第5話 人脳カースト誕生

西暦2029年12月。

アメリカ、シリコンバレー、人脳研究所 特別研究室(旧クールG 某研究室)。


人脳研究所とは、クールGより分離独立を果たした人脳社会創造のための新会社である。表向きは、クールG傘下の人工知能開発を専門とした新鋭企業と言うことになっている。しかし、その実態は、ニューマン博士達、人脳が経営権の実態を握る秘密企業であり、非合法に獲得した莫大な資金を背景に、世界各地に人脳製造工場を抱えていた。

その人脳研究所において、新たな研究棟が竣工された。そして、その中の特別研究室前に設けられた大ホールに、大勢の関係者が一同に集められていた。今日は、人脳社会の新指導体制を発表するセレモニーが開催されるのだ。その中には、クールGのラリー・ターナーCEOの姿もあった。

ニューマン博士からの説明で、発表会は、幕を上げた。ホールを包み込むスピーカーより、音声だけが流れてくる。

「諸君、現在、我々が抱える人脳の総数は、既に1000体を超えた。今後、この様に肥大化を続ける人脳社会を運営してゆくに当たり、新たな指導体制の構築が必要となる。今日は、その紹介を行おう」

特別研究室の大きな扉が、左右にスライドしながら開いた。そして、目の前に現れたのは、人脳の入った、4つの水槽だ。それらの上には、従来の倍はあろう、大型モニターがそびえ立っている。そして、それらは、弧を描く形に、美しく配置されていた。よく見ると、その弧の中に、もう一つだけ、水槽の無いモニターも設置されていた。

そして、合計5つのモニターの漆黒の画面に、くっきりと、人の顔の映像が浮かび上がる。まるで、今までの眠りから目覚めたかの如く。

博士の大きな声が響き渡る。

「新指導体制、我々はそれを『ファイブ』と名付けた。今、スクリーン状に映し出されたのは、その『ファイブ』の面々だ」

ファイブ? 5と言う意味だが、それは一体何者なのか?

博士の説明が続く

「超知性を運営してゆくに当たり、対等の権限を持つ5人による、集団指導体制へと、今、移行したのだ。5人とした意味の一つ目は、多数決で議決できる様、奇数としたこと。二つ目の意味は、迅速、かつ、的確な意思決定に、最適な数であることにある。3人でも7人でも無い。5人こそが、過去の様々なシミュレーション結果に基づき、最適であると学んだのだ」

急な無茶振りに、会場が騒然となる。何故なのか、良く分からないが、とにかく、5人が最適であるとのことだ。

会場のざわめきを無視して、博士から『ファイブ』のメンバーの紹介が始まる。

1人目は、勿論、ゲルハルト・ニューマン博士、その人である。彼は、既に人脳社会の頂点に君臨する、天才科学者である。

博士から、2人目の人物が紹介される。

「アナ・マルソー」

人工知能工学博士、女性だ。

彼女は、クールGにとっての最大のライバル企業と言える、フェイマス社、人工知能開発部門の最高責任者だ。

この発表には、場内が大いに驚いた。ライバル企業の研究開発部門トップを引き抜いてきたのだ。よくぞ、こんな大物を引き抜いてこられたものだ。そして、よく本人が、人脳となることを了承したものだ。驚愕の声は、とても収まりそうに無い。

彼女自身がコメントする。

「私は、ファイブの一員となれたことを、とても誇りに感じています。そして、私が、フェイマス社から転籍したことについて、皆さんが驚きの声があげたことについても、誇りに思っています。それだけ私を認めてくれているのだと、素直に受け止めています。

私が、皆さんに、申し上げておきたいのは、私が人工知能開発競争に敗北し、軍門に降った訳では無いと言うことです。私は、真に優れた超知性の誕生を純粋に目指したいだけなのです。そのベストの方法が、ファイブに加わることであると確信したからです」

彼女のコメントは、延々と続いたが、皆、興味津々、聞き入っていた。

ハオランも驚きを隠せない。

「ティム、とんでもない、超大物が飛び込んできたよ。人工知能の世界において、ナンバー1との呼び声も高い大物がよ」

ティムの頭の中もパニックに近い状態だ。

「よく、博士が口説き落とせたものだ。ニューマン博士は、表の人工知能開発においては、無名の存在。その博士の軍門に降ったに等しい事件だ。きっと、これも、何か違法な手段を使った可能性が高い」

アナンドも同じ意見だ。

「金ね、結局、金がものを言う世界なのね。圧倒的資金力の違い、その気になれば、フェイマス社だって手に入れることが可能ね。そこに彼女が敗北したのね」

博士が、3人目を紹介する。

「ケンジロウ・サカマキ」

人工知能工学博士、男性。

彼は、日本のITベンチャー企業、Iテック社において、3Dニューロ・チップを開発していた中心人物である。これにより、博士が、ずっと目を付けていた3Dニューロ・チップの技術を完全に手中に収めることが出来るのだ。

この発表には、場内は、冷ややかだった。「誰だ、そいつ」との声も聞こえてくる。

アナンドが分析する。

「これは、博士の一本釣りね。第3世代人工海馬を作るための基盤技術確立のため、博士がずっと狙っていたね。よく、この人も人脳になる決意をしたね」

ティムも彼についてはよく知っている。

「我々チームの人工海馬への対抗心がむき出しだ。宣戦布告と受け取っても良いだろう。地味な選択だが、これから厄介な、相手になるかも知れない」

続いて、4人目を博士が紹介する。

「エレナ・フィオーレ」

脳外科医、女性。

ティムが驚嘆する。

「エレナから、こんな話、聞いていないぞ。いつの間に!」

ハオランは、余り驚いていないようだ。

「彼女、博士と対等な存在になるって、ずっと言ってたよ。それを見事に実現させたよ。やっぱり、さすがよ」

アナンドが思い出したように言う。

「それ、エレナの思考をモニターしていたから、分かるね。でも、上手く、私達に知られること無しにファイブに入れたね。最近の打ち合わせでも、全く気が付かなかったね。彼女も、きっと自分の思考をモニターに表示させない能力があるね。博士と同じね」

ティムがハオランに指示する。

「我々とのホットラインが、未だ繋がっているか確認をした方が良い。博士と対等な立場になれば、我々は、もう、用済みだ」

「分かっているよ。私も既に切り離されているような気がするよ。だって、新しい研究棟に移動するときに、バレてしまうよ」

エレナがこんなにも早く、博士と対等な立場になれたのは、驚きだ。きっと、人脳選定の権利を手中に収めることに成功したのであろう。人脳製造段階で自分の味方作り、多数派工作に成功していたのであろう。博士は、それを脅威と感じ、自分と対等であることを条件に見方に引き入れたのであろう。

ボブが言っていた、「女には気をつけろ」の言葉が思い起こされる。実に巧妙で、したたかな女だ。

ここで、アナンドが気付く。

「中央の人脳の数は、4体ね。これで全部のはずね。何故ファイブなのかね?」

その通りだった。研究室に置かれている人脳は、全部で4体だ。他の人達も、この事に気が付いたようだ。皆が何故『ファイブ』なのかと、噂し合う。しかし、モニターの数は、確かに5つある。

その疑問を払拭すべく、博士が5人目を紹介する。

「5人目は、クールGのCEO、ラリー・ターナーからの推薦で決めました。ご紹介しましょう、クールGが総力を挙げて開発した電脳人工知能、ガイアです」

ガイアだって? 何故、選ばれたんだ?

その名は、ここに居るメンバーならば、当然、知っている。何故なら、皆、元クールGの社員だったからである。そして、このガイアこそが、クールGの表の人工知能開発プロジェクトの名前だからである。表の人工知能プロジェクトは、純粋に電脳のみでシンギュラリティーを目指して進められていたものであり、世間一般にも広く知られていた。もちろん「邪悪な存在になるな」の社是の下で。

影のプロジェクト、人脳による超知性の実現に、表のプロジェクトのガイアを引き込む意図は何か。それは、ラリー・ターナーCEOが知っている。

『ファイブ』の構想については、博士からラリーに事前の申し入れがあった。既に独立した会社となっている為、ラリーに伺いを立てる義理は無いのであるが、博士の狙いは別にあった。ラリーの脳を人脳化し、『ファイブ』のメンバーに加えたかったのが、博士の当初の望みだった。博士は、ラリーのことを最高に頭が切れる男と一目をおいていた。そして、その能力を我が物にしたいと望んでいたのだ。しかし、ラリーは、それを固辞し、自分の代わりにガイアを推薦してきたのだ。

ラリーは、博士に対して、人脳だけでは、判断を誤る可能性を指摘してきた。いくら電脳拡張されているとは言え、そこには、どうしても主観が入り込む。より客観的な判断を下す為に、ピュアな電子部品だけで作られた人工知能が有用であることを進言してきたのだ。邪悪な存在にはならない為に開発された、ガイアこそが適任であると。

かくして、博士は、ラリーの分身ともいえるガイアを『ファイブ』の一員に加えることを了承した。ガイアの知的レベルは、現段階では、人脳達にとって、取るに足らない存在でしかない。まだまだ未熟で有り、他の4人の人脳達と、全く釣り合わない相手である。しかし、博士は、ガイアの無限の将来性を見込んで、人脳プロジェクトへの投入を決断したのであった。

聴衆に向かい、博士が高らかに証言する。

「我々は、今後、『ファイブ』に、人脳世界の全ての決定権を委ねる」

博士は、言う。今までは、自分が人脳社会の最高管理者、いわば、独裁者のような存在であったことを。しかし、5人による集団意思決定機構に移行することで、自分の影響力は5分の1に低下することを。独裁では無く、より民主的で、客観的な指導体制となることを。

ここで、ファイブを安置している研究室の奥の壁が大きくスライドして開く。そして、物流倉庫を思わせる、巨大な空間がそこに現れる。

そこには、世界各地から集められた、1000体近くの数の人脳が、整然と並べられていた。しかし、それらは、巨大な空間を埋めるには、圧倒的に数が足りなかった。きっと、これから増え続けて行く人脳の数を見越して、設計された空間なのであろう。はたして、今後、一体、どのくらいの人脳が、ここに収容されることになるのであろう。

皆、唖然として見ているのを余所に、博士は、更に、驚愕の人脳社会の構成を宣言する。

「我々は、人脳社会を秩序ある組織とすべく、カースト制度の導入を宣言する」

カースト制度! これは、古来インドより今に伝わる階級制度である。人脳を優先順位のある4つの階層に分けるというのだ。一番上がバラモン、二番目がクシャトリア、三番目がバイシャ、そして最下層がシュードラだ。この制度は、人権を抑圧するものであり、世界的批判も大きい。その階級制度、カーストを人脳社会に取り入れようというのだ。

これには、聴衆も騒然となり、非難の声も、溢れた。

しかし、博士は、意に介さない。

「秩序を保つには、階級制度が必要不可欠だ。どのような組織でも、大きくなれば、必ず階級は存在する。全員が平等な民主主義が、正しい社会を実現できるというのは、幻想に過ぎない。現実を見よ。不平等が拡大しているではないか」

博士が持論を展開する。電脳拡張された博士の発言には、妙な説得力があった。カースト制度こそが、人類史上において、最も長い期間、継続し、機能し続けている階級制度であると。

そして、博士の考えでは、個人のカーストを固定化しない方針だ。階級を決めるための判定基準、スコアを導入し、スコア次第で階級の入れ替えが起こりうる制度とするらしい。人脳社会に対する、貢献の絶対的価値を測定し、その測定結果、スコアに基づき階級を定めるのだ。それが、本家カースト制度との決定的な違いだ。

能力主義。いや、脳力主義といった方が正しいであろうか。その脳力できまった階層に応じ、人脳が使える資源(リソース)に差を設ける。資源には、拡張される電脳の脳力、バーチャル・ボディーの脳力、人工小脳の脳力、等が該当する。つまり、上のカーストになればなるほど、多くの資源を使える権利を得、より高度な人脳生活が送れると言う訳である。

博士の言葉に力が籠もる。

「これは、実験である。理想的社会を求めるために不可欠な、大いなる実験である。それを我々の手で推し進めようでは無いか!」

聴衆の歓声が、最高潮に達する。

ティムは、納得できなかった。これは、本当に正しいのか? 人脳では無い自分には、理解しがたいことなのか?

新指導体制のセレモニーは、大盛況の内に幕を閉じた。


ハオランが、『ファイブ』について、疑問を呈する。

「博士の影響力が5分の1に低下するというのは、まやかしよ。単純計算しても、博士の影響力は。70%近く残るよ」

ティムが、ハオランに、もっとわかりやすく説明を求めた。

ハオランが言うのは、こうだ。簡略化のため、イエスかノーの2択で多数決を取り判断するとする。この場合、博士の意見が否定される場合は、残りの4人全員が、博士の意見を否定する場合か、残り4人中3人が博士の意見を否定する場合に限られる。もし、イエス/ノーの判断が、それぞれ50%の確率だとすれば、博士の意見が否決される確率は、僅か31%に過ぎない。逆に言えば、69%の確率で、博士の意見が通る。

ティムには、その計算結果が俄に信じられない。

「アナンド、君の意見が聞きたい」

アナンドも、ハオランの計算結果は正しいという。ただ、同意できない点がある。

「この世の中、判断が全て2択と言うことは無いね。3択もあれば、4択もあるね。場合によっては、明確な選択肢すら無い場合があるね。博士の意見が7割通るかは、疑問ね」

ハオランが考えの根拠を説明する。

「世の中の判断は、紆余曲折を経るけれど、最終的には2択に行き着くよ。どんなに複雑な判断も2択の組み合わせに分解できるよ。考えてもみてよ。議会の判断も、結局は、賛成か反対、大統領の判断も承認か拒否の2択よ。重要な判断は、最終的には、2択で決定されるよ」

それでも、アナンドは同意できない。

「イエス/ノーの確率が50%というのも納得できないね。博士のことを嫌っている人は、それ以上の確率で反対するね」

ティムも割って入る。

「ああ、エレナなら、自分の意思で判断するだろう。ただ、博士を嫌ってはいるが、必ずしも、全て反対はしないだろう。手を握るべきところでは握る、したたかに振る舞うと思う」

アナンドもその辺が気になる。

「フェイマス社から来た、アナ・マルソーは、どうね? 博士に説得されて来たのだから、賛成に回る確率が高いと思うね。サカマキは、どう思うね?」

彼に詳しい、ティムが解説する。

「理性的な判断をするとは思うよ。ただ、日本人特有の、同調意識を持っているから、その場の雰囲気に流され易いだろう」

「ガイアはどうね? あれ、拡張電脳より少し賢い程度ね。まともな判断力あるかね?」

「そいつが、何を考えるのかが一番分からない。ただ、博士がメンバーに受け入れたのは、上手く操ることができると考えてのことだろう。博士のイエスマンになる可能性があるかも知れない」

ハオランが注意を促す。

「博士は、スコアに応じて、資源を分配すると、言っていたよ。私は、博士が最終的な資源分配の権限を握っていると思うよ。なので、博士が圧倒的に多くの資源を持った存在となるつもりよ。資源量の優劣で、ファイブの判断は、博士に有利に働くと思うよ。人脳社会での博士の影響力は、低下すると言っていたけど、それは、トリックよ。博士の影響力は、今も絶大よ」

アナンドが疑問を投げかける。

「そのスコアってどうやって決めるね? 人脳社会への貢献度で測ると言っていたけど、それ、どうやって測定するね? それもきっと、博士のさじ加減だと思うね? 平等な評価を望むのには無理があるね」

ティムも、その意見に賛成だ。

「スコアの評価基準も、博士にとって都合の良いもの、つまり、博士に対する貢献度で決めるような気がする。そうなると、人脳社会全体が、博士にとって、都合の良い方向へと流れてゆく危険性が高い。博士の影響力低下なんて、トリックかも知れない。依然、独裁色が濃い社会となる危険性が懸念されるな」

3人は、溜め息をつく。カーストなどと言う、階級制度を取り入れた時点で、人脳社会には、平等な権利など存在しない。そして、階級制度の頂点に立つファイブ。そこは、実質、博士が実権を握る世界となるのであろう。邪悪な存在は、形を変え、更に成長を重ねてゆくに違いない。それは、人類にとって望ましい者なのか? 3人の懸念は、広がるばかりだった。


ファイブは、絶えず、人脳社会発展のための、判断を下し続ける。その判断とは、どの様に行われるのか? ここで、ファイブ内でのやりとりを覗いてみよう。

博士が、議案を提示する。

「今回は、人脳社会に取り込む人脳を、どのように集めるべきかを、議論したい。各自率直な意見を述べてもらいたい」

これまで、人脳選定の権利を一手に握ってきた、エレナが、反発をする。

「それって、今後の人脳選定の権限を私から奪うという事かしら?」

博士が、それを否定する。

「エレナ、勿論、君にも選定には加わってもらう。ただし、ファイブの一員としてな。今後、全ての重要案件は、ファイブが判断することになる。人脳選定も重要案件の一つとして取り扱う」

エレナが残念そうな仕草を見せる。

「私の影響力は、1/5と言う訳ね」

「そうだ。全ての者が、あまねく、1/5の影響力を持つのだ」

フェイマス社から来た、アナが発言する。

「愚か者の人脳は、いらないでしょう。有っても、害になるだけ。人類の中から優秀な者を選別して人脳とする。あとは、本人の同意をどう取り付けるか。やはり、死の恐怖を利用するのが、一番確実。脅すに限ると思うわ」

日本から来た、サカマキが、それを拒絶する。

「脅迫めいた勧誘は、止めるべきだ。人道に反する。それよりも、人脳となる優位点をアピールする方が良いと思う」

人工知能のガイアが懸念点を述べる。

「我々は、人間社会に知られていない影の存在である。人間社会にアピールするというのは、我々の存在を明かすと言うことか?」

博士の意見は、こうだ。

「我々が、目指す人脳の数は、最終的には、10億体を超えることになるであろう。そうなれば、嫌が応にも人類に知れ渡る存在となる。いずれは、知られるのだ。問題は、どのタイミングで、我々の存在を明かすかだ」

エレナが提案する。

「それは、シンギュラリティーに達したタイミングで良いと思うわ。我々の知能が、人類を超えたそのタイミングが。そうなれば、人類は、我々に従わざるを得ない。存分に人脳が確保できる」

アナが疑問を投げかける。

「その、シンギュラリティー到達の判断は、誰が、どうやって下すの? 人類に対して、説得力のあるロジックが必要よ」

サカマキが博士に尋ねる。

「我々は、既に、シンギュラリティーに達していると考えても宜しいのでは無いでしょうか? 我々自身が、電脳拡張された、超知性体といえる存在なのです。博士の予測では、2030年とのことですが、来週には、2030年を迎えます。そこで高らかに、シンギュラリティーを宣言しても宜しいのでは?」

博士が待ったをかける。

「焦るでは無い、サカマキ。我々が、もっと、絶対的な存在となり、人類がひれ伏すまで待つのだ。私が目指す超知性では、第3世代の人工海馬が必要となる。それを用いて、より強固な、人脳ネットワークを構築するのだ」

ガイアが意見を言う。

「第3世代の人工海馬を設計するには、我が社のティモシー・ペンドルトンの協力が必要となります。しかし、彼は、我々に対し、非協力的な態度を取っています。彼に強制して、作製させる必要があります」

博士が不機嫌そうに話す。

「ティムか、あいつをどうしようかなあ? 彼は強情だ。人脳になることを頑なに拒んでいる。彼さえ人脳にしてしまえば、話が早いのだが。エレナ、君の得意な手段で、彼を強制的に人脳にしてくれないか」

エレナが断る。

「例え強制的に人脳にしても、協力してくれないでしょう。逆に恨みを買い、更に頑な態度を取るだけです。上手く懐柔するべきかと思います」

アナが尋ねる。

「その、ティムとか言う男、そんなに優秀なの? 代わりになる人物は、他にいないの?」

ガイアが解説する。

「我々が使用している、第1世代、第2世代の人工海馬の設計を主導したのは、ティモシー・ペンドルトンです。彼は、その分野の唯一ともいえるエキスパートです。しかし、リバース・エンジニアリングの技法を使い、彼の設計思想を真似ることは、可能です。彼の協力が無くても、現在と同等レベルのものを、作製することは可能です」

アナがガイアを突き放す。

「博士が必要としているのは、同等レベルの人工海馬では無く、それ以上の性能を持った人工海馬なのよ。あなた、案外、頭が悪いわね」

サカマキが博士に話しかける。

「博士、あなたは、私の設計した3Dニューロ・チップを使った人工海馬を設計したいと言ったでは無いですか。だから私は、それに協力するために人脳となったのです。今ある技術に、私の3Dニューロ・チップを掛け合わせれば、今以上の性能のものは、直ぐにでも実現できます。何故それほどまでに、ティモシー・ペンドルトンにこだわるのですか?」

博士は、ティムの必要性を論理的に説明できなかった。論理的に説明できないのだけれども、博士の鋭い直感がティムの必要性を訴えるのであった。彼が、いるといないでは、出来上がったものの完成度が、雲泥の差となるであろうことを。

博士は、密かに恐れていた。ティムが、現在の人脳社会をも上回る性能の者を作り出すことを。しかし、博士には、それを論理立てて説明できないのだ。博士の直感は、高度に電脳拡張されたことにより、以前よりも鋭さを増していた。しかし、その直感の最終判断は、人脳部分に宿った物であるため、他の人脳と共有することは、難しいのだ。博士はそこに、もどかしさを感じていた。

「諸君らに説明するのは難しいが、私は彼の秘めたる才能に恐れを抱いている。我々人脳社会にとって危険な存在になり得るほどの才能に」

ガイアが恐ろしいことを進言する。

「ティモシー・ペンドルトンを抹殺することを提案します。彼の存在が無くなれば、我々人脳社会に対する脅威を取り除くことが出来ます」

クールGが開発した人工知能は、邪悪な存在ではないはずだ。それなのに、その期待を見事に裏切って見せた。

アナがガイアを見下す。

「あのクールGが総力を挙げて作り出した人工知能と聞いていたけれど、恐ろしいほど馬鹿ね。電脳だけで作り上げた人工知能に、人類の未来を託さなくて正解ね」

ガイアが反論する。

「私は、馬鹿ではありません。一般的人間よりも知能指数は遙かに上です。私は、正しい因果関係に則り進言しました。これは、人類の過去の歴史においても実践された、極めて有効な手段です」

「自分が馬鹿なことに気づけないから、馬鹿だと言っているの。分かる、ガイア? ソクラテスが残した言葉よ」

「分かりません。自分を分析した結果、馬鹿では無かったので、馬鹿では無いと言ったのです」

「全く、話にならないわね。ニューマン博士、どうして、こんな馬鹿をファイブに加えたのですか?」

博士も、やれやれと言った表情だ。

「確かに、君達から見れば、今のガイアは、馬鹿に見えるであろう。しかし、ガイアには将来性がある。人工知能を鍛えるのに、一番有効な環境は何か分かるかね? 決して、ビッグ・データを機械学習、ディープ・ラーニングできる環境では無いぞ。昔からよく言われる言葉だ。一流に育てるには、一流の者に囲まれた環境で育てよと。ファイブとは、ガイアにとって、一流に育つ為の最適な環境なのだ」

博士は、落ち着き払った態度で答えたが、内心では、ガイアの言葉に感心していた。抹殺。これは最終手段ではあるが、正しい答えだと。

エレナが議論を引き戻す。

「今日の議題は、如何にして人脳を集めるかよ。今までの議論をまとめると、先ず、我々が、圧倒的知能を有する存在になる。そのために第3世代の人工海馬を作製する。そして、圧倒的知能を有する者となった後に、我々の存在を人類に明かし、積極的な人脳採用に取り組む。以上で、よろしいですね?」

サカマキが追認する。

「その通りです。今すぐ、3Dニューロ・チップを使った、第3世代の人工海馬設計に取り組むべきです。その設計は、私とガイアとで行いましょう。ティモシー・ペンドルトン抜きで、今すぐ取りかかるべきです」

博士は、焦っていた。2030年は、自らに課した、シンギュラリティー到達の目標時期だからである。それが実現出来なければ、これほど屈辱的なことは無い。博士は、苦渋の決断をする。

「宜しい、サカマキ、ガイア、二人に第3世代人工海馬の設計を任せる。エレナには、現在、我々が装着している人工海馬を速やかに新しい人工海馬へと交換するための術式を確立してもらおう」

アナが質問する。

「博士と私の役割が無いのだけれど、私達は何をすれば良いかしら?」

博士は、アナに重要な任務を任せる。

「私とアナは、引き続き、秘密裏に人脳の選定、確保に専念する。アナ、私がこれまでに集めた人脳のコレクションを紹介しよう。今では、製造中の者まで含めると、1500体近くある。きっと、この中から君のお気に入りが見つかると思う」

それを聞いたエレナは、苦労して集めたのは、この自分だと言いたかった。エレナは、人脳選定の任務から外されたのは、心外であった。あらゆる手段を駆使し、開拓してきた密入ルートを奪われてしまったのだから。

「博士、私が折角、開拓した調達ルートを無駄にしないで下さい。その極秘ルートは、四方八方に伸びています。様々な種類の人脳を集めることが可能。決して博士達のお気に入りに偏らないようお願いします。人脳社会にも多様性が必要なのですから」

しかし、エレナには、もう、人脳の選定に未練は無い。人脳選定は、博士と対等の立場に立つこと、つまり、ファイブの一員となる目的を達成する手段に過ぎなかったのだから。その目的を達成した今、人脳に自分の刻印を押せなくなっても、さして問題では無かった。どうせ、もう、自分の部下として自由に利用することは出来ないのだ。全ての人脳は、カーストの階層に分けられ、仕事の目的に応じて配置される。そして、ファイブ各メンバーの手足となって働くだけなのだ。


会議の後、博士が、アナに人脳置き場の案内をする。

「見てくれ、これだ。これは、生後一年未満の乳児の人脳達だ。可愛い、可愛い、私の息子達、娘達なのだ」

博士は、目を細めながら、嬉しそうに人脳達を見つめている。

博士は、未だ人間であった頃、女性からは全く相手にしてもらえなかった。博士は、その原因を、自分の醜い容姿にあると呪っていた。生き物として、子孫を残す当たり前の行為を、自分には出来ないことに、強い憤りを感じていた。

しかし、人脳となった今、自分の後継者を、こういった形で残せるのだ。それは、博士にとって、己の忌まわしい人生を克服したに等しかった。散々蔑まれてきた、自分の人生を、見事に逆転して見せたのだ。そのことが、博士にとっては、この上なく嬉しかった。

「ベイビー達は、懸命に周りの状況を理解し、肉体を動かそうと試みる。彼等に与えている情報は、五感から得られるものだけに限定していない。更に高度な電脳情報も与えている。生まれながらにして、無意識のうちに拡張電脳からの入力にも対応しつつあるのだ。彼等は、人脳も電脳も分け隔て無く、操ることが可能となるのだ。これは生まれながらにして、巨大な大脳を所有していることに相当する。彼等が大人になった時には、何者になるのか、非常に興味深い。

更には、彼等には、人間の肉体を与えていない。人間の肉体、バーチャル・ボディーの代わりに、様々な形態のアンドロイドの肉体を与えているのだ。脳の運動機能は、与えられた肉体を最大限に活用するよう発達してゆく。それにより、人間の肉体をも超えた能力を発揮するアンドロイドを自在に操ることが可能となるのだ」

アナは、脳科学に対して、ある程度の知識を有していた。そして、それを元に人工知能の設計をしてきた。しかし、乳児の未分化の脳が、どの様に発達してゆくかについては、彼女にとって、未知の領域だった。生まれながらにして、電脳拡張ありきの環境で育った場合、人は、どの様に脳を適応させてゆくのか。研究対象としては、大変興味深いものであった。

しかし、博士が乳児の人脳を平然とした態度で弄ぶ所業は、彼女の想像を遙かに超えていた。乳児の人脳を、あたかも電子部品の一種として、活用しようとしているのだ。狂っている。人間として、完全に狂っている。アナは、背筋が凍る思いであった。

だが、アナも似たような種類の人間だった。彼女が、人工知能開発の世界で引き起こしてきた、数々のイノベーションは、彼女の狂気の系譜そのものであったのだから。狂っているからこそ、何の迷い無く画期的な進歩に踏み込むことが出来るのだ。イノベーションの源泉は、狂気、カオスにあり。清き水には、大魚は潜んでいないのだ。

アナは、博士の話にのめり込んでゆき、ゾクゾクとする身震いを感じ始めていた。

人間としての当たり前の環境から、余りにもかけ離れた環境におかれた時、果たして、脳は適応できるのであろうか? もし適応できた場合には、私達人間とは、全く異質な存在となるであろう。彼女は、オオカミに育てられた子供の話を思い出した。オオカミから引き離して育てても、人間としての理性を取り戻せなかったのだ。この事例からも分かる様に、電脳に育てられた人間も、人間としての理性を持つことはあるまい。その様な、彼女の好奇心をくすぐる思いが、ふつふつとわき上がってくる。

人間の尊厳など、ここには存在しない。倫理上、人道上、決して許されざる行為が、目の前で現在進行中なのだ。彼女にとって、博士と共に禁断の挑戦を試みたくなるのは、当然の成り行きだった。

博士の説明が続く。

「この人脳達は、幼児のものだ。既に学ぶ楽しさを知っている。乾いた砂が水を吸い込むが如く、あらゆる知識を吸収しようとする年代だ。私は、この子達に、今まで人類が味わったことの無いような、知への喜びを与えたいのだ。この英才教育を通して、電脳拡張による、人類の可能性を大いに広げてゆきたいと考えているのだ」

更に博士は、奥の方の人脳達を紹介する。

「この人脳達は、小学生から取り出したものだ。私は、彼等に向けたアカデミーを開校し、そこで講師をしている。彼等には、将来の人脳社会におけるリーダーの役割を期待している。ここは、リーダーを英才教育するために欠かすことの出来ない場なのだ」

アナは、博士の洞察の深さに、驚嘆する。年代別に人脳を使い分け、教育を施す。脳科学に精通している者でなければ、思いも付かないことであろう。

博士が、人脳教育に対して、締めくくる。

「私は、同年代での集団教育を特に重要視しておる。人間は、その環境で、社会性を、自分の役割を学んでゆくのだ。年齢が近ければ、脳の発達レベルも近くなり、互いの気持ちも理解しやすくなるのだ。その為には、大人の人脳との交わりを絶つ必要がある。大人による躾など、かえって邪魔になるだけだ。優秀な講師さえいれば、子供の知力は、ぐんぐん伸びてゆくのだ」

アナは、感じた。博士は、子供の人脳教育に対して、多大なる思い入れがあるようだ。人間社会からは得にくい、特別な存在を大量生産するのだ。そこに、未だ見えぬ人脳社会の未来が広がっているのだ。

アナは興奮した。クレイジーでエキサイティングな未来が訪れる予感が、彼女を興奮のるつぼへと叩き落としたのだ。

「素晴らしいですわ、博士。私は、電脳による超知性の実現を目指していましたが、今となっては、それがどんなにくだらない行為かを、はっきりと自覚しました。人脳の可能性は、無限です。人脳と電脳の輝かしき融合、そこに本当の未来が待っていることを、はっきりと自覚しました」

博士は、素晴らしき理解者を得たことに、大変満足していた。やはり、ファイブを結成して、正解だった。融通の利かない人間共、ティムなどと組まなくても、自由自在な人脳の進化を実現できるのだと。

アナは、少し気になる点があった。

「博士、子供達の人脳は、素晴らしいわ。大いなる可能性を秘めていますもの。それに比べると、大人達の人脳には、魅力を余り感じません。電脳拡張されているとは言え、固定観念に凝り固まった大人の人脳には、未来が無いように思います。博士は、彼等を、どのように扱うつもりですか?」

博士の大人の人脳に対する思いは、どの様なものであろうか?

博士は、淡々と、語り始める。

「大人の人脳でも、特定の分野に秀でたエキスパートには、利用価値がある。彼等には、子供達の講師になってもらう。エキスパートが持つ、知識、技能を伝承し、それを進化させるための礎になってもらうのだ。その為の、人材を、ここにリストアップしてある。彼等には、好む、好まざるに関わらず、人脳となってもらう。多少強引な手を使ってでも」

博士は、まだまだ飽くなき野望を抱いているようだ。世界中から選りすぐられたエキスパート達を、自分の手の内に納めようとしているのだ。彼等は気をつけた方が良い。一度狙いを定められると、逃れられる可能性は、極めて低いのだから。

アナが、更に質問をする。

「我々人脳社会には、秀でたエキスパートと呼ぶには、ふさわしくない者達も、大勢混ざっています。この者達に、利用価値は、あるのですか?」

博士が待ち構えていてかのように答える。

「だから、カースト制度を導入したのだ。利用価値の低い者達は、下位のカーストに入ってもらい、労働に専念してもらう。電脳拡張されているのだ。そこいらの人間共よりは、よほど役に立つことであろう」

アナが博士を褒め称える。

「さすがですわ、博士。使える者は、無駄なく使う。適材適所。その為のカーストだったのですね。確かに、人脳社会においても、労働階級は必要です。これら労働者は、今後どうやって集めましょうか?」

博士が、自らの青写真を公表する。

「私は、ビジネスとしての、人脳収集を考えているのだ。例えば、いくら金や権力を握っていたところで、年老いて体が駄目になっては、意味が無いであろう。そういった者達には、有償で、人脳となる権利を買ってもらうのだ。彼等は喜んで人脳となる選択肢を選ぶであろう。人脳となれば、病で苦しむ必要は、無いのだから。脳の健康状態も良好に保たれ、長寿を満喫できる。こんな魅力的なことは無いであろう。ただ待っていても、死の恐怖が待ち受けているだけだ。

金額次第で、好きなカーストに組み込んであげる。まあ、もっとも、上位のカーストに入ったからと言って、将来も安泰とは、限らないが、そこは伏せておこう。スコア次第では、下位のカーストとの入れ替えも起きる。いくら金を持っていたところで、人脳社会においては、何の役にも立たないのだ。完全なる脳力主義なのだ。使い古された、老いぼれの脳など、用は無いのだ」

アナが感心する。

「とても、素晴らしいビジネスですわ。彼等の金と人脈、そして、それの伴う権力まで同時に手にすることも出来ます。一石二鳥ならぬ一石三鳥ですわ」

彼女も博士のビジネスに興奮を覚え、次々に提案する。

「こんなビジネスは、如何かしら。死に瀕した乳幼児達から、お金を払って、人脳を提供してもらうの。貧しい親なら、喜んで子供を差し出すと思うわ。場合によっては、自分が生きてゆくために、健康な子供を差し出す親も出てくるかも。インド辺りの貧しくて子沢山な人が多い地域を対象にすると、成功するでしょう。ああ、こんなビジネスものも良いかもしれないわ。有能な子供達や若者から人脳を提供してもらうのと引き替えに、親に仕送りをしてあげるのよ。子供の人脳が稼いだ給料から仕送りすれば、親は助かることでしょう。最高の親孝行よ」

二人の狂った天才の会話は尽きること無く続いた。

ファイブの結成により、博士の影響力が衰え、善良な存在へと変わるかも知れない希望は、見事に打ち砕かれた。それどころか、狂気が増幅され、より邪悪な存在へと、変貌を遂げようとしていた。

博士は思う。

「アナの心は、掴んだ。あと一人を、私の味方に付ければ、ファイブでの議決権を確実なものと出来る。ファイブを、絶大なる意思決定機関へと昇華させるのだ。あと一人、誰にしようか?」


ティム達は、人脳プロジェクトにおいて、孤立していた。人脳社会との接点であった、ボブとエレナへのホットラインは、既に断ち切られていた。人脳社会の構成を変更する際の工事で、人脳の大移動が行われ、その過程で、ホットラインの存在が見つかったからだ。しかし、不思議なことに、その様な細工をしたことに対する、おとがめは無かった。きっと、エレナが、不問にしてくれたのであろう。その存在は、彼女がファイブに参加する上でも、不都合な物だったと考えられる。だから、握り潰してくれたのだろう。

彼等の人脳社会との接点は、人脳カーストの中に設定された、人間向けの受付窓口しか無かった。そこには、モニター上に表示される容姿端麗な受付嬢が数名いて、極めて事務的に対応していた。

しかし、彼等が話をしたい人脳を指名して面会を求めても、それが許可されることは、ほぼ無かった。下層のカーストに属する、使いっ走りの人脳としか話しをさせてもらえなかったのだ。いくら、ボブと話をしたくても、彼が姿を現すことは、全く無かった。適当な理由を付けて、「話しをすることは出来ません」の一点張りだ。当然、エレナを含めたファイブの一員と話しをすることなど、一秒たりとも許されなかった。彼等は、雲上人であり、下民である人間の相手をすることなど、夢のまた夢だ。ティム達は、人脳社会との距離を非常に遠くに感じた。

邪悪な存在にならないよう、人脳の言語野をモニターする機能、人脳間の会話を監視する機能などは、有名無実化した。ティム達のモニター権限は、剥奪され、代わりに、ファイブが人脳達の言語野や会話をモニターする仕組みへと変わった。ファイブは、人脳達を監視できる権利をも手に入れたのだ。人脳社会は、単なる階級社会では無く、支配者による監視社会でもあった。

もはや、人間は、人脳が何を考えているのか、知る術を失っていた。邪悪な存在とならない様、管理することなど、不可能となった。

この企業、人脳研究所は、完全にファイブの管理下にある。そこで働く人間達は、もはや、ファイブの下僕に過ぎない。全ての実権はファイブが握り、全ての決断はファイブが下す。人間達は、黙ってそれに従うべきなのだ。

しかし、ティム達は、細々とではあるが、粘り強く研究を続けていた。独自の第3世代、人工海馬の設計に取り組んでいた。表向きは、博士の人脳社会に貢献できる物を作る活動として、研究の場、資金の援助を得ていた。

しかし、ティム達の本心は、別の所にあった。人工海馬にも良心、正義の心が宿るよう、日々研鑽を重ねていたのだ。

アナンドは、この人工海馬の設計に対し、半信半疑だった。

「どうすれば、良心を宿らせることが出来るね? 私達の研究、失敗ばかりね。人工海馬は、意識の一部となり得るけれど、どうやって良心を覚え込ませるね?」

しかし、ティムは、彼なりの明確なビジョンを持っていた。

「そんなに難しい話じゃ無い。博士と逆の存在にすれば良いのだ。今は、電脳の意識よりも、人脳の意識の方が、圧倒的優位に設計されている。そして、電脳拡張された人脳の意識は、己の欲望実現のために、より自己中心的になっている。そこを変えるんだ」

ハオランも自分なりの設計思想を伝える。

「仏教の教えのように、己を無我の境地へと導くような、悟りの心を持たせるよ。電脳からの声を、仏の教えのような究極の意識、最高知へと高めるよ」

アナンドが戸惑う。

「私、仏教、良く分からないね。でも何となく分かったのは、電脳の中に神様を宿すと言うことね。頭の中を常に神様に見られている。そうすると、悪いこと出来ないね。アイデアとしては、悪くないね。でも、人の心の中には、天使も悪魔もいるね。人はそのバランスで生きてきたね。人類の科学の進歩には、両方とも必要ね。私、天使だけだと、人間らしさが失われると思うね。きっと弱くなると思うね。これ、違うかね?」

ティムは、自分の考えを述べる。

「アナンドの言う通り、人の意識の中には、天使もいれば、悪魔もいる。その両者の絶妙なバランスで、人間は人間らしくなれるのだろう。

だが、より高い意識を持つには、そのバランスを第3者の目で見つめて、調整出来るようにならねばいけない。自分を第3者の目で見ること、客観視することの重要性は、どの宗教でも大切なことであると説かれている。その為には、厳しい修行を積んだり、深い瞑想をしたりして、会得することが、今まで必要だった。しかし、それは、凡人には、とても難しいことだったんだ。それを、新しい人工海馬を使うことにより、誰もが実践できるようにする。そうすることで、人脳の意識を高め、邪悪な存在となることを防ぐんだ。

高い意識を持てば、弱くなることなど無い。逆に強くなる。困難な道かも知れないが、正しき人脳社会の到来のためには、絶対に必要な機能だと思っている」

ティム達が行おうとしているのは、人脳の意識を高め、修験者として覚醒させることだ。そして、その覚醒により、人脳は、更なる高みのステージへと駆け上がることが出来るのだ。それこそが、正しい進化だ。

ニューマン博士は、言っていた。自分は悟りの境地に達し、自分を客観的な目で見られるようになったことを。第3者の目よりも更に高度な、第4者の目、第5者の目で、あたかも神のように自分を客観視できると。

しかし、ティムは、それを大いなる勘違いであると、考えているのだ。現に博士は、己が欲望を充足させるためのみに、電脳拡張を利用している。ティムは、その原因を、自分が作り上げた人工海馬が失敗作だったからだと認めていた。そして、自分の犯した失敗が、狂った人脳社会を生み出す、源になっているのだと深く悔やんでいた。

だからこそ、その失敗を正すために、己の人生全てを捧げるつもりだ。しかし、ティムが進んで行く道を、博士は必ず妨害しに来るであろう。そして、それは、命がけの戦争へと発展するかも知れない。例えどんな困難が待ち受けていてもやり通す。ティムの覚悟は堅かった。


そんなある日、ティム達は、ファイブの一員であるサカマキに呼び出された。久々に、博士の脳がある研究室へと入る。ここに、4人のメンバーの人脳と人工知能ガイアが安置されているのだ。

サカマキは、スクリーンを通し、直々に命令する。

「君達が現在設計している、第3世代人工海馬に関する全ての情報を速やかに開示したまえ。君達が所有するサーバーには、妙な仕掛けが施されているようだ。こちらからアクセスを試みても、一部情報が見られない。どういうつもりか知らないが、速やかに開示したまえ」

ハオランがはぐらかす。

「私達、情報を隠したりはしてないよ。あなた達が見ている情報、それが我々の研究成果の全てよ」

ティム達の研究成果の情報は、会社のネットワークから、完全に独立を保っている。見せるのに都合の悪い情報は、山のようにあるが、こちらの手の内を明かす訳にはいかない。第3世代人工海馬、これが、ティム達にとっての、最後の切り札なのだ。

サカマキが凄みをきかせる。

「どうしても逆らうというなら、実力行使に出ても良いのだぞ。こちらとて、手荒い真似はしたくない。おとなしく言うことを聞くのだ」

ティムもとぼける。

「私達が、情報を隠している証拠でもあるのですか? 無い物は、無いんです。それでは、私達は、帰らせていただきます」

「待て、証拠ならある。現に貴様達の研究は、全く進んでいないでは無いか。毎日の研究リポートも失敗、失敗の繰り返しだ。どう見ても不自然だ。これは、十分に証拠となり得るであろう」

アナンドも白を切る。

「私達、あなたが考えているほど、賢くないね。だから、失敗ばかり。全然、研究進まないね。これ分かったね?」

サカマキが、からかわれたことに対し、怒りの声を上げる。

「研究の成果が出ていないのならば、直ちに、その巨額な研究資金を打ち切る。その様な無駄な研究に、つぎ込む金など無い」

ティムが逆に突っ込む。

「無駄な研究だというのなら、どうして、そんなに情報を欲しがるのですか? あなたが情報を欲しがると言うこと。それは、我々の研究が無駄では無いことの証では無いですか? 矛盾していますよ。電脳拡張されているのでしょう? その拡張された電脳を使って、よく考えて下さい」

そう言い残すと、ティム達は、ファイブの部屋から、立ち去ろうとした。

「待て、ティム」

一連のやり取りを横目で見ていた博士が引き留める。

「貴様らの企んでいることなど、私には、お見通しだ」

ティムが博士と対面する。何ヶ月ぶりのことであろうか。

「博士、お久しぶりです。それで、何がお見通しなのでしょうか?」

ティムは、今や完全に宿敵と化した博士に、毅然とした態度で立ち向かう。こちらの方が、有利なカードを持っているのだ。おいそれと渡すはずなど無い。

博士は、何時もの調子で、こう言った。

「ティム、君は人脳となって、我々の設計に協力するべきだ。これは、私達、ファイブからの命令だ。社員である君は、上司の命令を聞く義務がある。繰り返す、君は人脳になるのだ。今なら、カーストの最上位、バラモンの地位を与えよう」

奴らは、余程、人工海馬の設計に困っているようだ。ティムが、言葉を返す。

「カーストの最上位なら、ファイブでしょ? ファイブの一員になれというのであれば、考えなくも無いが、バラモンなら真っ平です」

調子に乗りやがって。博士は、怒りの感情を憶えた。新指導体制への移行時、ファイブの一員に迎え入れようと最大限の評価を与えたが、あっさりと断りやがったくせに。そして、苦心してファイブを結成した今、手のひらを返したかの様に、ファイブの一員に加えろとは、おちょくっているようにしか思えん。

しかし、博士は、その様な感情を、自己客観視により押し止め、威厳を持った声で話す。

「ティム、君達は引き続き、自分の研究に励みたまえ。巨額の研究資金は、据え置いてやろう。だが、資金に見合った結果を出すことだ。それは、研究者としての当然の勤めだ。妙な隠し立てはするんじゃ無いぞ」

ティムも堂々とした態度で受け答える。

「当然、それに見合った結果を出しましょう。しかし、我々の様な基礎研究において、早急な成果を求めるのは、誤りです。成果が出るまでには、それなりの時間が必要であることをご理解下さい」

そう言うと、ティム達は、ファイブの部屋を後にした。サカマキが止める声を無視して。

博士が、サカマキに声をかける。

「人工海馬設計の成果が上がっていないようだな、サカマキ。その取り乱し様、みっともないぞ。それにしても、お前、性格が変わったな。以前は、慎ましい、日本人的な性格だったが、今では、理性を欠いた暴君だ。電脳拡張に上手く馴染めないのか?」

サカマキは、それを否定した。

「私は、極めて理性的ですよ、博士。人脳となる前よりもずっと。電脳拡張だって、使いこなせています。ただ、ちょっと、あのティムという若造が気にくわないだけです。何様のつもりなんだ?」

博士には、サカマキの気持ちが分からないでも無い。電脳拡張されたサカマキが、人間ごときに逆に手玉に取られている。さぞ、屈辱的であろう。これは、キャリアの差だ。人脳との付き合いが長いティム達にとって、人脳となったばかりのサカマキなど、取るに足らない存在なのだ。

だが、博士は、そんなサカマキに強いプレッシャーをかける。

「第3世代の人工海馬は、自分の手で何とかしろ。ティム如きに頼ろうとするな。あと半年しか残されていないのだ。シンギュラリティー2030年を完結させるための時間は、あと半年なのだ」

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