第4話 邪悪な存在、権力を握る

西暦2028年10月。

アメリカ、シリコンバレー、クールG 某研究室。


また、新たに加わる人脳達の紹介があった。今回は、一挙に20体が加わる。

これらは、エレナ達人脳製造チームの多大なる労力の賜であったが、彼女達は、さほど負担には感じていなかった。既に5体の人脳作成の経験を通して、要領が掴めたことも大きかったが、それ以上に、彼女達の欲求である、脳を切り刻むことに大いなるエクスタシーを感じていたからでもある。また、エレナ自身、自らの肉体コレクションを増やしたいとの、大いなる願望があったからでもある。

これで、総勢、25体の人脳の入った水槽が、研究室に並ぶこととなった。さすがに25体もあると、この研究室でも手狭に見える。直ぐにでも、研究室の拡張工事が必要となるであろう。

だが、今回の人脳の中には、倫理的に、大変不味い者が多数含まれていた。

先ず、エレナが狙っていた、健常者から取り出した者が男女各2体、合計4体も含まれていたのだ。表向きは、不慮の事故と言うことを装い、脳死の危機に遭った者から、半ば強引に家族の同意を取り付けて抜き取っていたのだ。当然、脳を抜き取った残りの肉体は、エレナのコレクションに収まっている。念願の健常者の肉体をついに手に入れたのだ。

更に、新たに博士が狙いを付けていた乳幼児の人脳が多数含まれていた。乳幼児であるため、当然、本人の合意などは取り付けていない。これも、半ば強引に、保護者の合意を取り付けて手に入れた者だ。

乳幼児を対象にすることについては、エレナにも多少の躊躇いがあったが、新たなる肉体コレクションの誘惑に負け、了承したのであった。

このプロジェクトのリーダーは、ティムである。しかし、彼には、この暴挙を止める権限が一切無かった。人脳の確保は、エレナの専任事項であり、例外として、彼女が最終決定権を握っているのだ。

人脳選択のプロセスについても、一切、ティム達のチームには、知らされることは無かった。それも当然である。この様なことが、CEOの耳にでも入りでもしたら、クールGから追放されることは、火を見るより明らかであったからだ。彼女達チームも、既に邪悪な存在と呼んでも差し支えあるまい。その意味では、彼女達は、博士を非難できる立場には、無かったのだ。

ティム達3人は、予想を超えた人脳の数の多さに驚愕した。一体、いつの間に、これだけの数を揃えることが可能になったのだ? エレナ達の人脳製造技術は、驚異的な進歩を遂げているようだ。人脳の数は、今後、加速度的に増えてゆく計画だ。そこに思いをはせると、ティムは、何だか空恐ろしいものを感じた。

本当に人脳だけのコミュニティーが出来上がろうとしている。今は未だ、一クラス程度の規模だが、それが、やがて、村になり、町になる。更には、都市になり、最終的には、国家レベルまで拡大するかもしれない。そうなった時、我々人類は、彼等と、どうやって向かい合ってゆけば良いのであろうか? ティムには、全く予想がつかなかった。

人脳の群れを眺めている内に、アナンドが何かに気が付いたようだ。ティムとハオランに声を掛ける。

「この人脳、他の人脳に比べると、とても小さいね。もしかしたら、赤ちゃんね」

ハオランも気が付いたようだ。

「他にもあるよ。ここにも、あそこにも。これは子供ぐらいの大きさよ」

ティムはエレナに問い詰める。

「人脳となるには、本人の同意が必要のはずです。しかし、そのような判断力を持たない、赤ん坊や子供まで含まれているのは、どういう理由ですか!」

エレナが白を切る。

「本人に判断能力が無い場合は、ちゃんと保護者の承認をもらっているのよ。別に、法的な問題は無いでしょう? それとも、この子達は、人脳とならずに、そのまま死を迎えた方が幸福だったとでも言うの?」

ティムが怒鳴る。

「それでは、自分が脳だけの存在になることが、幸福だと言うのか!」

エレナが、きっぱりと言い切る。

「幸福よ。幸福に決まっているじゃない。次は、私が人脳になる番よ。26体目の人脳は、この私で決まりなのよ」

ティムの心の中に、抑えがたい怒りが沸き上がってくる。狂っている。完全に狂っていやがる。この悪魔め。悪魔も申し子め。

博士の声が響く。

「ティムよ、何をそんなに怒っている。エレナの言う通りだ。死ぬぐらいなら、人脳となった方が幸福なのだ。貴様は、この赤ん坊共を殺せというのか?」

だが、ティムには、全く納得の出来ないことであった。年端もいかない子供達まで巻き込むなんて、酷すぎる。やはり、こいつらは、人間の脳を持った悪魔だ。邪悪な存在だ。

「プロジェクト・リーダーとして、あなた達の行いを黙認することは出来ない。今後、この様な行為は、断固として認めない」

エレナが冷めた口調で言う。

「だからって、どうしろと言うの? この子達の脳は、認められないから殺せとでも言うの? よく考えなさい。そんなことをしたら殺人罪よ。ティム、頭を冷やしなさい。それに、私には、人脳の選定に関する特別な権限があるのよ。あなたのやろうとしている事は、越権行為よ。そっちこそ、慎みなさい」

どこからともなく、声が聞こえて来る。女の子の声だ。

「あのう、私、人脳にしてもらえて、とても感謝しています。私は、事故で怪我をして、ずっと昏睡状態のまま入院していました。昏睡状態と言っても、意識はしっかりあるのです。周りの話し声とかも聞こえていました。だけど、私は、一切、体を動かす事が出来なかったの。パパにもママにも何も伝える事が出来なかったのです。ずっと、ずっと、孤独でした。しかし、今は、パパやママと会話する事が出来るようになって、とても感謝しているのです」

違う人脳達からも声が聞こえてくる。

「私も感謝している」

「俺もだ、もう駄目かと思っていたんだ」

「私だって、そうよ。死んでしまったら、何にも残らないでしょう。生きていられるだけで、素直に嬉しいわ」

ティムは、戸惑った。皆、エレナに救われたと、感謝しているのだ。

「赤ちゃんだって、きっと、そうよ。間違いなく、私達みたいに、感謝しているわ」

明らかに、ティム達の敗北だった。誰もエレナのやった事を、ティムが感じているような、悪魔の所業とは、微塵も思っていない。皆、誤っているのは、ティムの方だと言う。

ティムは、自分の判断力に、自信を失っていた。自意識すら形成されていない、赤ん坊の脳を抜き取る事が、正しいというのか?

博士の声が響く。

「これが、人脳の心だ。生きていることは、素晴らしいことなのだ。何事にも代えがたいことなのだ。分かったかね? ティム。人脳は、立派に生きている。かけがえの無い存在なのだということを」

ティムだけでは無い。ハオランもアナンドも戸惑っていた。頭がおかしいのは、奴らなのか? それとも自分達なのか?

エレナは思う。

「ようやく、健常者の肉体を手に入れることが出来たわ。しかも4体もよ。これで、念願のトップ・アスリート仕様のバーチャル・ボディーを完成させることが出来るわ。そう、より完璧な物が。しかも、アスリートの小脳まで無傷で手に入れられたのよ。これを、人工小脳にアップロードしたら、更に運動機能の精度が上がるわ」

博士は思う。

「子供の脳は、物覚えが良い。乾いた砂に水が染み込むが如く、記憶の天才だ。これを電脳に接続すれば、大人なんかより格段に早く馴染むことだろう。電脳拡張された子供の脳、将来が実に楽しみな存在だ。更には、赤ん坊の脳まで手に入れた。これを、アンドロイドの運動機能へと直接つなぐのだ。人間の体では無く、アンドロイドの体で、立ち歩きを覚えることだろう。これを元に、人工小脳を作れば、――――。もう、ティムに頼る必要も無くなるだろう」

ティム達と邪悪な存在の対決は、一対一では無かった。そう、既に、邪悪な存在は、複数存在するのであった。


ボブとの定例秘密会議だ。

ティムは、ボブからも新しい人脳達に対する、意見を聞きたかった。

ボブが、しゃべり出す。涙声になっている。

「オギャー、オギャーって、泣いているんだ。赤ん坊が泣いているんだ。母親とも別れて、独りぼっちさ。こんな残酷なことってあるかい。俺はとても、赤ん坊が幸福だとは思えないな。母親の顔さえ見ることが出来ない、赤ん坊が、――――」

アナンドも悔しそうだ。

「人脳の赤ん坊を、どうやって育てるのね? 未発達な脳を、どうやって育てるのね? 絶対におかしいね。とても人間のやることでは無いね」

ハオランも思いは同じだ。

「エレナや博士達にとっては、単なる研究材料よ。赤ん坊を人間として扱うつもりなど毛頭無いよ」

ティムが、自分の思いを語る。

「他の、人脳達は、既に、博士の洗脳を受けている。新入りの人脳にとっては、博士は、神のような存在なのであろう。だから、あのような、人脳礼賛が、起こるんだ」

ボブが訂正を入れる。

「一概に、全員が洗脳されている訳では、無いようだ。中には、俺のように、嵌められたと疑っている奴らもいる。自分が何で人脳にされたのか納得できない奴らも、少なからずいると言うことさ」

ティムが興味を持つ。

「人脳になるには、本人の同意が必要なはずだ。納得してないと言うことは、どういうことなんだ? 実際に人脳になってみると、なる前に聞いていた話と違っていたとか」

ボブが答える。

「そういうんじゃ無いらしい。そいつらには、人脳になる前の記憶が明確に残っていない様なんだ。何らかの事故に巻き込まれて、意識を失ったとこまでは覚えているが、意識が戻ってみると、いきなり自分が人脳になっていたというパターンさ。まるで、この俺の様にな」

何か、陰謀めいたものが感じられる。ティムは、思い出した。前にエレナが、健常者の肉体を欲しいと言っていたことを。

「多分、そいつらは、嵌められたんだ。例えば、事故に遭い、医者から家族に脳死だと告げられる。そして、家族が、臓器の提供に承諾したとか。エレナならやりかねない。その事故だって怪しいものだ。わざと事故に遭わせたのかもしれない」

アナンドが、ボブに尋ねる。

「それ、どういう人達ね? 職業とか、分からないかね?」

ボブが思い出しながら答える。

「職業は、様々だが、共通していることと言えば、皆、何らかのスポーツ選手だったぐらいだな。オリンピック候補にも選ばれた、優秀な奴らばかりだったが、スポーツだけでは、食っていくことが出来なくて、働いているような」

ティムには、ピンときた。

「エレナは、優秀なアスリートの肉体と小脳も欲しがっていた。オリンピック候補と言うことは、トップ・アスリートの証明だ。だが、マイナーなスポーツ、そして、その分野で一番を取れなければ、スポーツ専門で食っていくことは難しい。経済的に余裕が無いはずだ。脳死だと家族に告げ、多額の謝礼で、臓器提供の話を持ちかければ、乗ってくるかもしれない」

ハオランも確信する。

「それよ。今、私も思ったよ。あの女は、冷酷で残忍よ。それぐらい、してきても、おかしくないと思うよ」

その時、思いもよらぬ訪問者が、3人の前に現れた。エレナだ。彼等は、慌ててボブを隠し、エレナを、自分達の居る部屋へと迎え入れた。一体、何の思惑があって来たのだろうか?

エレナの方から先に話しかける。

「さっきは、あなた達に不快な思いをさせて、ごめんなさい。あれは、私の本心じゃ無いの。博士が居る手前上、ああした発言を取らざるを得なかったの。本当にごめんなさい。私は、その誤解を取り除きたくてここに来たの」

果たして、これはエレナの本心なのか? 彼等は、更に疑いの目を向けた。何か魂胆があって、ここに来たのであろう。

エレナはそんな雰囲気を察してか、神妙な面持ちで、本音で語り始める。

「あなた達が私を、不審に思うのは、無理も無いわ。だって、私は、人体を切り刻むことに無情の喜びを感じる人間なのだから。でも、誤解しないで欲しいの。私だって、赤ん坊や、健常者の人脳を取り出すことに、強い罪悪感を抱いている。そのことは、理解して欲しいの」

まるで、ボブと3人の会話を盗み聞きしていたかのような、発言だ。この女は怪しい。3人の疑念はとても晴れそうに無い。

それを感じ取ったのか、エレナの表情は、更に悲しみを帯びた色に変化した。

「私のやったことを許してくれとは言わないわ。私があなた達を裏切ったのは、紛れもない事実なのだから。でも、お願い。私には、どうしても、あなた達の協力が必要なの。博士の暴走を止めるために、あなた達の協力が必要なのよ」

ティムが、重い口を開く。そして、エレナを突き放す。

「エレナ、『博士の暴走は止めたい』。この点に関しての我々の利害は一致しているのかも知れない。しかし、信頼関係を結べない相手をパートナーに迎え入れる事などとても出来ない相談だ。君が信頼に足る人物か、確証が取れなければ、我々は、協力できない。それを証明してくれ」

エレナが誠意を込めた表情で語りかける。

「分かったわ。私が本気であることを、証明するわ。私は人脳になる決意を固めた。その目的は、私が博士と同等以上の立場となり、博士の自由な振る舞いを封じ込めるため。そのために、あなた達の開発している第2世代人工海馬、HG2を装着する最初の人脳に私を選んで欲しいの。HG2なら、博士からの洗脳攻撃もブロックできる。そして、これまで不可能であった、人脳間の会話のモニター、それが可能となる。私の頭の中を完全に丸見えにすることだって出来るのよ。これで、私の覚悟は、分かってくれたでしょう? 私は、あなた達に、私の思考を全てさらけ出す。これでも私を信用できないなら、私は、人脳となることを諦めるわ」

エレナは、凄みのこもった瞳で、3人を睨みつける。彼女の本気度が、ジリジリと伝わってくる。

ハオランが返事をする。

「あなたが本気なのは、分かったよ。でも、HG2とて、完璧という事は、保証できないよ。博士からの思考ブロック機能は、現段階のシミュレーション結果では、完璧といえるけれど、将来、それを上回る手段が出現しない保証は無いよ。失礼だけど、あなたは、博士ほど知能が高くないよ。博士に100%勝てる保証など無いに等しいよ」

エレナが力強い言葉で返す。

「だから、あなた達の協力が必要なの。私一人で博士に勝てると考えるほど、私は自惚れていないわ。人脳となった後でも、必ずあなた達との協力関係が必要なの。お願い、私に協力して」

エレナの目は、涙で濡れていた。エレナが泣くなんて、思ってもみないことであった。

3人は、互いを見つめ合い、確認を取る。ティムが、彼女に語りかける。

「分かった、できる限りの協力をするよ。だけど、これだけは、必ず約束するんだ。邪悪な存在になるな」

「分かったわ」

そう言い残すと、涙をぬぐいながら、エレナは部屋を後にした。

隠しておいた、ボブが警告する。

「女の涙は、際物だ。騙されるんじゃ無いぞ。気をつけるんだな」

その通りだった。部屋を立ち去ったエレナの表情には、不敵な微笑みが宿っていた。

「どうやら上手くいきそうね」

人脳の思考はモニター可能だが、人間の思考、特に女の思考は、モニターすることは、出来ないのだ。女は女優。気をつけるに超したことは無い。


「博士、エレナがティム達と内緒話をしていたわ。いつも反目していた二人が。それって、何か怪しくない?」

マリアが、得意の告げ口をする。

博士が確認する。

「エレナは、君の上司であろう。君は、絶えず彼女のことを見ているはずだ。何か怪しい兆候は、見られなかったのか?」

マリアがぼやく。

「あの女、白を切るのが上手いのよ。自分の本心は見せないで、私達に命令するだけ。大っ嫌い。今は、自分が人脳になることしか、興味が無いみたい。良いなあ、私も早く人脳になりたい」

博士が、マリアを慰める。

「マリア、済まない。私には、未だ君の助けが必要なのだ。もう暫く辛抱してくれ」

マリアが、悲しそうな顔で、博士に尋ねる。

「博士、エレナが人脳になったら、私は、どうなるの? エレナの後を、引き継ぐの? 教えて、博士」

博士が申し訳なさそうに答える。

「エレナの後任は、君しかいないだろ。ダニーでは、役に立たない。人脳の大量生産技術の確立、この大任を任せられるのは、君しかいないのだ。もう暫くの間、待っていてくれ」

マリアは、がっかりした。

「分かったわ。もう暫く、こっちで頑張ってみる。それが済んだら、博士、私をそっちに呼んでね。約束よ」

「分かった、約束しよう。君が、人脳になったときには、私の側に置くことにしよう」

「嬉しいわ、博士」

当分の間、マリアは、博士のスパイとして、暗躍を続けることになりそうだ。今後、ティム達にとって邪魔な存在となることであろう。


エレナの人脳取り出しがスタートした。執刀したのは、人脳となった脳外科医ブラウン博士であった。これは、人脳を使った初めての試みである。彼も、また、健常者から人脳となった者の一人であった。彼もエレナ同様、いわゆる『神の手』を持つ存在であり、彼の小脳データは、人工小脳へとアップロードされていて、現役さながら、いや、それ以上の手腕を発揮するのであった。

しかし、彼は、嵌められた訳では無かった。自ら志願して、人脳となったのである。彼は、エレナとは旧知の間柄で、脳外科医同士として、世界学会で知り合った。エレナは、信頼の置ける彼だからこそ、自分の人脳取り出しを、安心して任せることが出来た。

彼が、人脳となる道を選んだ動機は、天才脳外科医としてのプライドを守るためであった。彼も、寄る年波には勝てず、近頃ではパーキンソン病を患い、手の震えにより、思い通りの手術ができないでいた。そんなところに、エレナからの誘いが有ったと言う訳だ。

一方、ティム達は、第2世代の人口海馬、HG2の最終確認に取りかかっていた。彼女の人口海馬にも、ボブと同様に、ホットラインを繋ぐ予定だ。

エレナは、HG2を使い、博士に洗脳された者達の思考を解放してゆくつもりだ。彼女の人脳を本当に信用して良いのか、正直、ティムは、確信を持てなかった。もしかしたら、博士をも上回る邪悪な存在となるかもしれない。しかし、このまま、何もしないと、博士の思惑通りに、事が進むことになる。毒をもって毒を制す。エレナの人脳誕生を待とう。ティムは、淡い期待を寄せるより他に無かった。


西暦2029年1月。


それは、ある日突然起こった。世界規模の金融不安だ。リーマンショックをも超える100年に一度と言われる規模の金融不安が、再び世界を襲ったのである。

世界は、同時株安の荒波を受け、市場を流通するマネーの量は、極端に不足した。信用不安に端を発した大不況が世界を覆い、世界経済は、恐慌の縁へと押しやられていった。

経済アナリスト達は、一体全体、何が起こったのかを説明できず、困惑していた。

ティムとハオラン、アナンドには、犯人の目星がついていた。奴らが、奴らが動いたことに間違い無い。

3人は、人脳のある研究室へと向かった。しかし、扉の前では、マリアとダニーが立ちすくんでいた。

ティムが声を掛ける。

「何があったんだ? どうして中に入らない?」

マリアが答える。

「入れないのよ。何者かにロックされて入れないの」

ティムが何とかロックを解除しようとする。ハオランとアナンドに命じて、扉を制御するシステムへとアクセスを試みる。

「開けろ、開けるんだ。私は、最高責任者のティモシー・ペンドルトンだ。私の命令を無視するな。誰の権限で、扉をロックしているのだ!」

しかし、システムからの返答は、一切無い。時間だけが、刻々と過ぎ去ってゆく。ティムは、焦りの色を隠せない。

「ラリー、どうしてここへだ」

ダニーが、ラリー・ターナーCEOの到着に気付く。

走ってきたのか、息を切らせ、ラリーが状況を説明する。

「ニューマン博士に、呼び出されたんだ。我が社の重要な経営方針について話がしたいと。一体何を?」

すると、今まで閉まっていた扉が、突然開いた。

全員が、研究室の中に入り込む。25体の人脳が入った水槽がある研究室へと。

ラリーが、驚愕する。

「何だ、この脳の数は? 一体いくつあるんだ?」

「25体だよ、ラリー」

博士の声だ。

「今は、人脳の数などどうでも良い。ラリー、君と直接、話をしたいんだ。我々は、クールGの株式の過半数を既に所有している」

ラリーの顔が真っ青になる。

「何だって? そんな真似できるはずがないだろう? どういうことだ?」

勝ち誇った、中年男性の声がこだまする。金融屋のノアだ。

「我々には、莫大なキャッシュがある。その気になれば、合衆国丸ごと、買い取ることだって可能なキャッシュが。暴落したクールGの株式ごときを、手に入れることなど、極めて簡単な話しさ。所詮、資本の論理の前では、敵対的買収を完全に防ぐことなど、不可能なのだよ」

ティムが叫ぶ。

「やはり、お前達か? 今回の金融不安を引き落とした犯人は!」

博士が、多少怒気の強めた言葉で反論する。

「犯人とは、失礼な奴だな、ティム。我々は、国に変わって税金を徴収したまでのことだ。タックス・ヘイブンとやらに逃避していた金を税金としていただいただけのことさ。これは、世のため、人のために、行っているのだ。強欲な富裕層達が溜め込んだ金を、世の中に環流してあげるのだ。人類の未来のために、積極的に投資するのだ」

金融屋のノアも無責任に口を挟む。

「もともと、表の市場には、出回っていない金だ。一時的に、経済活動に混乱を招くかもしれないが、いずれは、落ち着く所に落ち着くであろう」

これが、奴らの狙っていたことか。全世界の富裕層達が隠し持っていた資産全てを積み上げると、一体どれくらい巨額になるのだ。

「博士、これは立派な犯罪よ。どんな言い訳したって、立派な犯罪よ。あなた、完全なる邪悪な存在よ」

ハオランの叫びを無視するかのように、博士が語り続ける。

「隠し資産そのものが、犯罪なのだ。誰が、どのようにして、私たちを裁くことが出来るのかね。そもそも隠し資産なのだ。表面上、この世には存在しない虚像だ。その虚像が消えたことを、どのように証明できるのだ」

彼等がじっくりと時間を掛けて、練り上げてきた犯罪だ。既に証拠となる物など、実世界には存在していないだろう。博士の言う通り、犯罪として立証すること、訴えることなど、出来ないはずだ。

ティム達の怒りは、収まらない。完全犯罪をやり遂げたつもりでいるようだが、黙認することなど出来ない。しかし、一体どうやって、博士達に対抗すれば良いのか? 巨万の富を得た存在に、どのように立ち向かってゆけば良いのか? 希望を託していた、エレナの人脳は、間に合わなかったのだ。

ラリーが博士に語りかける。

「君達は、私を解任するつもりらしいな。どうせ、君達の言いなりとなる新たな経営者にすげ替えるつもりなのであろう」

博士が優しい声でラリーに話す。

「ラリー、私は、経営者としての君の手腕を高く評価している。解任するなど、これっぽちも思ってい無い。ただ、人脳プロジェクトを、クールG本社から独立した企業とすることを、ここに要求する。そして、人脳プロジェクトの最高責経営任者、つまりCEOを私にすることを」

ラリーには、賛成するより他に選択肢は無かった。反対すれば、即刻、首を切られるだけ。そして、同じ結末になるだけだ。

「分かった、了承しよう。ただ、人間としての実体の無い君が、どうやってCEOの座に着くというのだ?」

「私は、法律上、未だ、生きている存在だ。肉体が無くとも、何の制限もあるまい」

「そうだろう。分かった、全て君の言う通りにすれば良い」

ラリーは、悲しみの表情を浮かべ、両手を開いて降参の意を表するしか無かった。

ティムは、親愛なるラリーへ掛ける言葉さえ、見つけることが出来なかった。自分の生涯を捧げて、大切に育て上げてきたクールGを失ったのだ。

これにて勝負は、決したようだ。彼等の間に、絶望感が広がってゆく。博士が、暴走する前に止めることが出来なかった。エレナの人脳は、間に合わなかった。

「わっ、は、は、は、は、は―――――」

博士の勝ち誇った、高笑いが響き渡る。

「今日は、我々にとって、良き船出となるであろう。ラリー、今回の件で、クールGは、莫大な利益を得ることになる。まさしく、ウィン、ウィンだ。そして、世界にとっても、この事は、大いなる福音となるであろう」

ティムの心の中には、無力感だけが広がってゆく。

そんなティムを見て、博士が声を掛ける。

「ティム、君は新会社での要職に留まってもらう。辞めようだなんて、馬鹿な考えは起こすな。さあ、君も人脳となるのだ。共に人脳となって、この世界を新たに作り替えてゆこうでは無いか」

ティムは、とてもそんな気にはなれなかった。しかし、このプロジェクトだけは、降りてはいけないとも感じていた。博士の暴走を止められる可能性がある人間は、自分達の他にはにいないのだから。さもなければ、世界経済さえをも牛耳りかねないモンスターを、黙って野に放つことになるのだ。


西暦2029年3月。

アメリカ、シリコンバレー、クールG 某研究室。


研究室に26体目の人脳が設置された。ドクター・エレナ・フィオーレ。初めて第2世代人工海馬HG2を持つ人脳だ。当然のことながら、従来の第1世代人工海馬との接続試験は、慎重に行われた。ティム達が設計した物だ。博士とて、安易には、受け入れる事など無い。トロイの木馬として、送り込まれた物かもしれないのだ。

博士は、コンピューター・オタク達の人脳を総動員して、確認作業に入る。

「どういうことだ、ティム。私との円滑なコミュニケーションを取れないでは無いか。何か細工をしたのは明白だ。理由を述べよ」

ティムは、白々しくしゃべる。

「博士、以前、隠語を使ったコミュニケーションでは無く、私たち人間にも分かるコミュニケーションを約束しましたよね。コミュニケーションの可視化が目的の仕様変更です。何か問題でもありますか?」

博士は、暫し考え込む。思えば、邪悪な存在となることを防ぐために、人脳の思考モニターを提案したのは、この自分だ。しかし、博士の思考はモニター不能となり、邪悪な存在へと変貌を遂げた。今回の人工海馬HG2は、それを防ぐため、隠語での会話を、一切、使えなくさせたのだ。

博士の結論が出た。全ての会話がモニター可能なHG2であれば、自分にとって特に不都合な存在では無い。自分の意のままに、操ることが出来ない存在となるかも知れないが、受け入れても問題ないと判断した。

博士がティムに最終確認をする。

「ティム、正直に話すのだ。人脳社会に悪影響を与えるような、変な細工をしていないことを証明して見せよ」

ティムは、はらわたが煮えくりかえる様な思いだった。人脳社会に悪影響を与えているのは、お前自身の方では無いかと。しかし、ぐっと堪えた。

「HG2の設計に関する図面、資料は、全て公開しています。そちらの人脳達も、設計図と異なる所など指摘していないでしょう。私には、邪心なんて有りません」

『私には』、この言葉に、博士は少し、カチンときた。人脳である自分が、邪心を持った存在であることを、暗に否定している表現に取れたからである。しかし、博士は、落ち着き払った声で、応えた。

「君が、邪心など持たぬ研究者であることは、私が一番理解している。疑うような発言をしたことは詫びる。しかし、第2世代、HG2になって、色々な機能がバージョンアップをしているではないか。第1世代の我々にしてみれば、不平等な扱いに感じる。HG2が我々を上回る存在になることを懸念する。そこで、私が提案したいのは、君が人脳となり第3世代の人工海馬を設計することだ。それで、我々をアップグレードしてもらいたい」

以前にも、この件に関しては、喧嘩別れに終わっている。自分は、人脳になる気は、全くないのだと。それに、博士の言うアップグレードには、日本の技術をぱくった、3Dニューロ・チップを採用することも含まれている。自分は、それにも反対した。今更、妥協する気持ちなど無い。

「前にも言った通り、お断りします、博士。私の気持ちは、変わりません。そんなに人工海馬をアップグレードしたいのなら、私達が作成した、HG2に交換すれば良いでは無いですか。自信を持って、お勧めします」

「君も、分からない奴だな。この世界は、凄まじいスピードで変わり続けているのだ。私にとっては、HG2ですら時代遅れなのだ。そして、当然、君自身も変わるべきなのだ」

何が、世界は変わっているだ。ティムは、腹立だしく思った。貴様らが、世界の金融システムに異常を起こして変えたのでは無いか。

しかし、以前、喧嘩別れしたときには、「新しい人工海馬は、人脳達で設計する」と自信ありげだった。だが、未だにティムに頼ってくると言うことは、人脳達がそのレベルに無いことを意味する。人脳達が、ティムの技術レベルにまで到達していない、更には、当面の間は達する見込みが見えないと言う事実が明らかになったのだ。これは、こちらにとって、大きなアドバンテージだ。

博士は、恐れているのだ。自分を超える人脳が現れることを。今、現に、HG2を持つエレナを恐れている。更には、その先の人工海馬設計の鍵を握る人物、ティム自身をも恐れているのだ。

未だ、博士に勝つ可能性はある。逆転の目はある。ティムは、静かなる闘志を燃やすのである。


エレナとのホットラインでの会話が始まる。3人が、エレナの顔が浮かんだディスプレイを取り囲み、会話が始まるのを待つ。

「あら、3人とも既にお揃いね。それじゃ、内緒話を始めましょう」

彼等は、エレナから色々と情報を得ることができた。自分が人脳社会に受け入れられはしたが、未だ、完全には溶け込めていないことを。彼等第1世代の人工海馬を持つ者達は、未だに隠語を使い、訳の分からない相談をしていることを。博士は、当然、エレナに隠語の情報は、渡していない。エレナのHG2モニターを通して、ばれることを避けるためだ。未だ、何か悪巧みを講じているのであろう。今度は一体何をするつもりなのか?

ボブの声が響く。

「この間、博士がベッキーに話していたぜ。赤ん坊が可愛くて仕方が無いとな。もっと、もっと、赤ん坊が欲しいそうだ。まあ、自分で作れないのは、仕方の無いことだが、人の赤ん坊を更に盗んでくるつもりとは、言語道断だ。全く反吐が出るぜ」

エレナが驚く。

「あなた、ウイスキー・ボブじゃない! こんな所に出入りしていたの?」

「久しぶりだな、エレナ。あんたもこっちへ来たという訳か。今後、よろしく頼むぜ」

赤ん坊の人脳は、完全に博士の実験材料にされているようだ。真っ新な人脳を使い、一体、何を企んでいるのか。

また、ボブが仕入れた情報によると、小学生を集めたアカデミーを開校しているとのことだ。ここで、博士の後継者となるべき人脳を、英才教育しようという腹づもりらしい。当然、講師には、博士が含まれている。全く、とんでもないことを考えつく者だ。

また、エレナは、自分に与えられた役割についても、説明してくれた。それは、マリア達と協力し、如何に効率よく人脳を大量生産するかについてだ。エレナの知識、小脳から取り出した『神の手』の技術を使い、無人で大量に人脳を取り出す事が出来る工場を世界各地で一斉に立ち上げるらしい。この様なことが可能なのは、天文学的な研究資金を潤沢に投入できるからだ。

もう一人の、人脳の脳外科医、ブラウン博士とも、話し合いながら作業を進める予定なので、彼から、隠語に関する情報を聞き出せるチャンスがあれば、それを狙う予定とのことだ。

また、今後、生産する人脳全てに対し、HG2を装着させる方針をエレナが強硬に主張し、認めさせたとのことだ。これにより、博士の洗脳を防ぎ、エレナに協力する人脳を増やす。そして、博士に対しうる勢力を作り、優位な立場を構築するつもりらしい。

今のところ分かっている情報は、以上だ。次回会合まで、彼女たちには、引き続きスパイ活動に励んでもらうことになる。


それから2週間ほどが過ぎた。ティムが職場で、落ち着きの無い行動を取る。席に着いたり離れたりで、心ここに有らずと言った状態だ。ずっと、何かに狼狽え続けている。心配したハオランとアナンドがティムに事情を尋ねる。

「ティム、大丈夫? あなた、何か変よ?」

「心配事があるなら教えるね。私、力になるね」

ティムが、うつろな目で答える。

「モリーが、彼女が昨日から居ないんだ。全く連絡がつかなくって、昨日家に行っても、居る気配が無いんだ。スマホの位置情報も確認したんだけど、不明のままだ。一体、彼女の身に何が起きたかと思うと、居ても立っても居られなくて、――――」

職場でも、ティムとモリーは、スマホで時々会話をしている。今日は何をしたとか、週末のプランはどうしようとか、たわいも無い話だけれど、彼等は、頻繁に連絡を取り合い、互いを想い合っている。仕事の忙しさに、我を忘れかけるティムにとって、彼女との電話は、二人の絆をつなぎ止めるために、不可欠なものだった。

そんな彼女との連絡がつかなくなって、今日で二日目になる。ティムが不安がるのも分かる。

「旅行に行ったとか、聞いていないかよ? きっと、スマホを忘れていったのよ」

「ご両親の所には、連絡したね? 友達はどうね?」

ティムも連絡の取れる範囲には、全て連絡した。彼女のスマホは、ブレスレット状のもので、シャワーを浴びるときには、外すことがあるが、それ以外は、眠るときにも手首に装着している。バッテリー切れといった、うっかりもするようなタイプでは無い。

旅行をするにしても、彼女は、スマホを旅券代わりに使っている。何か事件や事故に巻き込まれていなければ良いが。

「警察に、捜索願を出すよ。それ、とっても心配よ」

ティムは、警察に捜索願を出した。自宅にも確認のため、入ることをお願いした。しかし、家の中には何の痕跡も無く、有力な手がかりは、一切見つからなかった。犯罪や事故に巻き込まれたという情報も入っていなかった。

ティムの心の中は、日増しに不安が大きくのしかかり、とても仕事に集中できない状態だった。

見かねたアナンドが、休暇を進めた。

「ティム、家で少し、ゆっくりするね。大丈夫、彼女、帰ってくるね」

「ありがとう、アナンド。君達の仕事に支障を来して済まない。でも、家に居るよりも、職場の方が、気が紛れるんだ」

ハオランも、とても心配している。

「分かったよ、ティム。仕事は心配ないよ。大丈夫、悪い考えは、良くないよ」


そんな中、エレナとボブとの定期連絡会が開かれた。

ボブもティムの表情の異常に気が付き、心配する。

「そんな深刻な顔をして、何があったんだ? 言ってみな」

ハオランとアナンドが代わりに事情を話す。

すると、エレナが、あることに気が付く。

「今も、毎日のように新たな人脳の取り出しを継続している所よ。現在、製造完了の者は、58体、製造中の者は、22体にも上るわ。年内に200体まで増やす予定よ。丁度、彼女が失踪した日も一人、年齢の近い白人女性が、運ばれてきたけど。名前は、確か、モリー・何だったか」

「えっ、モリーだって!」

ティムが驚きの声を上げる。

エレナが電脳記憶を頼りに詳細を説明する。

「確か、この近辺で、事故に遭っているはずよ。あったわ。モリー・ウィルソン。26才。女性。白人。失踪前日の深夜ね。救急病棟に運ばれてきたときには、もう手遅れの状態で、こちらに搬送されてきたわ」

ティムの顔面は、蒼白に変わり、頭の中も真っ白となった。

「まさか、モリーが。まさか、」

ティムは言葉を失った。

エレナが、追加情報を上げる。

「搬送当時の彼女の写真があるわ。ああ、非道い怪我。ティム、あなたにこれを見る勇気はある?」

ティムは、頭のどこかで、彼女で無いことを望みながら、「ああ」とだけ呟く。

写真が表示される。

「あっ!」

ハオランとアナンドが息を飲む。ティムは、完全に望みを失った。

ボブが嘆き声を上げる。そこには、以前、ティムに見せてもらった、彼女の変わり果てた顔があった。

「何てこった、畜生!」

ハオランが、疑問を投げかける。

「何で、モリーが人脳にされるよ? モリーの両親も、何も知らないって言ってたよ。本人、これ程の怪我なら、意識無いはずよ。何で? 何でなのよ?」

確かに、ハオランの指摘通りだ。人脳となるには、本人の了承が、必要だ。本人に判断能力が無い場合に限っても、家族の承認が最低限必要になる。しかし、今回の場合は、そのどちらにも当てはまらない。

エレナが、確認を取る。

「今回の場合は、本人の生前同意があった、と言うのが人脳化の理由のようね。モリー・ウィルソン。クールG人脳開発最高責任者、ティモシー・ペンドルトンの妻と書類上記載されている。そして、人脳化を最終的に決断した人物、ティム、あなたが承認者となっているわ。モリーとは入籍しているの? あなたが、生前同意を取り付けたことになっているけれど、それは真実なの?」

ティムには、何が何だか分からない。しかし、全てが間違っている。何故そのような書類があるのか? そして、何故、モリーが死の危機に瀕することになったのか? ティムは、ただ泣き崩れるだけだった。混乱状態の渦に巻き込まれて、そこから抜け出すことも困難な精神状態に陥っていた。

ボブが怒鳴り声を上げる。

「ティム、逃げるんじゃ無い。目を見開け、そして真実を見つめろ。お前には、分かるはずだ。嵌められたんだ、奴らに嵌められたんだよ」

しかし、ティムは、茫然自失のままだ。

アナンドがエレナに問いかける。

「人脳と話が出来るのはいつね? 何時になれば、モリーとティムは、話をすることが出来るね?」

エレナが専門家としての見解を述べる。

「現時点の技術レベルでは、脳の全摘出完了まで、約4日、神経組織と、人脳培養装置との結合が完了するまで約2週間、そこから、バーチャル・ボディーへの完全適合まで、更に、2ヶ月ほどかかるわ。ただ、視覚、聴覚機能、人工声帯だけの適合なら、1週間ほどで完了。なので、会話可能になるまで、今から3週間ちょっとと言ったところかしら。後は、ティムのメンタル次第ね。彼女の人脳と向き合えるメンタルが保てるか」

それまで、ティムは、生殺しの状態だ。ハオランとアナンドは、誓い合うのだった。ティムのメンタルを支え続けることを。ティムが、この残酷で無慈悲な現実に向き合える覚悟が出来る日まで。

ボブがエレナに話しかける。

「あんた、詳しいんだろう? 事故に見せかけて、人脳を取り出すやり方を。今回も、あんたがやった手口と、同じじゃ無いのか? おい、返事をしろ、どうなんだ!」

エレナが告白をする。

「ええ、私も、似たような方法に手を染めたことはあったわ。ハオラン、アナンド、あなた達には分かるはずよね。私の思考をモニターできるのだから。ボブの言う通り、私の手口を真似たんだわ。ティムの弱点を握るために」

エレナの声も、涙声になっていた。彼女は後悔していた。自分が今までしてきた仕打ちに対して。こうして、目の前で、家族同然の者が奪われ、苦しみ悩む、ティムの感情が伝わってくることに対して。己が許されざる者、邪悪な存在と化していたことに対して。

もしかしたら、その後悔は、偽りの感情なのかも知れない。エレナ自身さえをも偽る感情なのかも知れない。しかし、確かに、彼女は、後悔していた。そして、それをモニターしている、ハオラン、アナンドにもその感情は、確かに伝わっていた。

余りにもの、残酷な現実に対し、今後、どう立ち向かってゆけば良いのか? 邪悪な存在は、果てしない電脳拡張により、余りも賢くなり過ぎ、巨万の富を得たことにより、余りにも力を持ち過ぎていた。

ティムは、自分の弱さを呪った。愛する者さえも守れない己の非力さを呪った。そして、このような邪悪な存在を増長させた、己の甘さを呪った。

ティムは、これまで自分がしてきたことの影で、どれほど多くの人が苦しんでいるのかを身をもって知った。愛する者を奪われた者達の苦悩、赤子を奪われ、幼子を奪われた親達の苦悩が、いかほど苦しいかを知った。

しかし、ティムは、どうすればそれを償うことが出来るのか、考える力さえ残っていなかった。ただ、今は、泣き伏すことしか出来なかった。ただ、泣き伏すだけだった。


翌日、ティムは、人が変わってしまったかのように殺気立っていた。愛する者を奪われた苦悩の先には、復讐の二文字しか思い浮かばなかった。それは、余りにも危険な、精神状態であり、その先には、何の救いも無いかも知れない。

博士に対しても、面会しようとは思わなかった。恨み言を、思いの丈をぶつけたところで、白々しくあしらわれるだけであろう。今は、ただひたすら、牙を研ぐのみだ。

ハオランとアナンドは、はっきりと、それに気が付いていた。

「ティム、今は、我慢の時よ。耐える、耐えるのよ、ティム」

「感情に押し流されては、いけないね。今こそ、理性を保つことが大事ね」

モリーの人脳との面会の日は、刻一刻と迫ってくる。果たしてその日まで、自分は正気を保つことが出来るのか? ティムの苦悩の日々は続いた。


ティムは、エレナやボブとの定例会にも初めて欠席した。

エレナがティムの精神状態を分析する。

「喪失感、虚脱感の心の傷は、少しは癒えたようね。しかし、それが、怒り、憎しみの感情へと転化し、彼の心を支配していることが心配だわ。それが元で、軽はずみな行動に出ると、それこそ命取りになりかねない。私達にとって、今、ティムを失うことは、壊滅的ダメージに直結するのよ。二人とも、ティムから目を離さないことが必要よ」

ハオランが思い詰めた顔で話す。

「モリーの人脳が、今後、どうなるか心配よ。博士のことだから、ティムを操るための道具として、洗脳される危険性有るよ」

エレナは、その可能性については、否定的だ。

「私以降の人脳は、全て第2世代の人工海馬HG2を採用しているわ。博士から直接洗脳を受ける可能性は、先ず無いわ。ただ、人脳社会における博士の存在は、絶大よ。残念ながら、HG2を使っている人脳達にも、博士の信奉者は大勢いるわ。モリーは、人柄の良い、お嬢様タイプの様だから、その点が心配ね」

アナンドが作戦を提案する。

「モリーに本当のことを言うね。人脳にされた経緯を真実のまま伝えるね。本人は、強いショックを受けるかも知れないけれど、仕方が無いね。彼女、心の底から博士を憎むね。そして、博士が、殺人者であることを、人脳社会に広めてゆけば、人脳達に混乱を起こせるかも知れないね」

ボブが否定的な意見を言う。

「この前、博士に嵌められたと、恨みを持っている奴らの話をしただろう。その後、奴らがどうなったかを教えてやろう。奴らは、人脳社会に溶け込めないまま、孤立することになった。しかし、人間にとって、社会から孤立し続けることは、精神的にかなりきつい状態なのさ。俺は、奴らに何度も声を掛けて、博士に嵌められたことを忘れるな、恨みを忘れるなと訴え、団結を進めてきた。奴らも博士のことを心底、憎んでいたかも知れない。しかし、一人、また一人と孤立に耐えられなくなり、自分の心を伏せて、人脳社会の一員となっていった。今では、残っているのは、たった、一握りさ」

ハオランがボブに尋ねる。

「ボブは、博士を恨んでいるけれど、孤独では無いのかよ?」

ボブは、あっけらかんとして答える。

「俺が孤独? 俺は立派な人脳社会の一員さ。バーチャル世界での娯楽に対し、絶大なる権限を握っている。まあ、いわゆる娯楽界の帝王と言ったところかな。なんだかんだ言って、博士は、俺に頼らざるを得ないのさ。売春宿を通して、博士の欲望を支配している側だ。こっちも、新たな娯楽サービスを次々に提供しては、博士達を飽きさせないように努力をしているんだぜ。表面上は、博士と宜しくやっているというわけだ」

ハオランは、ボブの逞しさに、改めて恐れ入るのであった。

エレナが、今後の計画を説明する。

「モリーが孤独感を抱かない様、私からも、しっかりとサポートするつもりよ。しかし、あの子に、芯の強さがあるかが、肝心ね。人間は、社会的な生き物。どんなに非道く憎んでも、孤独に生きてゆくことは、辛い道よ」

ハオランが、エレナに尋ねる。

「エレナは、人脳社会に真実を解いて回り、博士の悪行を知らせているよね。他の人脳達は、そのことについて、どう思っているよ?」

エレナが自分の力不足を露呈する。

「それなんだけど、なかなか上手くいかないのが、実情ね。先ず、第1世代の人工海馬を持つ25人については、ボブと若干の者を除き、完全に博士の言いなりね。忠実な下部だわ。第2世代は、着実にその数を増やしているけれど、基本、博士からの説得を受け、自ら望んで人脳となった人達が多いの。その人達にとって、博士は、言わば命の恩人の様な者ね。そんな人達は、私の意見よりも博士の意見を尊重する傾向にあるわ。いくら博士が、悪行を積み重ねている事実を知らせても、それは、必要悪だと考える。自ら志願しなかったモリーは、少数派だけど、それでも、博士の甘言に騙されない保証は無いわね。それ程、博士の存在は、人脳社会において、絶大と言うこと。私もHG2の能力を使い、多数派工作を仕掛け、世論をリードし、博士に対抗する勢力を結成する計画だったけれど、今のところ、上手くいっていないのが実情よ」

しかし、心の中では、エレナは、諦めていなかった。彼女は、知っての通り、非常に芯の強い女性だ。そして、博士の存在に対抗すべく、自ら進んで人脳となった唯一無二の存在だ。彼女は、諦めてはいなかった。いつか再び、人脳を選別する側に回り、新たな人脳を、自分の下部とし、博士に対抗する勢力を作るのだ。博士よりも優れた人工海馬、HG2の力を借りて。

話を戻そう。皆、ティムのことを、心の底から心配していた。今は、ただ、モリーとの面会の時を待つのみであった。そして、それが、どの様な結末に成るのか。それは、誰にも分からなかった。


ついに、ティムがモリーと面会する時を迎えた。ティムの傍らを、ハオランとアナンドが心配そうに固める。

今、目の前の水槽には、モリーの人脳が安置されている。その上のモニターに、生前のモリーの顔が映し出された。

「モリー、聞こえるか? 僕だ、ティム、ティムだよ」

モリーの脳が眠りから覚める。

「誰、私に話しかけるのは? 聞き覚えのある声」

「モリー、目を開けてくれ、見えるかい。僕だよ、ティムだよ」

モリーの人工網膜にティムの顔が写った。

「ティム、ティムなの? どうしてここにいるの? 嬉しい、ずっと会いたかった」

モリーの意識が目覚めた。彼女は、自分が、今、どういう状態なのか、理解しているのであろうか?

ティムが、目を潤ませながら、語りかける。

「僕も、ずっと、ずっと会いたかった。ようやく会うことが出来て良かった」

スクリーン上のモリーの目にも涙があふれていた。

「ティム、ごめんなさい。私、脳だけの存在になったの。私の体は、壊れてもうこの世には無いの。もう、あなたに抱きしめてもらうことさえ出来ない。本当にごめんなさい」

「何を言っているんだ、モリー。愛している、今でも愛している」

どうやら、誰かが、モリーの脳に、既に、アクセスしたらしい。自分が脳だけの存在であることを自覚している。

アナンドが声を掛ける。

「あなたが、何故ここにいるか分かるね? どうして脳だけになったか分かるね?」

モリーは、ゆっくりとまぶたを閉じ、再び開きながら話し始める。

「私、命を救ってもらったの。交通事故から命を救ってもらったの」

既に、誰かに心を操作されている。無意識の内に、命の恩人へ感謝さえしている。

ティムが覚悟を決めて語りかける。

「モリー、今まで君に話すことが出来なかったけれど、ここが僕の職場なんだ。人脳を取り出して電脳と繋ぐ。これが僕の仕事なんだ」

モリーが不思議そうな顔をして、ティムに問いかける。

「そう? ここがあなたの職場なのね。私を助けてくれたのは、あなただったのね?」

ティムは、どう切り出せば良いか、迷っていた。君は、嵌められたのだと。しかし、ティムは意を決し、手で涙をぬぐいながら語りかける。

「違う。君を助けたのは僕では無い。君が脳だけになった理由は、――――」

突然、モニター上からモリーの顔が消えた。

研究室に音声が流れる。

「新しい人脳との会話を終了します。人脳が混乱状態に陥りました。人脳保護のために、会話を中止します。次の面会は、24時間後とします」

ハオランが怒る。

「未だ、話が始まった、ばかりよ。他の人脳の時は、もっと面会時間が長かったよ。誰だって、初めての会話の時は混乱するよ。何で中止なのよ」

しかし、無情にも、人脳管理システムは、面会を強制終了させた。人脳保護が目的との口実の元で。3人は、その場に、呆然と立ちすくむのみであった。


次の日、面会の時が訪れた。再び3人が、モリーの人脳の入った、水槽の前に集まる。

ティムが、話しかける。

「モリー、また会いに来た、ティムだ。ティムだよ」

スクリーン上に、モリーの顔が映し出される。何だか昨日よりも悲しそうだ。

「ティム、ごめんなさい。こんな体になって、ごめんなさい」

「何を言っているんだ、モリー。僕は、今でも真剣に君を愛している」

しばし、沈黙の時間が続く。モリーの顔は、更に悲しそうになる。

「ティム、もう、私のことは、諦めて。あなたには、もっとふさわしい人が必要よ。だから、こんな、脳だけになった私のことは、諦めて」

ティムは、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。彼女が別れ話を切り出してくるなんて、全く思ってもみなかったからである。

「どうして、どうしてなんだ、モリー!」

ティムが悲痛な叫び声を上げる。

モリーが、語り続ける。

「私、あなたと家庭を持つことが夢だったの。優しいあなたと、かわいい子供達に囲まれて、幸せな家庭を持つことが。でも、もう、その夢は叶わないわ。私はもう、諦めたの。だから、ティム、お願い。あなたも、諦めて」

ハオランとアナンドには、掛ける言葉さえ無かった。

しかし、ティムは、諦めきれない。

「例え、君が脳だけの存在でも、僕は君を愛し続ける」

ティムのすすり泣く声が聞こえてくるが、スクリーン上のモリーは、既に冷めた表情になっていた。

「ティム、もう、いい加減にして! 心にも無いことを言わないで。私をこんな体にしたのは、あなた達なんでしょ? 知っているわ。私が巻き込まれた交通事故も、仕組まれたものだって事を」

えっ! ティムは、我に返った。モリーは、今、僕達が犯人であると言った。

「何を言い出すんだ、モリー。誰からそんな事を聞いたんだ? 嘘だ、それはデタラメだ。君は騙されているんだ」

「私、自分のカルテを見たわ。そして知った。手術の承認者が、ティム、あなただと言うことを」

「君は、嘘のカルテを見たんだ。信じてくれ。僕は、君が事故に遭ったことすら知らなかったんだ」

「嘘だという証拠が何処にあるの? 私は、執刀医のブラウン先生から直接聞いたのよ。君は、嵌められたんだって」

「嘘だ! 騙されるんじゃ無い。僕の言うことを信じろ」

「そんな、あなたを信じるなんて無理よ。今の私には、人脳となった私には、――――」

ここで、スクリーンから、モリーの姿が消えた。

再び、研究室に音声が流れる。

「人脳との会話を終了します。人脳が混乱状態に陥りました。人脳保護のために、会話を中止します。次の面会は、24時間後とします」

ハオランが、また怒り出す。

「だから、何でなのよ! おかしいよ。昨日と全く同じパターンよ。おかしいよ」

彼等は又しても、モリーとの会話を諦めるしか無かった。

ティムは、混乱していた。お互い、心から理解し合い、深めた強い絆が、がらがらと音を立てて、壊れてゆく感触をティムは感じていた。

悲しみの表情にあふれていたモリーが、豹変して、冷酷な目差しを向けてきた。そして、自分のことを犯人だと罵り、嘘つき呼ばわりをした。

自分が彼女の性格を一番理解していると信じてきた。しかし、初めて見せつけられた彼女の感情の激変に、驚き、戸惑うしか無かった。今までと何かが違う。彼女自身も、このショッキングな体験を経て、感情が乱れてしまったのであろうか。

ティムは、焦った。彼女の誤解を早急に解かなくては。他の人脳達から、偽りの情報を与え続けられ、それを信じ込まされている。何とかして、彼女の目を覚まさなくては。


翌日も、ティムは、モリーと面会した。彼女は、もう、二度と会いたくないと、拒絶してきたが、粘り強く説得し、こうして面会にたどり着いたのだ。

モリーの表情には、ティムへの愛情は、もう残っていないように思えた。

「今日は、何の用で来たの? 昨日の続き? 私は、沢山の人脳の人達と交流をしたわ。皆、私の気持ちを理解してくれた。そして、慰めてくれた。私は、もう迷わない。彼等を信じることにしたわ」

一方的な決めつけに、ティムは戸惑いを隠せない。

「もう、僕を信じないと言うことか? 僕たちが今まで築いてきた信頼は、失われたというのか? そうだ、エレナにも、会ったのかい? 脳外科医のエレナ・フィオーレだ。彼女こそが、真実を知っている。彼女なら、君の味方になってくれるはずだ」

しかし、モリーの表情は、変わらない。

「ええ、会ったわ。あの冷酷な嘘つき女が、私の味方? 冗談じゃ無いわ。あんな女、誰が信用するものですか。どうせ、あなたの回し者なのでしょ? それに、ボブという、薄汚い男にも会ったわ。彼も、あなたの回し者のようね? 有ること無いことを、さんざん並べて、私の心をかき乱そうとしたわ。そんな連中を利用して、私を騙そうなんて、あなたって最低ね」

だめだ、モリーは、完全に人が変わっている。こんなに短時間で、人格を変えることが、出来てしまうのか。最新の人工海馬、HG2を用いたとしても、博士達も思惑通りに洗脳されてしまうのか。

ティムは、エレナが常々言っていた、言葉を思い出した。人脳社会においては、心の芯が強くなければ、周りに押し流されてしまうことを。それだけ、人脳社会において、コミュニケーションの力が絶大であることを。モリーは、しっかり者だが、寂しがり屋だ。とても人脳社会での孤立には、耐えられないだろう。今までは、自分が傍らに付き添い、彼女の心を守ってきたが、今では、それさえも叶わない。

そして、今は、ティムに対して、完全に心を閉ざしている。逆に彼女は、圧倒的多数の人脳を相手に、心を開かざるを得ない状況に陥っている。人脳が人工海馬を通して、心を通わせるコミュニケーションは、人間のそれに対して、非常に濃密だ。彼女の心が次第に染まってゆくのは、火を見るよりも明らかだ。

しかし、ティムは諦めきれなかった。何としてでも、彼女の心を取り戻すのだと。


ティムは、毎日のようにモリーとの面会を求めた。しかし、彼女の気分次第で、会ってくれたり、くれなかったりであった。

そんなある時、彼女は、ティムの面会を受け入れ、ある人物を紹介した。

「ティム、こちらは、マーク。私の一番の理解者よ」

モリーのスクリーン上に、彼女と並んで、見知らぬ男が現れる。その男が、ティムに語りかける。

「やあ、君が、ティムか。君、ストーカーなんだって?」

ティムが怒りの表情を露わにする。

「ああ、ごめん、ごめん。つい口が滑って。でも、彼女、本当に迷惑がっているんだ。君は、彼女の元恋人だったんだろ? 往生際が悪いぞ。別れたのなら、さっさと目の前から失せな、この女々しいクズ野郎!」

ティムも喧嘩腰になる。

「お前か、彼女に嘘を吹き込んだ奴は?」

モリーが、迷惑そうにティムの相手をする。

「ティム、彼は、嘘なんかつかないわ。だって、私達、お互いの心が読めるのよ。テレパシーで私達の心は結ばれているの。あなたには、理解できないでしょうけれど、とても強い絆で結ばれているの。ねえ、マーク」

「そう言うことだ。悪いな、ティム。彼女は、もう二度と君には、会わない」

そして最後に、モリーが強烈な一言を放つ。

「ティム、あなたも人脳になりなさいよ。そうすれば、私と深く心を通わすことが出来るかも知れないわよ。もっとも、よりを戻すつもりなんか全く無いけど」

ティムは、愕然とした。もう二度と、モリーは自分の傍らには戻らないということを思い知らされた。もう、彼女の顔さえも見ることが出来ない。ティムは、屈辱にまみれた。どこの誰とも分からぬ人脳に、彼女を奪われたのだ。心の中に、絶望感が広がってゆく。最愛の人の心から完全に閉め出されたと言う絶望が。


ティムが研究室で、久しぶりに博士と対面する。博士は、完全に勝ち誇ったかの態度で、ティムに話しかける。

「どうだ、ティム。人脳になる決心は付いたか?」

彼からモリーを奪った真の目的は、これであった。彼が人間に留まる未練を完全に断ち切らせるために。

しかし、ティムは、もう、復習の鬼へと化していた。

「これ以上、お前に協力するつもりなど無い」

「相変わらず、物分かりの悪い奴だな。君の価値観は、古いのだ。愛により子孫を残す。自分のDNAを孫子の世代に引き継ぐ。実に下らない考え方だ。私には、子孫はいないが、大勢の可愛い赤ん坊や子供達の人脳に囲まれ、大変に充実した人生を送っている。私は、DNAを引き継ぐ代わりに、知性を引き継いでいる。人類の英知を引き継いでいるのだ。これこそが、本来、人類のあるべき姿、進化形だと思わないか?」

ティムは、博士の問いかけに、あえて答えなかった。博士の言っていることは、あながち間違ってはいないが、とても納得できるものではなかった。これまでの生物界の進化、発展を否定するかの様な考え方には、賛同できなかった。

博士は、そんなティムを見て、説得を続ける。

「ふん、納得がいかない様子だな。良いかティム、DNAを残すことが、如何に野蛮なことか、歴史から学ぶのだ。人類は、己の民族を残すため、宗教など共通した価値観を残すため、血で血を洗う戦争を繰り返してきた。同じ民族の間でさえも、自分達のDNAだけが生き延びるため、資源を奪い合う戦争を繰り返してきた。所詮、動物がDNAを残す行為には、残虐さがつきまとうのだ。学ぶのだ、ティム。過去の歴史から」

博士からの、余りにも一方的で、独善的な価値観の押しつけに、ティムは、反発せざるを得なかった。

「博士、あなたは、本当の意味での愛を知らない。愛のない世界では、人は、生きてゆけない。愛は、人を強くするもの、掛け替えのないものなのだから」

博士は、ティムを見下す。

「私が、愛を知らないだと? 馬鹿を言うな。私は、両親から十分に愛を注がれ育ってきたし、同じように、人脳社会の子供達にも愛情を注いでいる。君が言う愛とは、生物が進化の過程で獲得した、子孫を残す為の情動に過ぎない。しかし、私にとっての愛とは、その様な、狭い解釈では無い。愛とは、宇宙と一体になること。宇宙の理を知り、己を昇華させること。我々は、その為の超知性を目指しているのだ」

余りにもの突飛な発想に、ティムは、ついて行くことが出来なかった。しかし、ティムは、ある種の確信を得た。人類と人脳は、根本的な考え方において、異質なものであることを。肉体を持たないことで、これ程まで変化してしまうのか。果たして、互いに理解し、許し合うことは、可能なのであろうか? 人脳とて、元は人間のだ。人間の心が分かるはずだ。しかし、その人間の価値観をも超越し、特別な存在、超知性になろうとしている。

ティムは、人脳の暴走を止めなければ、人類の未来は危ういとの確信を持った。現に、この自分は、最愛の人を失った。この様な悲劇を、これ以上拡散させてはいけない。

「博士、私は、あなたに屈しない。あなたの野望を打ち砕くのは、この私だ。これ以上、邪悪な存在は、許さない」

博士は、辛抱強く、ティムを説得する。

「私に刃向かっても、君は失うばかりだ。いい加減、気付け。君は、私には、到底、適わないと言うことを」

そして、お得意の、高笑いを響かせる。

「わっ、は、は、は、は、は―――――」

しかし、ティムは、怯まない。

「必ず、あなたを倒してみせる。あなた方には実現できない、テクノロジーを駆使して、必ず倒してみせる」

博士は、不機嫌な声となる。

「君は、人工海馬の新技術を、我々に一切、渡さないつもりらしいが、今となっては、その様なことなど、どうでも良いことだ。我々の電脳拡張は、君の想像を絶するスピードで進化を遂げている。君は、我々を侮りすぎているようだ。我々には、新しい進化のビジョンがある。君の人工海馬を使わなくても実現可能な進化のビジョンが」

それを聞いたティムが、博士の行動の矛盾を突く。

「それでは何故、あなたは、私を人脳へと誘うのですか? 非道な手を尽くしてまで、どうして人脳へと誘うのですか?」

博士が、しみじみと語る。

「決まり切ったことを聞くな。君は、私の大切な愛弟子だ。今でもそう思っている。君と共にシンギュラリティーを迎えたいのだ。もうじき、我々、人脳社会は、新たなる、指導体制へと移行する。その指導部のメンバーに、ティム、君も加わって欲しいのだ」

新たなる指導体制? ティムは、博士の独裁色が更に強まる懸念を持つ。

「博士、あなたは、既に独裁者だ。その指導体制とやらも、あなたが好き勝手できる指導体制なのでしょう。私は、その様なものには、荷担したくない」

博士は、思わぬ発言をする。

「ティム、君から見れば、今の私は独裁者のように写るかも知れぬ。しかし、今の体勢では、何れ行き詰まる事を、私は知っている。いくら私が優秀な独裁者であっても、これ以上、人脳社会の運営を続けることは、事実上、不可能だ。将来、超知性を運営してゆくには、独裁では、どうしても限界があるのだ。そこで、私と同等の権限を持つ集団による指導体制が必要となるのだ。君は、私と同等の立場になるのだ。そして、君も、新指導体制に是非参加してくれたまえ」

しかし、ティムは、博士の言葉など信用しない。それは、悪魔の囁きだ。どうせ、都合の良いように、扱われるだけだ。それならば、人間側に残り、反撃の機会を伺う方が良い。人脳社会が、密かに恐れている人間側の世界に残るのだ。

「断ります、博士。私には、やはり、あなたが信用できません」

博士は、がっかりしながら話す。

「これが、君にとっての最後のチャンスとなるであろうに。残念だよ、誠に残念だよ、ティム」

博士が目指す、新指導体制とはどの様なものなのか?

ティムにとっては、全くの謎ではあるが、人類に敵対する存在であることだけは、明白だ。相手は、次々に先手を打ってくる。しかし、こちらも負けているわけにはいかない。今は、牙を研ぐときだ。相手ののど笛を食いちぎるための牙を。

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