かんかいやっ!」「ぅおーい、なんでこんな簡単な問題間違うんじゃボケェッ! おまえそんなんじゃ灘どころか六甲にも受からへんぞぉっ!」「そこの二人、ぺちゃくちゃおしゃべりするんやったら今すぐ出て行けぇーっ!」「これ何やっ? こういうくだらんもん持ち込むなって塾規則に書かれとったやろうがぁっ! 字ぃ読めんのかぁぁぁっ!」
建物内からは、こんな講師達のドスの利いた怒声が三人の耳元に飛び込んで来た。
その声とともに、パシーッン! と竹刀で床や机を思いっ切り叩いていると思われる音も。教室の窓が開かれていたこともあり、より一層聞こえやすくなっていたのだ。
「噂通り昭和体質で講師が酒呑童子も怯えて泣き出す怖さみたいだな。女の子のすすり泣く声も聞こえて来たし。俺、こんな所に週五で通わされそうになってるのか……これは、勉強真面目にこなさないとマジでやばいよな。俺、筋金入りの豆腐メンタルだし、もし入らされたら初回授業で速攻PTSDになりそうだ」
秀介は苦々しい気分だ。
「しゅうすけ、大ピンチやな」
涼太は他人事のようににこにこ笑っていた。
「さすが熱血指導が売りなだけはあるね。利川君、期末に向けて勉強頑張って下さいませ。スポーツその他実技とは違い、筆記試験のための勉強は頑張れば必ず報われますから。心から健闘を祈ります」
哲英はきりっとした表情でエールを送ってくれた。
夕方六時頃。
「ただいまー」
「おかえり秀介、お部屋はもっときれいにしなさいね」
「分かってるって」
秀介は途中、智帆のおウチに寄りノートと今日配布されたプリント類と、近所のスーパーで買った抹茶シュークリームといちご大福を届けて自宅に帰って来た。
手洗い、うがいを済ませて二階に上がり、
いない、よな? 今朝は姿を見かけなかったし。
恐る恐る自室の扉を開くと、
「Welcome home! シュウスケくん」
「おかえりーっ、シュウスケトン」
「おかえりなさいませ、秀介さん」
「おかえり、秀介お兄ちゃん」
「おかえりなさい、秀介君」
教材キャラ達がみんな揃って爽やかな表情で出迎えてくれた。
「……夢じゃ、無かったのか。昨日の、出来事は……」
秀介は顔を強張らせる。
「だから現実だって。シュウスケトン、もう認めちゃいなよ。アタシ達はキャラデザのアオイソロイシンの空想と現実の二面性を持っているのだ。光が波と粒子の二面性を持ってるのと同じようにね」
化能蒸が肩をポンポンッと叩いてくる。
「わっ、分かった。認めるよ、もう」
秀介はついに観念してしまった。その方が精神的に楽だと感じたからだ。
「あのう、シュウスケくん、三次元の世界にも素敵なガールフレンドがいるんですね。What‘s her name?」
エマが問い詰めて来た。
「あっ、あの子は智帆ちゃんっていうんだけど……ていうか、なんで知ってるの?」
秀介は当然のように驚く。智帆のことはこの五人に一度も話したことはないからだ。
「これで、シュウスケくんのハイスクールライフをウォッチングしてたんだよ」
エマはテレビ画面を指し示す。
秀介の通う学校校舎の映像が映し出されていた。
「何、これ?」
秀介はケーブルの方にも目を向けた。
「このケーブルは、地球上のどの地点からでもライブ映像を映し出すことが出来る葵君の発明品よ」
州湖良はどや顔で得意げに説明する。
「すっ、すごいな、あの人。どういう原理で、こんなことが?」
秀介はかなり驚いている様子だった。教材キャラ達がテキストの中から最初に飛び出て来た時と同じくらいに。
「それが、葵君自身にもよく分からないみたい。小学校時代に好きだった女の子のおウチを覗きたいなという願望が、発明しようと思った動機だとはおっしゃってたけど」
州湖良は照れ笑いする。
「……これ、非常にやばくないか? 盗撮だろ」
「秀介さんもそう思いますよね?」
皐月は同意を求めてくる。
「そっ、そりゃそうだろ」
「シュウスケトン、これでチホルマリンって子のおウチ内部も見られるぜ」
化能蒸はそう伝えるとリモコンボタンを操作し、映像を切り替えた。
「こっ、これは――」
秀介は思わず顔を画面に近づけた。智帆のお部屋の一角の映像が映し出されたのだ。
ピンク地白水玉のカーテンで、水色のカーペット。窓際に観葉植物。学習机の周りにはケーキ、ドーナッツ、アイスクリーム、いちご、みかん、バナナなんかを模ったスイーツ&フルーツアクセサリーやオルゴール、着せ替え人形。ゴマフアザラシ、モモンガ、コアラなどの動物やゆるキャラの可愛らしいぬいぐるみなんかがたくさん飾られてある、じつに女の子らしいお部屋だった。何度か智帆のお部屋を訪れたことのある秀介には特に目新しくは映らなかったが、こんな視点で観察したのはもちろん初めてのことだ。
「シュウスケトン、好きな女の子がおウチでどんな風にして過ごしてるか知りたいでしょ?」
化能蒸はにやっと微笑む。
「ダメダメダメ!」
秀介は冷静に判断する。
「あっ、チホちゃんっていう子、今からurinationかfecesするみたいだよ」
エマは画面を食い入るように見つめる。
「どわあああああああっ、ダッ、ダメダメダメッ。法律的に」
「シュウスケくん、見たくないの? 高校生くらいの男の子って、こういうのにすごく興味があるかと」
「ない、ない、ない、なーっい!」
秀介は慌ててテレビの電源を切った。また映像が切り替わり、トイレで下着を脱ぎ下ろしている智帆の姿が映し出されていたのだ。智帆の穿いていた水玉模様のショーツを、秀介はほんの一瞬見てしまった。
「あーん、もっとウォッチングしたかったのにぃ」
「アタシもーっ。腎臓で血液からろ過され、膀胱に溜められた老廃物が排泄される重要な人体現象だもん」
エマと化能蒸はふくれっ面で駄々をこねる。
「これは、プライバシーの侵害だよ」
「ごめんね秀介君、つい〝知る権利〟の方に意識を片寄せ過ぎちゃって。これからは必要最低限の生活面だけを見るようにするね」
秀介に困惑顔で注意され、州湖良は申し訳なさそうに謝る。
「いやぁ、全く見なくていいんだけど」
秀介は対応に困ってしまう。
「スコラちゃんが、シュウスケくんのことを知る権利があるって言ってたから、シュウスケくんのお部屋、勝手にinvestigateさせてもらったよ。面白いコミックやラノベ、けっこう持ってるね。ワタシもコミックやラノベ大好きだよ」
「シュウスケトンって、三次元のヒトのメスの裸が載ってるエッチな本は一冊も持ってないんだな。ベッドの下も綿密に調べたんだけど、収納ケースが置いてあって、中に服とアタシと同じ名前のゲノムならぬゲームが入ってただけだし。男子中高生必須のアレする時に使うビジュアルは二次元の女の子のみってわけだな」
「シュウスケくんはアオイくんと同じくwholesome boyだね。いい子いい子」
化能蒸とエマは機嫌良さそうに話しかけてくる。
「あのう、あんまり俺の部屋、荒らさないでね」
秀介は悲しげな表情で注意しておく。
「秀介お兄ちゃん、このテレビ、テレビ番組は見れなかったよ。どのチャンネルに変えても受信できませんって出た。これじゃあド○えもんもクレ○ンしんちゃんもちび○る子ちゃんもサ○エさんも妖怪○ッチも見れないよう」
理密等は秀介の袖をぐいぐい引っ張りながら不満そうに伝えた。
「そりゃあ放送用のアンテナ繋いでないからね。このテレビはDVD・ブルーレイ視聴専用なんだ。繋ぐのは大学合格してからって母さんと約束してる。今は深夜アニメ、涼太がDVDかブルーレイに録画して来たやつをこのテレビか、学校のパソコンで部活中に見てる状態だから。早く生で自由に見られるようになりたいよ」
秀介は苦笑いで切望する。
「それじゃ秀介お兄ちゃん、お勉強ますます頑張らなきゃいけないね」
「うっ、うん」
「シュウスケくんは、ビデオゲームはやらないの?」
エマが質問してくる。
「ビデオゲームって、テレビゲームのことだよね。高校に入ってからは全然やってないな」
「そっか。でもそれは良いことだよ。勉強のobstructionになっちゃうし」
「そうだね」
まあ、テレビゲームしてた時間が、アニメ雑誌やラノベを読む時間に取って代わっただけなんだけど……。
「シュウスケトン、チホルマリン今からお風呂に入るみたいだぜ」
化能蒸は秀介が他の事に意識が移っていたのをいいことにまたテレビをつけ、智帆のおウチ内部を観察していた。
「うわっ、こらこらっ、ダメだろ」
今度は智帆が脱衣場で服を脱いでいる様子が映し出されていた。智帆のブラジャー姿を一瞬見てしまった秀介は慌てて主電源を消し、化能蒸の頭をパシンッと叩く。
「いたたたっ、ひどいよシュウスケトン」
化能蒸が頭を押さえながらそう言った直後、
「秀介ぇー、ご飯よぉー。今日利川先生、職員会議で遅くなるからいらないって」
一階から母の叫ぶ声が聞こえてくる。
「分かったーっ。すぐ行くよ」
秀介は大声で返事をしたのち、
「智帆ちゃんがお風呂入ってるとこ、絶対覗いちゃダメだよ」
エマの方を向いてこう念を押し、部屋から出ていった。
「男の子からそんなこと注意されるって、strange feelingだよね」
エマはにこっと微笑む。
「これはチャーンス! チホルマリンの入浴シーン、思う存分覗くぞーっ」
化能蒸は嬉しそうに叫んでテレビをつけ、智帆のおウチの浴室を映し出した。
ちょうど智帆が風呂イスに腰掛け、長い髪の毛をシャンプーでこすっている最中だった。
「おう、チホルマリンはシャンプーハットを使ってるのかぁ。シャンプーハットの材質はEVA樹脂、シャンプーは弱酸性のものかな? 下の毛もけっこうもっさり生えてるじゃん。陽樹林から陰樹林への遷移段階だな。シュウスケトンはまだ草原から低木林だったぜ。アタシは裸地だけどな」
「智帆お姉ちゃん、おっぱい大きいね。体積量りたぁーい」
「ナイスバディだね、チホちゃん」
「羨ましいわぁ~」
理密等とエマと州湖良も画面に食い入る。智帆は自分の体をバスタオルで隠すことなく全裸姿だったのだ。
「皆さん、鬼の居ぬ間に洗濯はダメですよ」
皐月は困惑顔で注意した。
「まあいいじゃんサツキアズマ」
「出た! 日本のことわざ。ちなみに英語では、When the cat‘s away,the mice will play.だよ。でもシュウスケくんは鬼って感じが全くしないよ」
「そうだな。シュウスケトン、怒っても怖く無さそうだし」
「秀介君は、草食系男子っぽいわね」
「あたし、秀介お兄ちゃんの優しそうなところが大好きぃーっ!」
皐月以外の四人は智帆の入浴シーンを眺めながら、楽しそうに会話を弾ませる。
「皆さん、止めた方がいいですよ」
皐月は再度注意するも、
「大丈夫だってサツキアズマ。サツキアズマもいっしょに見ようぜ」
「皐月ちゃん、同性なのだからよろしいでしょ。ヒンドゥー教徒のガンジス川での沐浴に通じるものもあるし」
「今ちょうどボディーをゴシゴシrubbingしてるいいところなのに。このあとは湯船に浸かってくつろぐという日本ならではのシーンが楽しめるんだよ」
「皐月お姉ちゃん、眺めてると智帆お姉ちゃんといっしょにお風呂入ってる気分になれるよ」
四人はこう言い訳して尚も画面に集中する。
「ねえ、皆さん……今すぐ、そういうをこなことはやめなさい!」
皐月は眉をへの字に曲げて、古語も交えて少し強めに言った。
すると次の瞬間、
「ごっ、ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい皐月お姉ちゃん」
「ひいいいいいいい、すっ、すまねえサツキアズマ」
「申し訳ありませんでした、皐月ちゃん」
「アッ、アイムベリーソーリー。I‘m very afraid of you.Your face was much more fearful than a portrait of Beethoven.It equals namahage.」
四人はびくびく震えながら慌てて謝った。化能蒸はとっさにテレビの電源を消す。理密等は泣き出してしまった。皐月の顔が今しがた、般若面に急変化したのだ。しかも元の顔の大きさの五倍くらいまでふくれ上がっていた。皐月の顔はそれから瞬く間に何事も無かったかのように元の可愛らしいお顔へと戻った。
「わらわは、怒りがある程度上昇すると、こんな風になっちゃう設定になってるんです。きっと国語の学習内容に《能と狂言》があるせいだよぅ。秀介さんには絶対こんな醜い姿見られたくないです。穴があったら入りたいよぅ」
皐月はとても照れくさそうに、顔を真っ赤に火照らせながら呟いた。
「「「「…………」」」」
皐月の恐ろしい風貌を見てしまった四人は、すっかり反省したようである。
それから三〇分ほどのち、
「覗かなかった?」
夕食を取り、風呂にも入り終えた秀介が再び自室へ戻って来た。
「あの、秀介さん。この人達、みんなで智帆さんのお風呂、覗いてましたよ」
皐月は困惑顔で、四人を指し示しながら告げ口する。
「やっぱり……」
秀介はムスッとなった。
「シュウスケトン、すまんね。もう金輪際やらねえから。たとえウラン238の半減期くらい長い時間が経とうとも」
「アイムベリーソーリー、シュウスケくん。チホちゃんが湯船に浸かるシーン、どうしても見たくって」
「秀介君、もう二度とやらないから。わたくし、次こういうことしたら大石内蔵助のように切腹するか、ソクラテスのように毒杯を仰ぐわ」
「秀介お兄ちゃん、ごめんなさーい」
四人は秀介の方を向いて深々と頭を下げた。
「秀介さん、ご覧の通り皆さんは大いに反省しているので、許してあげて下さい」
皐月は秀介の目を見つめながら頼み込む。
「まっ、まあ、いいけど。今後は、絶対やらないでね」
秀介はこう忠告して学習机の前に立った。学習机に貼られた時間割表を眺めながら、秀介は明日行われる授業の教科書・副教材、ノートを通学鞄に詰めていく。整え終わったちょうどその時、秀介のスマホ着信音が鳴り響いた。今放送中の深夜アニメのED主題歌だった。電話がかかって来たのだ。
「智帆ちゃんからだ」
番号を確認すると秀介はこう呟いてベッドに腰掛け、通話アイコンをタップする。
「もしもし」
『あっ、秀介くん。ノートとプリントと、シュークリームといちご大福も届けてくれてありがとう。すごく嬉しかったよ♪』
「どういたしまして。体は、大丈夫?」
『うん、おウチ帰った後いっぱい休んだからもう平気。すっかり元気になったよ。あのね、秀介くん、すごく言い辛いんだけど……全部同じ色で書かれてるから、どこが要点なのか分かりにくいよ。字も、読みにくくて』
「ごめん、智帆ちゃん。俺の、書き方、良くなかったね」
秀介は電話越しにぺこぺこ謝る。
『いいの、いいの。秀介くんが、一生懸命取ってくれたことが良く分かるから。気にしないでね』
智帆は慰めてくれた。
「本当に、ごめんね。あっ、あと、連絡だけど、時間割変更で、明日も家庭科があるよ。六時限目に。帰りのホームルームで担任が言ってた」
『あの、そのことは家庭科の授業でも連絡してたよ。中間で抜けた分の埋め合わせって』
「えっ! そうなの?」
『秀介くん、聞いてなかったの?』
「うっ、うん。考え事してて」
『秀介くん、授業中は集中して先生のお話聞かなきゃダメだよ。テストに出る大事なポイントもお話ししてくれるからね』
「分かった。次からは気をつけるよ。じゃっ、じゃあ俺、そろそろ切るね」
『あっ、待って秀介くん』
「なっ、何?」
秀介はぴくっと反応した。
『あの……今度の土曜、明後日だけど、いっしょにショッピングに行こう』
「えええっ!」
智帆の突然の発言に、秀介はどきっとした。
『あの、今日の、お礼がしたくて……』
「あっ、そっ、そう。それじゃ、いっ、いいけど」
デートの誘いなんじゃないのか? これ。
秀介はやや躊躇う気持ちがありながらも、一応引き受けた。
『ありがとう。それじゃ、また明日ね、秀介くん』
「うっ、うん」
こうして秀介は電話を切った。
「シュウスケくん、今のが、ガールフレンドのチホちゃんですね? How long have you been dating with her?」
「うわっ!!」
秀介はかなり驚く。すぐ横にエマがいたからだ。現在完了進行形で質問もして来た。
「ガールフレンドじゃなくて、おっ、幼馴染だ」
「幼馴染、つまりChildhood friendなんですか! Wow! サツキちゃんの予想通りだね。ねえ、シュウスケくん、ワタシはチホと知り合って十二年になります。を英語で言ってみて。ヒント、現在完了形を使うの。中学生の頃にも習った単元でしょ?」
「えっと……アッ、アイハブ、ビーン、ノウン、チホ、トウェルヴ、イヤー」
「ノーノー、ダメだよ。You are wrong.I have been known Chiho for twelve years.よ。リピートアフタミー」
「アッ、アイハブビーンノウンチホ、フォアトウェルヴイヤーズ」
「Good!」
秀介が棒読み英語で言ってみると、エマは指でOKサインをとった。
「あっ、どっ、どうも」
「あのぅ、幼馴染ということは、You have ever taken a bath with her,haven‘t you? いっしょにお風呂に入ったこともありますよね?」
エマは付加疑問文を用いてさらに質問してくる。
「ないよ」
秀介は俯き加減で言う。
「怪しい」
エマは顔をぐぐっと近づけてくる。
「あっ、あのさ、州湖良ちゃん。昨日、地図帳から民族衣装を取り出してたけど、他の教材からも、写真や図に載ってるやつを取り出せるの?」
秀介は無視して州湖良の方に話しかけた。
「もちろん出来るわよ。ちょっと教科書借りるね」
そう自信たっぷりに言うと州湖良は、化学基礎の教科書カラー口絵を開いて手を突っ込んだ。そして中から、金の延べ
「うわっ、スコランゲルハンス島すげえ。本物だ」
「州湖良お姉ちゃんすごーい!」
「スコラちゃん、マジシャンみたーい」
化能蒸、理密等、エマはパチパチ大きく拍手する。
「あれ? でも中の写真はそのままだ」
秀介は不思議そうにその教科書を見つめる。
「わたくしが取り出したものは、コピーされたものだからよ。何度でも複製出来るの。続いて英語の教科書から、登場人物のボブ君を取り出してみせましょう」
州湖良は得意げな表情で、今度は英文読解用の教科書に手を突っ込む。
数秒後、
「Ouch!」
中から男性の叫び声がした。
次の瞬間、クリーム色の髪の毛が飛び出て来た。
州湖良がさらに引っ張り上げると顔、首、胴体、足も姿を現す。
州湖良は本当にボブ(Bob)という登場人物を取り出して来たのだ。
「What‘s happen? Where’s here? Why am I here?」
引っ張り出されたボブは周囲をきょろきょろ見渡す。彼はとてもびっくりしている様子で、かなり戸惑ってもいた。
「やっぱ英語か」
秀介は冷静に突っ込む。彼はあの光景を先に目にしているので、もはやこんなことが起こってもあまり驚かなかった。
「大丈夫だよ。ボブはprobablyこのテキストの範囲を超える用法は使用してこないから。英語の得意な日本人高校生よりもボキャブラリーは少ないと思うよ」
エマは推察する。
「Who are you?」
ボブは教材キャラ達と、秀介のいる方に目を向ける。
「やっほー、ボブタジエン。アタシ、金星化能蒸というのだ。英語だとI am Kinboshi Genome.かな?」
「ボブおじちゃん、はじめまして。あたしの名前は三分一理密等です。小学四年生、九歳です。趣味はお絵描き、特に好きな食べ物はトーラス構造になってるドーナッツと、回転楕円体に近いお饅頭です」
化能蒸と理密等は嬉しそうに自己紹介した。
「リミットちゃん、ボブは老けて見えるけど、ワタシやシュウスケくんと同級生ってことになってるよ。おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んであげた方がベターかも」
エマは笑顔で伝える。
「そっか。ごめんね、ボブお兄ちゃん」
「Oh! very cuty girl! I‘m very happy to meet you.」
上背一八〇センチくらいあるボブは中腰姿勢で理密等の顔を眺めながらそう叫び、目を大きく開いた。
「エマお姉ちゃん、ボブお兄ちゃんさっき何って言ったの?」
理密等は興味津々に尋ねる。
「とてもかわいい女の子だね、キミと会えてボクはとても幸せだよ。だって」
エマはにこにこしながら教えてあげた。
「わぁーっ、嬉しいなーっ! あたしも幸せーっ♪」
理密等は満面の笑みを浮かべる。
「Limit,I fell in love with you at first sight.Shall we dance and s○x?」
ボブはこう告白すると突然、理密等にガバッと抱きついた。
「……いっ、いやあああっ。こっ、怖ぁい、このおじちゃん」
押し込まれ壁際に追い込まれた理密等は途端に怯え出す。
ボブにほっぺたをぐりぐり引っ付けられて、さらには耳元にフゥーッと息を吹きかけられたのだ。
「おい、何してるんだよ」
「ボブ君、理密等ちゃん嫌がってるからやめなさい!」
秀介と州湖良は慌ててボブの背後に詰め寄る。
「Get out of the way!」
「きゃぁんっ!」
「いてっ、強いな、こいつ」
瞬間、ボブに蹴り飛ばされてしまった。州湖良はしりもちをついたさい、けっこう可愛らしい悲鳴を上げた。
「Bob,Stop body contact to Limit at once!」
エマは強い口調で注意した。
「No way!」
けれどもボブは聞き耳持たず。
「In place of Limit,Hug me!」
「I’m not interested in middle age‘s woman like you at all.You are,so to speak,ugly fat pig.」
ボブは腐った生魚でも見るかのような目つきで、命令して来たエマに向かって言い放つ。
「まあ、なんですってぇぇぇっ! 失礼ね、このロリコン」
エマはぷくぅっとふくれる。
「今ボブ、何って言ったの? 早口で分かりにくかった」
秀介が質問する。
「おまえのような年増には全く興味ないね。おまえはいわば、醜い太った豚だ、だって。I‘m pissed off! I‘m as old as you! My birthday may be later than you! シュウスケくん、be interested inは~に興味があるっていう重要英熟語だから、しっかり覚えておいてね。否定文にはnotよ。これを覚えたらハ○ヒの名台詞が英語で言えるよ。あともう二つ重要英熟語、not~at allは全く~ない。so to speakはいわば、例えて言うならっていう意味だよ」
エマはボブを睨み付けながらも、ちゃっかり秀介に英熟語を教えてあげる。
「I‘ll marry Limit in the near future.If the sun were to rise in the west,I wouldn’t change my mind.」
ボブはスキンシップをやめようとはしない。
「やめてやめてやめてぇぇぇぇぇぇぇ~」
理密等は大声で泣き叫ぶ。
「ボクは近い将来、リミットと結婚するんだ。仮に太陽が西から昇っても、ボクは決心を変えないよ。ですってぇぇぇーっ。Pervet! Fuck you! Peice of shit! You are scum! シュウスケくん、marryは前置詞toやwithを付けずに目的語を取るよ。marryだけで~と結婚するっていう意味になるの。あとIf主語were to動詞の原形で、もし仮に~したら……だろうという意味だよ。この表現はIf主語should動詞の原形よりも、さらに実現可能性の低いことについての仮定に使われるの」
エマの怒りはさらに増した。けれどもボブの会話中に出て来た重要英語イディオムはしっかり解説することを忘れない。
「あっ、あのうボブさん。理密等さんとても怖がっているので……」
皐月も彼の暴挙を止めさせようと説得に加わる。
「Really? Limit,please don‘t be afraid to me.If you marry me,I‘ll buy anything you want to.」
ボブは一応、日本語も理解出来ているようだった。彼は理密等に優しく微笑みかける。
「ボブおじちゃん、早くやめてぇぇぇぇぇぇぇーっ」
しかし逆効果。理密等はますます大泣きしてしまった。
「Why?」
ボブはハハハッと陽気に笑いながら問いかけ、再び理密等に頬を引っ付ける。
「ロリコンのボブタジエン、リミットロコフォアいじめちゃダメだぞ」
化能蒸はこう注意すると直径十センチくらいの鉄球に変身し、ボブの脳天にゴンッと直撃させた。
「Ouch!」
ボブに衝撃が走る。両目が☆になった。
「引っ込め! 引っ込め!」
化能蒸は元の姿に戻ると英語の教科書を素早く拾い上げ彼のいたページを開く。そしてボブの脳天に押し付け、中へと戻してあげた。
これにてボブのZ軸成分が0と化し、二次元座標への変換が完了した。
「あぁん、すごく怖かったよぉぉぉ~。ありがとう、化能蒸お姉ちゃぁぁぁーん」
理密等はえんえん泣きながら礼を言い、化能蒸にぎゅぅっとしがみ付く。
「どういたしまして。ボブタジエンは有害なホモサピエンスだったね。アタシも対象外みたいだったし。ボブタジエンの質量を全てエネルギーに変換した方よかったかな? 質量×光速度二乗で、とんでもないエネルギーになっちゃうから不可能だけどね」
化能蒸はにこにこしながら物理学的に説明する。
「ボブって子、何がBob is the kindest boy in our class.よ。教科書の本文と全然違うじゃない。To tell the truth,Bob is not only Lolita complex,but also crazy.」
エマは、まだぷっくりふくれていた。
「ボブ君は、肉食系男子ね」
州湖良はぽつりと呟く。
「肉食系男子って、ティラノサウルスみたいだな。犬歯も発達してるのかな?」
化能蒸はすかさず突っ込みを入れた。
「ワタシ、肉食系の男の子は苦手だな。シュウスケくんみたいな草食系がいい」
エマはそう告げて、秀介の手をぎゅっと握り締めた。
「えっ、あっ、あの」
秀介の頬は酸性を示すリトマス試験紙のごとく赤くなる。
「シュウスケくん、照れてる。かわいい」
エマはにこっと微笑みかけた。
「そっ、そんなことないって」
秀介は必死に否定しようとする。
「秀介君、しぐさでバレバレよ。あの、英語の教科書にもう一人出てくるイギリス人男の子キャラ、トム君も引っ張り出してみようかしら? handsome boyって書かれてあるから」
州湖良は微笑みながら問いかける。
「州湖良お姉ちゃん、もう止めて! また変なおじちゃんだったら嫌だよぅ」
理密等はげんなりとした表情で伝えた。
「この教科書に出てくる女の子、ワタシと同じ名前のEmmaと、メアリーとスージーはきっとボブに悲しい目に遭わされてるわ」
エマはため息まじりに告げる。
「ボブ君も二次元平面上では本文通りのいい子かもしれないわよ。三次元空間上の女の子はオタクを嫌う酷い子が多いのと同じようにね。さあ秀介君、今からは自宅学習の時間よ」
州湖良はそう告げると、秀介の後ろ首襟をガシッとつかんだ。
「えっ、いっ、今から?」
「当然よ! 葵君曰く高校生の本分は学業、大勢の友人同士で海や遊園地やカラオケボックスなんかで遊び回って恋愛なんかもしちゃってるリア充共は爆ぜろだからね」
戸惑う秀介に、州湖良はきりっとした表情で言う。
「秀介お兄ちゃん、勉強を一日サボったら、元の学力を取り戻すのに一週間かかるよ」
理密等は笑顔で忠告する。
「さあシュウスケくん、シッダウン!」
「わわわ」
秀介はエマの手によって無理やり学習机の椅子に座らされた。
「まずは学校で出されたホームワークからよ」
「宿題は、今日は出てないよ」
「秀介君は、宿題が出てなかったら家庭学習はしなくてもいいと思ってるの?」
「そりゃそうだろ」
州湖良の質問に、秀介は笑いながら答えた。
次の瞬間、パチーンッ! と乾いた音が鳴り響く。
州湖良が秀介のほっぺたを思いっ切り引っ叩いたのだ。
「……なっ、何するの?」
秀介は突然のことに動揺していた。徐々に泣き出しそうな表情へと変わっていく。
「愛の鞭よ」
州湖良はきりっとした表情で伝えた。
「シュウスケくん、高校生はね、ホームワーク無くても授業の予習復習するのが当たり前だよ。ワタシ達、今日からシュウスケくんの成績をアップさせるために、シビアに学習指導していくからね。怠けたら体罰もあるよ♪」
エマはにこやかな表情でさらっと告げた。
「えっ……」
秀介はびくっとなる。
「学校では体罰は禁止されてるようだけど、わたくし達は容赦なくやるわよ」
「なんてったってワタシ達は非実在だから、シュウスケくんが再起不能になるまでボコボコにしても、killしても罪に問われないもんね」
エマはにこりと笑った。
「恐ろしいこと言うなよ」
秀介はさらに表情が強張り恐怖心が増した。
「真面目にやれば体罰はしないから。秀介君、姿勢を正しなさいっ!」
「ちゃんと真面目にやらないと、坊主頭にしちゃうぞ、シュウスケくん」
「いっ、いててて」
州湖良に両サイドからほっぺたをつねられ、エマに髪の毛を引っ張られながらくどくど説教され、秀介の恐怖心はさらに高まった。
「シュウスケくん、まずはデスクの上をちゃんと片付けようね。ワタシがやってあげようとは思ったけど、それじゃあシュウスケくんのためにならないからね♪」
エマはにこにこ顔で注意する。
「わっ、分かったよ」
秀介はびくびくしながら素早く手を動かし、散らばっていた教科書、プリント類などを集め、隅の方へ寄せてスペースを設けた。
「それじゃ秀介お兄ちゃん、数学の特訓からやろう」
理密等は自身が入っていた数学のテキストを学習机の上にポンッと置く。
「でっ、でも、そのテキストは白紙じゃ……」
「大丈夫だよ。捲ってみて」
「うっ、うん」
秀介は不思議に思いながらも、理密等に言われた通りにしてみる。
「あれ? 問題文が、ちゃんと載ってる」
秀介は現れた図や数式を驚き顔で凝視する。
「秀介お兄ちゃん、シャーペン持ってさっさと解いて。標準時間は五分だよ」
理密等はそれを秀介に手渡した。
「わっ、分かった」
秀介はそこにある問題を解き始める。整式の乗法に関するものだった。
「秀介お兄ちゃん、答は合ってるけど解くのおそーい! もう一回やり直し」
理密等が開かれているページに手をかざすと、秀介がさっき書き写した文字が跡形も無く消えてしまった。さらに、問題文が一新され数値まで変更された。
「こんな能力も使えるのか」
秀介はあっと驚く。
「問題文は自在に操れるよ。すごいでしょ? エマお姉ちゃんも州湖良お姉ちゃんも皐月お姉ちゃんも化能蒸お姉ちゃんもみんな同じ能力が使えるよ。テキストが最初白紙なのは、受講生の学力に合わせて演習問題のレベルを調整するためだよ」
理密等はてへっと笑う。
「そっ、そうなんだ」
「秀介お兄ちゃん、感心してる暇があったら、さっさと問題解き始めて」
「わっ、分かった」
秀介は理密等に命令されるがまま、同じ単元に関する問題を解いていく。
「さっきよりは早くなったけどまだ遅いなぁ。もっと頑張ってね、秀介お兄ちゃん。次は単元変えるね」
理密等は手をかざす。またも秀介の書いた文字がふっと消え、問題文が一新された。
秀介は続いて、一次不等式と因数分解に関する問題を解き始める。
数分後、
「時間オーバー、それに、計算間違いも多いよ。次はこの単元の問題解いてね」
理密等がまたまた注意してくる。ぷっくりふくれて不機嫌そうだった。
「分かった。今度は順列・組み合わせかぁ。その分野は特に苦手なんだよなぁ」
秀介は一問目の黒玉5個と白玉3個を一列に並べる時、白玉が隣り合わないような並べ方は何通りあるかという問題から悩んでしまう。
「秀介お兄ちゃん、手を休めちゃダメーッ! 順列と組み合わせは習ったばかりでしょ?」
「あいたぁーっ!」
理密等にコンパスの針でほっぺたをプツッと突かれてしまった。
「秀介君は、中学生の頃はテストの成績良かったみたいだけど、どんな勉強方法をしてたのかな? 正直に答えなさい」
「その時は、テスト前だけ、一夜漬けみたいな感じで、やってました。それでも、けっこう良い点取れたので」
州湖良から唐突にされた質問に、秀介はびくびく怯えながら答える。
「秀介君、高校のテストではそんなやり方じゃ通用しないってことは実感したでしょ? 一夜漬けで身に付けた知識は、そのほとんどがすぐに忘れちゃうの。本当の実力は身に付いてないってことを肝に銘じておきなさい!」
「わっ、分かりましたぁぁぁーっ」
厳しく注意された秀介は体罰されないようにと、必死に思考回路を巡らせシャープペンシルを動かし問題に取り組む。
全部で十題あるうち八題目を解いている途中、
「あのさ、俺、トイレ、行きたくなったんだけど」
秀介は椅子に座ったまま足をくねくねさせ始めた。
「州湖良お姉ちゃん、秀介お兄ちゃんがおしっこだって」
理密等は州湖良の袖を引っ張りながら伝える。
「ダメ! 認めません。講義中のトイレ行きたいは、逃げるための常套文句ですから」
州湖良は厳しい表情で告げる。
「そっ、そんな……」
秀介の表情は強張った。
「これにすれば大丈夫よ」
州湖良はにこっと笑い、現代社会の資料集に手を突っ込む。そして環境問題に関する項目が載っているページからペットボトルを取り出し、秀介の目の前にかざした。
「でっ、出来るわけないだろ」
秀介は当然のように拒否した。
「シュウスケトン、ズボンのチャック開けるね。あっ、パジャマだからついてないのか。直接脱がしちゃえーっ」
化能蒸は秀介の側により、ズボンを引っ張ろうとする。
「ワタシも手伝うよ」
エマも加担してくる。
「やっ、やめてくれ」
秀介は全身をぶんぶん振り動かし必死に抵抗する。
「シュウスケくん、このままじゃおもらししちゃうよ」
「ちなみにペットボトルのペットとは、ポリエチレンテレフタレートのことなのだ。エチレングリコールとテレフタル酸との脱水縮合により作られるのだ。有機化学分野で習うぜ」
けれどもエマと化能蒸の方が優勢だ。
「あっ、あのう、州湖良さん。厠には、行かせてあげた方がいいのではないでしょうか?」
「州湖良お姉ちゃん、秀介お兄ちゃんがかわいそうだよ」
皐月と理密等は説得する。
「……それじゃ、特別に許可するわね」
州湖良は数秒悩んだ後、こう告げた。皐月にあの姿に変身されては困る、と感じての判断であった。
「よっ、よかったぁ~」
秀介はエマと化能蒸から解放されるとすぐさまガバッと立ち上がり、一階にあるトイレへ向かって走っていった。
本当に、漏れるとこだったよ。
秀介がトイレの扉を閉めようとした。その時、
「Wait!」
「わたくしもお供しまーす♪」
エマと州湖良に阻止され、中に入り込まれてしまった。
「なんでついて来たんだよ? 父さんと母さんに見つかったら面倒なことになるだろ」
秀介は当然のように困惑する。
「先輩として後輩の面倒を見るのは当然なので」
州湖良はさらりと告げる。
「えー。やめてくれよ」
「秀介君はわたくしとエマちゃんと、家庭学習時間中はいつもいっしょよ。そばに付いてなきゃいけないの」
「スコラちゃんはoldestだから、監督責任者なの」
秀介の要求に聞き耳持たず、州湖良とエマは真剣な眼差しで伝える。
「あのさぁ、出て行ってくれないか?」
秀介は足をくねらせながら、悲しげな表情でもう一度お願いする。
「嫌よ。だってそうすると、秀介君絶対逃げ出すでしょう?」
州湖良は困惑顔で問い詰める。
「逃げないって」
「信用出来ないな」
「シュウスケくんのお勉強を放棄させてしまうと、学習教材として失格だから」
エマは悲しげな表情を浮かべてぽつりと呟く。責任を強く感じているようだった。
「……もっ、もう、限界だぁ~」
とうとう耐え切れなくなった秀介はズボンとトランクスをいっしょに脱ぎ下ろし、男の象徴を露出させると便器に狙いを定めた。
「秀介君の、ちっちゃいしほとんど生えてないし、高校生のものに見えないわ」
「みっ、見るなって」
州湖良に覗き込まれ、くすっと笑われた。
「ごめん、ごめん。ちょっと気になっちゃって」
「シュウスケくんの幼馴染の、チホちゃんの方がアンダーヘアー濃かったよ。女の子に負けて悔しくないの?」
「そういうのを競って、どうするんだよ?」
エマにも覗き込まれ、秀介はかなり不愉快な気分でいよいよ用を足し始めた。
「秀介お兄ちゃんのおしっこ、二次関数のグラフみたいにきれいな放物線を描いてるね」
「うっ、うわあああああっ!」
いきなり真横から、いつの間にか入って来た理密等に覗かれ秀介はびくーっと反応する。
「ひゃぁんっ!」
狙いが外れ、理密等のお顔にビチャッと引っ掛けてしまった。
「ごっ、ごめん理密等ちゃん」
秀介は慌てて大変申し訳なさそうに謝罪する。
「いいの、いいの。あたし、今朝秀介お兄ちゃんにいっぱいかけちゃったし。これでおあいこになるね」
理密等はてへっと笑う。
「目には目を、歯には歯を、のハンムラビ法典みたいね」
州湖良はすかさず笑顔で突っ込んだ。
「……」
秀介は顔を真っ赤にさせながら残りの分も出し、なんとか用を足し終えた。レバーを引いて水をジャーッと流す。
「俺、手を洗ってくるから。理密等ちゃんも、お顔洗った方がいいよ」
「気を遣ってくれてありがとう。秀介お兄ちゃん」
理密等は嬉しそうににっこり微笑む。
「三人とも、少しだけここで待っててね」
秀介は注意を促した。
両親にバレたらかなり厄介なことになると感じたからだ。
洗面所は幸い、トイレのすぐ隣のお部屋にある。移動距離はごくわずかだ。
母さんと父さんも、今いないな。
トイレから廊下に出た秀介は注意深く、周囲をきょろきょろと見渡し洗面所も確認した。
安全確認が出来るとトイレに戻り、理密等の手を引いて連れ出す。
そしてすばやく洗面所へ誘導した。
「早く顔洗い済ませてね」
「うん!」
理密等は水道の蛇口を捻り、水を出すと両手に掬ってお顔にパシャッとかける。
「水冷たくて気持ちいい♪」
この作業をさらに二回繰り返し無事、顔を洗い終えた。
「お顔拭いてあげるね」
秀介は手拭いを理密等のお顔に押し当て、なでるようにしてあげた。
「ありがとう、秀介お兄ちゃん。優しいね」
「どういたしまして。あの、理密等ちゃん。声が大きいよ。見つからないように部屋に戻ってね」
「うん」
秀介からの指示に理密等は小声でそう答えて、足音を立てないように廊下を歩き、一段五秒くらいのペースでゆっくりと階段を上がっていく。
その時、
「あら秀介」
「かっ、母さぁん!?」
リビングの方から母が突然現れ、秀介はびくーっ! と反応した。
「どうしたの? 秀介」
母の方も少しびっくりしていた。
「何でもない。いきなり現れたから驚いただけ。母さんは、何しに来たの?」
「利川先生にちょっと用事があるのよ」
母はそう言いながら秀介の前を通り過ぎ、階段の方へ近づいていった。
えっ!
秀介は焦りの表情を浮かべる。
さらに間が悪いことに、
トストストス。
父が二階の廊下を歩く音まで聞こえて来た。
ひっ、非常にまずいぞ、これは。なんでこんなあまりにタイミングよく。
秀介の心拍数は急上昇する。
どっ、どうしよう。秀介お兄ちゃんのお父さんとお母さんが両側からあたしという極限値に近づいてくる。はさみうちになっちゃうよぅ。
理密等も予想外の事態にかなり焦っていた。
こうなったら――。
ふと、理密等はこの窮地を乗り切るグッドアイディアが浮かんだ。すぐに実践する。
「利川先生、ちょっとパソコン借りるわね」
「うん。分かった」
あっ、あれ? 見つからなかったのか?
秀介は両親が何事も無かったかのように階段ですれ違ったことに、当然のように不思議がる。
父さん、トイレには、まだ行くなよ。
秀介の願いが届いたのか、父はリビングへ。
ほどなくしてテレビの音声が聞こえて来た。
よぉし、父さんしばらく動かないな。
そう確信した秀介は階段を見に行った。
「秀介お兄ちゃん、あたしもう少しで見つかるところだったよ」
「うわっ!」
秀介は思わず仰け反る。階段から転げ落ちそうになった。
突如、壁の中から理密等が姿をにゅっと現したのだ。
「そんな所に隠れてたのか」
「さっきは壁に複素数平面を作って隠れてたの。そこは普通の人には見えない、観測されない平面なの。だから秀介お兄ちゃんのお母さんにもお父さんにも、あたしの存在が認識されなかったの」
理密等は満面の笑みで嬉しそうに伝える。
「なんか、よく分からないけど、とにかく見つからなくて良かったね」
「うん! じゃあ秀介お兄ちゃん。戻っておくね」
理密等が自室に戻ったことが確認出来、
「セェーフ」
とりあえず一安心した秀介は、エマと州湖良を迎えに行くため再びトイレの方へ。
「あっ、あの」
ドアノブに手をかけ、扉を開けた。その瞬間、
「Oh! もう、シュウスケくん。ノックくらいしてね。Etiquetteよ」
エマに叫ばれた。
「あっ、ごっ、ごめんなさーっい!」
秀介は慌てて謝り扉を閉めた。そして自分の部屋へと戻っていく。エマが便座に腰掛けて気持ち良さそうに用を足している最中に出くわしてしまったのだ。
エマが穿いていたアルファベット柄のショーツも秀介の目にしっかりと焼き付いてしまった。
やってしまった。でも、悪いのはエマちゃんの方だよ……あとが、怖い。
自分の非は認めようとしない秀介が自室の扉を開くと、残る三人は秀介の所有するマンガやラノベを読み漁ったり、携帯ゲーム機で遊んだりしていた。
「あっ、あのう、もう一度言うけど、あんまり俺の部屋を荒らさないでね」
秀介が優しく注意すると、
「ごめんなさい秀介さん。すぐに元の位置へ戻します」
「了解、シュウスケトン」
「秀介お兄ちゃん、すぐお片づけするね」
三人は快く応じてくれた。
「さてと、問題の続きやらないと」
秀介が椅子に座り、シャープペンシルを手に持った。
その時、
「シュウスケくぅーん」
「もう、秀介君ったら。シャイな男の子ね」
エマと州湖良の声がするのとほぼ同時に、部屋の扉がガチャっと開かれた。
「ごっ、ごめんなさーっい」
秀介は反射的に謝る。
「シュウスケくん、I don‘t mind at all that I was peeped by you.」
エマは頬をピンク色に染めながら自分の気持ちを英語で伝える。
「わたくしもエマちゃんのあとにやったよ。秀介君、なんで逃げたのかな? 男の子なら、こういうシチュエーション大喜びすると思ったのに」
州湖良は不思議そうに尋ねて来た。
「エロゲーの世界じゃないんだから」
秀介は困惑顔ですかさず突っ込む。
「シュウスケトン、アタシ以外は普通に排泄行為をするからね。この四名は三次元空間上では現実の女の子と生物学的特徴が同じだから。アタシの場合は、飲食物は体内でエネルギーに変換されるからする必要ないけどな」
化能蒸はにこにこ顔で自慢げに語る。
「ド○えもんかよ」
秀介はまたもすかさず突っ込んだ。
「まあでもアタシでも月一、数日に渡って血液が子宮から体外に排出される設定になってるのだけどね。三次元世界の人間の女の子で言うとアノ日のことだよ。シュウスケトン、このことを正式名称で何と言うかもちろん知ってるよね? 保健の授業とかでとっくに習ったでしょ?」
化能蒸は少し照れくさそうに訊く。
「もうその話はいいよ」
秀介は俯き加減に主張した。
「秀介お兄ちゃん困ってるから、数学のお話に戻るね。あたし、秀介お兄ちゃんが学校にいる間、数学の中間テストの問題も拝見したけど、簡単過ぎだよ。問題集から数値もそのまま出されてるのが三分の一くらいあった。こんなので九〇点百点取ったって意味がないよ。問題を作った先生も手を抜き過ぎ。採点で楽をしようと思ったんだね」
「えっ、俺にはかなり難しく感じたんだけど」
理密等の不満そうな指摘を秀介は即反論する。
「それは秀介お兄ちゃんに基礎学力があまりついてないからだよ。模試や入試本番では、今まで見たこともないような問題が出るの。数値変えただけで解けなくなるようではダメだよ!」
理密等はむすっとした表情で秀介を見上げながら苦言を呈した。
「葵君も解法テクニックに頼り過ぎて基礎をおろそかにしちゃいけない。本質を理解すべき。例えば数学なら公式の丸暗記ではなく導き方から理解せよ、歴史なら年号や用語の丸暗記ではなく出来事が起きた背景、経緯をストーリーとして理解せよ。超難問も基礎知識の積み重ねで解けるようになる。分からなくなったら初心に帰れ。反復練習が大事って持論の持ち主よ」
州湖良から得意げに伝えられ、
「あのおっさん、変態だけど東大卒だけに言ってることは立派だな」
秀介の小1女児おじさんに対する尊敬度はますます上がったようだ。
「シュウスケトンは理科の基礎力もあまりついてないみたいだね。化学と生物は科目名通り基礎的な問題ばかりで、問題集からのコピーが目立ってたけどシュウスケトンの偏差値は化学基礎が四三.八、生物基礎が四八.六しかねえし」
「古典も、ワークからそのまま出されている問題が多く感じました。学年平均も七四点もありますし」
「世界史Aは本当に酷かったわ。ワークからそっくりそのままので大半を締められてるもの。平均も八一点って。秀介君は八六点取ってるけど、学年順位は一二五位だし。得意科目みたいだけど、これじゃダメね」
化能蒸、皐月、州湖良の三人は秀介の個人成績表を眺めるとため息をついた。
「確かに世界史百点いっぱいいたなぁ。あの、もう十一時過ぎてるし、そろそろ終わりに」
秀介は目覚まし時計の針を眺める。かなり眠くなって来ていた。
「ダメだよ! シュウスケくん。まだ今日の分ほとんどやってないよ。高校一年生は少なくとも三時間はやらなきゃ」
エマは不機嫌そうに厳しく注意する。
「シュウスケトン、ほら見て。チホルマリンも家庭学習頑張ってるぜ」
化能蒸に言われ、秀介はテレビモニターに目を向ける。
智帆が学習机に向かって、一生懸命英語の演習問題を解いている姿が映し出されていた。
「ほんとだ」
秀介は食い入るように見つめる。普段よく浮かべるのほほんとした表情とは違い、真剣な表情をしていた。
「こちらは哲英君の様子よ」
州湖良がリモコンを操作すると、哲英のおウチ内部が映し出された。
彼もまた、机に向かって数学の演習問題を解いていた。
「哲英も、天才かと思いきや、やっぱ陰で努力してるんだな」
秀介は感心しながら呟く。
「その通りです。哲英さんも、智帆さんも、長年刻苦勉励し続けて、あれだけの高い学力を身に付けられたんですよ。テスト前だけ勉強すればいい、なんていう秀介さんのような浅はかな意識の持ち様とは違うのです。真の学力というのは、一夜漬けで身に付くようなものでは到底ありません。秀介さんは、中学生の頃や高校の一学期に一夜漬けで覚えた内容を、今もう一度やって完璧に解けますか?」
「……それは、自信ないな」
皐月からの質問に、秀介は俯き加減で答えた。
「そうでしょう秀介さん。楽をして成績が上がるなんてそんな甘い考えではいけませんよ」
「学問に王道なしは、ユークリッドの有名な言葉だよ、秀介お兄ちゃん」
理密等は得意げに教える。
「さあ、シュウスケくん。次は英語を頑張ろう。シュウスケくん一番の苦手科目みたいだから、重点的にやろうね」
「分かった!」
秀介は急にやる気がみなぎって来た。
椅子に座ると、さっそくエマが調節した演習問題を解いていく。
「シュウスケくん、スペル間違えてる!」
「いったたたぁ、ほっ、ほっぺたそんなに強くつねらないで」
時折エマから体罰を受けながら。
☆
まもなく日付が変わる頃、
「秀介お兄ちゃん、あたし、もう眠いから、寝るね」
「わらわも眠いので寝ます。子の刻以降に起きているのは辛いです。おやすみなさい」
「アタシも眠くなって来たぜ。夜行性じゃないからな。シュウスケトン、あとは頑張ってね」
睡魔に負けた理密等、皐月、化能蒸は自分のテキストの中へと飛び込み就寝。
0時二〇分頃。
「秀介君、夏にぴったりの夜食よ。元気が出るわよ」
英語の特訓中、州湖良が学習机の上に、あるメニューを置いてくれた。
タイ名物、トムヤムクンだった。
「ありがとう州湖良ちゃん。これも地図帳から取り出したんだね」
「その通りよ。食べ物だって取り出せるの」
「シュウスケくん、これ食べてLet‘s breathe for a moment.」
「じゃあ、いただきます」
秀介は一旦シャーペンを置き、お皿に浸されてあったレンゲを手に取る。そしてお汁と具をいっしょに掬って口に運び入れた。
「かっ、からぁ」
瞬間、舌をぺろりと出す。
「秀介君、辛いのは苦手?」
「うん」
「ごめんね。ちょっと待ってて」
州湖良はトムヤムクンを地図帳に戻し、代わりにタイ名物のデザートを取り出した。
「ありがとう」
机の上に置かれると、秀介はすぐさまスプーンでお口に運んでいく。
「美味しい?」
エマがにこやかな表情で尋ねると、
「うん。ココナッツ味がけっこう甘くて」
秀介は笑みを浮かべて答えた。彼は美味しそうに全てを平らげた。
「さあシュウスケくん、もう少しだけ頑張ろう。毎日コツコツ努力すれば、一時凌ぎではない本当の学力が身に付くからね」
エマはウィンクする。
「分かったよ、エマちゃん。俺、一生懸命頑張るから」
秀介は再びシャーペンを手に取り、英文読解の演習問題を解いていく。
英語の今日の分を学習し終えた頃には午前一時過ぎ、秀介はようやく寝させてもらえた。
まさか、体罰されるなんて思いもしなかったよ。叩かれたところがズキズキする。物理的な暴力が振るわれない分、烈學館の方がマシなんじゃないのか? でも、優しくも励ましてもくれたし、それに、顔もしぐさも声もすごく萌えるし、これからもあの子達に教えてもらいたいなって感じたな。
布団の中で、秀介はそんなちょっぴりMっ気が芽生えて来た。彼が眠り付いてから数分のち、
「秀介さん、傷を治しておきますね」
眼鏡を外した皐月が国語のテキストから飛び出て来て、秀介に向かって手をかざした。
すると秀介の顔や腕、下腹部、足に出来た痣が瞬く間に消えていったのだ。
「秀介さんの寝顔、いとらうたしです。わらわは体罰に加担しないので、ご安心下さいね。おやすみなさい」
皐月は小声で伝えて小さくあくびをし、自分のテキストへと戻っていった。
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