第3話 邪悪な存在の発生
この頃、世間では、不穏な動きが広まり始めていた。
始まりは、カリフォルニア州の夜を襲った大停電だ。クールG本社に近いサン・フランシスコ郊外でも一瞬にして光が消え、市内は大パニックになった。
この時、帰宅の道についていたティムは、思わぬ事態に衝撃を受けていた。
「クソッ、どうなっているんだ! 辺りは急に真っ暗になるし、車は、勝手に止まってしまうし。これでは、家に帰れないでは無いか。幸い、ヘッドライトは点いているな。手動運転モードに切り替えて走るか」
この頃には、自動運転の車が当たり前のように走っていた。しかし、外部インフラ等との通信が不能になると、安全な自動運転が継続できなくなるため、緊急停止モードに切り替わったのだ。
ティムは、手動運転で道を進むが、間もなくすると大渋滞に巻き込まれる。ティムは、諦め顔だ。
「おい、おい、冗談だろ。停電が起こったにしても、交通インフラには、最新のバックアップ電源が備わっているはずだ。そのバックアップ電源までいかれるなんて、どうかしちまっている。何が最新のテクノロジーだ。最悪だ」
ティムは諦め、車の中で一夜を過ごすこととなった。
翌朝、結局家に帰れないまま、ティムは寝ぼけ眼で出社した。
「クソッ、最悪の夜だったよ」
ハオランに向かって愚痴をこぼす。
「昨夜の大停電は、電力網のスマート・グリッドの異常が原因だったみたいよ」
「ああ、ネットのニュースでも大騒ぎだった。シスコ中心部では、商店を襲う暴動もあったようだ。ハオラン、君は家に帰れたのかい?」
ハオランが笑って答える。
「私の家、会社の直ぐ近くよ。最悪、歩いてでも帰れる距離よ。シスコの近くに住むなんてことするから、帰れなくなるよ」
ティムは、お手上げの態度を取りながら、寂しそうに笑った。
「俺は、今、仕事一辺倒じゃ無いからね。シスコに行くにも便利で、彼女の家にも近い。俺にとっては、最高のロケーションなんだが、昨夜は、それがあだになった」
アナンドがニュースを見ながら、慰めの言葉をかける。
「ティムは、未だましな方ね。今でも、酷い渋滞が残っているところが沢山あるね。自動運転も考え物ね」
「全くだ。最新のテクノロジーなんぞ、当てにはならない」
そして、3人は、連れだって、博士達の脳が安置されている研究室へと向かった。緊急の呼び出しだ。
博士の声が響く。
「諸君、昨夜の大停電だが、原因はコンピューター・ウィルスだと言うことを知っているかね?」
ティムが驚く。
「コンピューター・ウィルスですって! 電力網の管理には、沢山のコンピューターが関わっていて、どれかが駄目になっても、他のコンピューターが、幾重にもバックアップする仕組みになっているんですよ。一度に全てのコンピューターが感染してダウンするなんて、あり得ない話です」
アナンドも同じ意見だ。
「電力網システムの様な重要インフラのセキュリティーは、そんな簡単には攻撃できないね。かなり頑強なガードがかかっているね」
しかし、博士の声は、危機感に溢れていた。
「今や電力網の管理、スマート・グリッドには、最新鋭の人工知能が介在しているのは、諸君らが知っている事かと思う。今回のウィルスは、その人工知能を狙い撃ちしたものだ。人工知能を暴走させ、一気に全システムダウンさせる。これは、新たな手口だ」
博士の説明によるとこうだ。現在の人工知能型スマート・グリッドは、全てを統括するメイン・コンピューターがいて、その下部のコンピューター達へと指令を送って効率的な電力の運用を行っている。通常メイン・コンピューターがダウンした場合には、下部のコンピューターが独立して動き、システム全体のダウンは防がれる。しかし、今回のトラブルは、ウィルスがメイン・コンピューターを乗っ取り、ダウンしていないように見せかけながら、下部のコンピューター達を自在に操り、引き起こされたものとの見解だ。
ハオランが疑問を投げかける。
「メイン・コンピューターを乗っ取ったとしても、嘘の指令を送る事なんて、ほぼ不可能よ。だって、メイン・コンピューターを構成する人工知能は、毎日更新されるよ。人工知能の構造は予測不能に変わり続けるのだから、狙い撃ちなど無理よ」
しかし、博士は、冷静に受け答える。
「ハオラン、確かに君の言う通り、今までのコンピューター科学の常識では、人工知能を乗っ取り、犯人にとって都合の良い指令を出すことなど、理論上、あり得ないことだった。しかし、実際に起きてしまったのは、間違いの無い事実なのだよ。これからは、今までの常識が通用しない世界が待っている。極めて、その危険性が高いのだ。我々のシステムも、人工知能ウィルスから身を守るよう、最高レベルの警戒態勢を敷く必要がある」
博士は、すぐさま二人の人脳プログラマーにセキュリティー強化の指令を出した。博士の予測によると、これからは、最先端の人工知能が新たなウィルスを作成し始める時代に突入するという。つまり、人工知能がライバルの人工知能を襲う、足の引っ張り合いが始まると言うのだ。博士はこれをカニバリズム(共食い)と呼んだ。人工知能同士が殺し合い、最後に生き残った人工知能だけがシンギュラリティーを迎えることが出来るというのだ。
人工知能の世界では、最初にシンギュラリティーを迎えた者だけが、唯一生き残ることが出来ると言われている。ライバル達は、力の差が歴然とした段階で、脱落する。何故なら、その力の差は、指数関数的に開いてゆくので、二度と追いつくことが出来なくなるからだ。勝者が総取りをする世界、その様な未来が待ち受けているのだ。その為、人工知脳開発者は、皆、血眼になりながら、唯一の王座を狙う戦いを繰り広げるのだ。
博士が感慨深げに呟く。
「思えば、カーツワイル博士が予言した、シンギュラリティー到来時期、2045年というのは、正しかったのかもしれない。皆、その前に、シンギュラリティーを起こしてみせると意気込んでおったが、ここに来て、凄絶な足の引っ張り合いが始まった。これにより、シンギュラリティーの到来は、確実に遅れると考えるのが妥当であろう。カーツワイル博士は、この事まで予測していたと言うことなのか?」
しかし、博士は、不敵な笑いを浮かべるのであった。我々は、人脳と電脳とが繋がった唯一無二の存在である。電脳だけで構成された人工知能とは、根本的に構造が異なるのだ。我々のシステムは、そう易々とは、攻撃されまい。
その後、博士の予想通り、人工知能を標的としたウィルスが蔓延し始めた。既に世の中の様々な場所で人工知能は使われている。それらも、ウィルスの攻撃対象の例外では無い。そのため、人工知能の異常に起因する重大事故が世界的規模で散発した。
地下鉄網の運行管制システムが、原因不明の異常で停止してしまい、多くの乗客が、長時間にわたり、車両内に閉じ込められる事態も発生した。
大空港が、突然、管制不能状態に陥り、多くの飛行機が他の空港へと緊急着陸せざるを得ない状況にも陥った。一歩間違えれば、大惨事を引き起こしかねない状況であった。
原子力発電所の安全管理システムに障害が発生し、手動により炉心を緊急停止せざるを得ない事件もあった。これも、何かの間違いがあれば、大惨事に繋がりかねない。
化学プラントでは、大爆発も起こった。大勢の犠牲者を出す、痛ましい事故であった。
一番心配されたのは、軍事システムに異常が発生した場合である。もし、人工知能が勝手に核ミサイルを発射しようものなら、世界が存亡の淵に追いやられる恐れがある。
こうして、世界は、人工知能を進歩させることよりも、如何にして人工知能を守るかに、重点が移っていった。
そんなさなか、ハオランがティムに相談を持ちかけてきた。世界に出回っている人工知能攻撃型ウィルスの中に、クールG発のウィルスが存在することを。ティムがハオランを問いただす。
「確かな確証が有って言っているのか? ハオラン」
「ティム、ここでは不味いよ。場所を変えようよ」
二人は、オンライン設備の無い部屋へと移動した。
ハオランは言う。
「博士達がウィルスを作っているのは、間違いない事実よ。外部との通信回線に罠を仕掛けておいたら、出て行くウィルスを捕獲することに成功したよ。でも、博士達がやった確固たる証拠が無いよ。何故なら博士達の言語野を完璧にモニターすることは、もう不能な状態だからよ」
ティムが、いきなりの事態に戸惑う。
「モニター不能だって? それは、確かなのか? もっと詳しく教えてくれハオラン」
モニター不能の理由の一つは、博士達人脳の間で会話をする際、隠語を多用する様になったからである。隠語とは、特定の人達の間でのみ通用する言葉で、例えば、「チョコレート」と言っても、お菓子のチョコレートの意味するのではなく、別の意味、例えば「賄賂」などを指す場合である。「ハッパ」が大麻、「シャブ」が覚醒剤を意味するが如く、使われる言葉である。
更に驚くべき理由として、暗号まで使って会話をしている形跡があるのだ。意味のないアルファベットの羅列や数字との組み合わせを使っている形跡が発見されたのだ。
言われてみれば、ティムにも思い当たる節がある。
「エレナから聞いたのだけど、バーチャル・ボディーを使った会話も行われているらしい。いわゆる手話みたいなものだ。会話の意味は不明だと言われた」
何やら、人脳達の間で、秘密の会話がなされていることだけは確かだ。疑念が、ますます広がってゆく。しかし、言語野が常時モニターされている状態で、我々を欺くことが、果たして可能なのか? ティムには、俄に信じられなかった。
ハオランの話は続く。
「私、大停電の時から、怪しいと直感あったよ。原因が人工知能向けのウィルスなんて、普通、初めから決めつけないよ」
あの時は、確かにハオランが最も強く疑問を抱いていた。しかし、ハオランが疑問を投げかけても、博士は適当にあしらっているような印象があった。言われてみれば、確かに怪しいやりとりであった。
「ハオラン、今は、二人だけの秘密にしておこう。相手の尻尾をつかむまで、軽はずみな真似は控えよう」
ハオランは、少々、不満のようだ。
「アナンドにも言うなってこと? 彼が味方だと大いに役に立つと思うよ。彼はs男だと私は思うよ」
しかし、ティムには、不安があった。
「アナンドは確かに優秀だし、信頼も置ける。しかし、計算高いところが心配なんだ。状況次第では、寝返る懸念がある。100%味方に付いてくれる保証がなければ、危険だ。これは、博士達に知られぬよう、慎重に、かつ、秘密裏に進めることが肝要なんだから」
しかし、ハオランの表情は晴れないままだ。今まで、この3人のチームで、喧嘩もするけれど、信頼を寄せながら協力してきた。ハオランのアナンドに対する親愛の情は、徐々にではあるけれども、確実に強まっていたのだ。
「分かったよ。アナンドには、秘密にするよ」
不承不承に、ハオランは折れた。
ティムも、チーム内で隠し事をするのは、正直、好きではなかった。アナンドのことを信じたいとの気持ちもあった。だが、彼の上から目線の態度が気になるため、自分に従ってくれるか自信がなかったのだ。今回の件は、秘密が最も重要なのだ。
もし、博士達人脳がウィルスを作って、社会に混乱を与えているとなれば、それは、既に、邪悪な存在と言えるかも知れない。「邪悪な存在になるな」、ティム達が、言語野をモニターし、監視して来たのは、無駄だったと言うことか? しかし、言語野をモニターされた状態で、どうやって、隠れて邪心を抱くことが出来るのであろうか?
ティムは、悩む。思えば、新たな人脳を選定する段階で、既に、博士の真意をくみ取ることが、出来ていなかった。フィンテック技術者などという、不自然な選択の真意をくみ取ることが。この時、既に、博士の心の中に、邪心が芽生えていたのでは無いのか? 何故、それに気付くことが出来なかったのだあろうか? 後悔の念が、ティムを責める。
ティムは、思う。自分は、余りにも、博士のことを信頼し過ぎていたのでは無いかと。その為、周りがよく見えなくなり、博士の心の変化にも気が付かなかったのだと。「あの博士に限って、まさか」、その思いが、今回の事態を招いたのであれば、この責任は、自分にある。今回、ハオランに指摘されるまで、その事実に盲目になっていた自分に責任がある。
もし本当に、博士が邪悪な存在なのであれば、このプロジェクトを進めること自体が、非常に危険だ。博士が、何を考えているのか、全く分からない可能性があるのだ。この後、ウィルスの被害だけでは済まない危険性があるのだ。
ティムは、焦った。今まで、博士が自分の手のひらの上にいると思い込んでいたが、実際は、逆だったのでは? 自分が、博士の手のひらの上で、踊らされていたのでは? 何とかしなくては。何とかして、真実を暴き出さなければ。
ティムは、自らも調査すべく、動き出した。博士がウィルス対策のセキュリティー強化を命じた、二人の人脳プログラマーに直接コンタクトを取ることにしたのだ。
「やあ、ペーテル、モハーナ、調子はどうだい? 一つ質問があるんだが、君達が担当しているセキュリティーの仕事について教えてくれないか? ウィルスへの感染防御は、どうやっているんだい?」
暫し、反応がない。どっちから話そうか、ひそひそ相談しているようだ。ようやく、モハーナが話し始めた。
「私達がウィルスの模型を作って、それを、私達で防ぐ訓練をしているわ。ペーテルが作ったウィルスを私が撃退して、私が作ったウィルスをペーテルが撃退するの。簡単なことでしょ」
こいつら、模型とはいえ、ウィルスを作っていることを大胆にも告白してきたぞ。いきなり直球が飛んできたことに、ティムは面食らった。
「君達が作ったウィルスは、どこに保管してあるの?」
「保管? どうして保管する必要があるの? そんなのすぐに消しちゃうわよ。だって、万が一、外に漏れたら危ないでしょ」
あくまでも、証拠は残さないつもりらしい。しかし、ウィルスの設計図ぐらいは、残してあるはずだ。そうでなければ、次のウィルスを作る時に、一から設計せざる得なくなり、非常に効率が悪くなるからだ。ティムは、執拗に質問をする。
「ウィルスの設計図ぐらい記憶しているだろう? それって教えてくれないかな?」
ペーテルの薄ら笑いが聞こえる。
「記憶だって? ふっ、ふっ、ふっ」
「だめよ、ペーテル、笑ったりしたら失礼じゃない。でも、記憶なんて、懐かしい響きね、フフ」
「今、モハーナも笑った」
「止めてよ、ペーテル、からかわないで」
二人のひそひそ話を聞いて、ティムは何だか小馬鹿にされているような気がしてきた。しかし、めげずに質問を続ける。
「どうして、記憶が可笑しいのかな? メモリーだよ、データのことだ」
モハーナが面倒な質問だと感じながらも、親切に答えてくれる。
「私達にはね、記憶そのものの概念が、もう存在しないの。確かに、データはあるわ。しかし、それらは、どこかに仕舞い込んでおく物ではないの。常に流れているのよ。私達の拡張意識の中を。アクセスと加工を頻繁に繰り返すため、格納すると扱いに不便なの」
ティムは、信じられない顔をした。
モハーナは、そんなティムの顔を見て、例えを使って説明してくれた。
「海を見たことがない人に、海の写真や動画を見せて説明しても理解できないでしょう? それと同じことだと思うの。あなたも人脳になれば理解できるようになるわよ。ところで、私達がウィルスを作っていることに、何でそんなに興味を示すの?」
ティムは不味いと感じた。疑っていることを感づかれては、調査に支障が出る。ティムは、慌ててお茶を濁し、その場を誤魔化すことにする。
「人工海馬の設計を見直そうかと考えている。そこが、ウィルスによってダメージを受けると、大変なことになるだろう? ハード設計的にも、セキュリティー強化の必要があると思うんだ」
ペーテルが呟く。
「そもそも、人工海馬って感染するの?」
モハーナがたしなめる。
「分からないでしょ。今、この技術は、外部からは完全にクローズされているけれど、ゆくゆくは、考えていかなければならない課題よ。そう言うことでしょ、ティム?」
「ああ、その通りだ」
何とか、上手くこの場を取り繕うことができた。ティムは、自分の言語野にモニターが付いていないことに感謝するのであった。
ティムが、この件の一部始終をハオランに話す。
ハオランが慌てる。
「いきなりそんなこと聞いたりしたら、かえって、怪しまれるかも知れないよ。それに、ウィルスの設計図を手に入れることが出来たとしても、私の捕まえたウィルスの証拠になるとは、限らないよ。彼等は、実物とは違って、模型だと言っているよ。もし、1ビットでもデータが異なれば、それは自分達が作った物ではないと言い張るよ。その件の深追いは、もう止めた方が良いよ」
ティムも少々軽はずみだったかと、反省する。
「どうやったら、尻尾を捕まえられるかなあ、ハオラン? あいつらは、証拠となる物を一切残さない徹底ぶりだ。こいつは厄介だぞ」
そこへ、アナンドが駆け込んできた。
「2人とも、そこにいたね。今、エレナが、僕たちを呼んでいるね。聞かせたい話があるようね」
3人は、エレナのオフィスへと向かった。そこには、マリアとダニーもいた。
「私達の調査結果を聞いてもらえないかしら、ティム? かなり、重大なことよ」
何やら意味深な様子だ。
彼女からの報告によると、博士の人脳がわずかかにだが、大きくなっていると言うことだった。これまでも知られていることだが、海馬は、鍛えると体積が増大する。しかし、大脳皮質は、ごく一部を除き、増大することはないと言われてきた。しかし、彼女達の調査結果では、大脳皮質のあらゆる部位において、体積増大の傾向が見られるという。
彼女の仮説によると、頭蓋骨という物理的に体積を制限する物が取り払われたことにより、増大した可能性が高いと言うことだ。しかも、水中に浮遊している状態であるから、大脳の形状を支えるための細胞を、増やす必要もない。増えた分の大半が、認知・思考を司る神経細胞、ニューロンだと考えられる。そして、増大したニューロン内の情報は、モニター不可能とのことであった。
エレナが問いかける。
「この事が、何を意味するか分かる、ティム?」
ティムは、ようやく理解した。何故、邪悪な存在の出現を許したのかを。そして、自分の言葉で、皆に説明する。
「つまり、博士の頭の中を全て知ることが出来なくなる。何を考えているか分からなくなる。そう言うことだろ」
「その通りよ。もはや、博士の考えていることは、分からなくなっている」
アナンドが、質問をぶつける。
「でも、わずかに大きくなっているだけね。大部分の所は、未だモニター可能ね。全く分からなくなるわけでは無いね。違う?」
エレナがそれを否定する。
「わずかにと言っても、増えた分の大半がニューロンだとしたら、大変な量よ。大脳全体の質量において、ニューロンの質量が占める割合は、わずか数パーセント。今回の博士の増加したニューロンは、新しい意識を作ることも十分に可能な量よ」
「新しい意識って何ね?」
エレナが説明をする。
「あなた達、博士の言語野をモニターできるのよね。それと同様に、博士自身も自分の言語野モニターを覗くことができるの。もし、自分の考えたことが、モニターに表示されるかどうか、確かめていたとしたら何が起きるかしら? 自分の考えた事が、表示されない事にも気が付くんじゃないかしら。新しく出来たニューロンを使って考えた事が、表示されないことに気が付くんじゃないかしら」
ティムが説明を加える。
「脳梗塞などで、ニューロンの一部が死んだ場合に、リハビリを続けると、他のニューロンが死んだニューロンの代わりをして、機能が回復することが知られている。これと同じように、従来のニューロンの代わりに、新しいニューロンを使うよう訓練することが可能かもしれない。そして、新しいニューロンを使って考えることを覚えたら、我々はもう、博士の言語野をモニター出来なくなる」
一同が、固唾をのむ。
エレナがその考えに同調する。
「その通り。既に博士は、モニター上に写る思考と、写らない思考を意識的に切り替えることができるのよ。都合の悪いことは、モニター上に写さない術を、既に身につけているとしたら、邪悪な存在になるかもしれないということよ」
マリアは、その意見に賛同できないでいた。彼女は、上辺では、博士のことを特別意識しない素振りを見せてはいるが、心の中では、博士のことを慕っているのだ。
「博士は、素晴らしい人格者よ。決して、邪悪な存在になんかならない。変な決めつけは、止めて欲しいわ」
だが、ハオランは、違う。既に、博士を危険な存在だと気が付いている。
「いや、これで分かったよ。博士は、他の人脳達と、我々の分からない言葉や仕草で会話をしているよ。それ、新しいニューロンを使っている証拠よ。だから、モニターしても読解不能だったのよ」
マリアが強く否定する。
「意味が分からないわ。分からない言葉を使ったとしても、その言葉に対応する言葉が同時に言語野モニターにも表示されるはずよ。それに、仮に博士の言語野をモニターできないとしても、他の人脳のモニターを見れば、会話の内容は、一目瞭然よ。分かる? 私の言っていることが」
ティムがマリアにハオランの意図することを解説する。
「それが、マリア、他の人脳のモニターを見ても、会話の内容は、分からなかったんだ。多分、理由は、こうだ。例えば、生まれつき英語をしゃべっていた人でも、中国語だけ使う環境に置かれると、思考にも中国語を使い始めるようになる。頭の中で翻訳する必要がなくなるんだ。それが、対応する言葉がモニターできない理由だと思う。
また、他の人脳のモニターを見ても会話の内容が解読できない理由は、我々の分からない言語を博士から習得し、それを使って会話しているためだ。普通、新しい言語を習得するには、何年もかかるが、人脳間のコミュニケーションでは、一瞬で習得可能だ。博士の見えない言語野の情報を他の人脳の拡張された電脳にコピーするだけで済むのだから。それだけで、人工海馬を経由して、博士独自の言語を理解可能となるんだ」
これを聞いて、皆、一様にシーンとした。新たに加わった人脳に博士独自の言語が一瞬にして伝染するのである。一瞬にして、人脳間の会話が、読解不能となるのだ。
エレナが神妙な顔つきでティムに質問する。
「これって、もしかしたら、博士が、他の人脳達を洗脳するのにも使えるんじゃないの? そうなったら大変よ。博士の考え一つで、人脳達が一斉に反乱を起こすことだって起きうるわよ」
確かに、その通りである。言語をコピー出来るのなら、考え方も電脳にコピーすることは理屈の上では、可能である。
その件に関し、ティムが自分の見解を述べる。
「人脳は、自分の電脳に記憶させる情報を、拒否することが出来る。ただし、言葉巧みに博士から口説かれた場合、それを受け入れてしまう危険性はある。今回の言語も、『人脳間のコミュニケーション上、必要不可欠だ』と口説かれれば、受け入れざるを得ないだろう。人工海馬が、電脳記憶の関所の役割を果たしてくれるけど、人脳が騙されてしまえば、それまでだ。人脳として経験豊富な博士にとっては、新入りの人脳など、赤子の手をひねるようなものだ」
ダニーが、とぼけた質問をする
「そもそも、人脳同士は、どうやってコミュニケーションを取っているんだ?」
マリアが怒鳴りつける。
「あなた、そんなことも知らないで仕事をしていたの?」
「僕は、バーチャル・ボディー専門だったから、その方面には、余り興味を抱かなかったんだ」
「私だって、バーチャル・ボディー専門だけど、それぐらい常識よ」
人脳間のコミュニケーションは、少々、複雑だ。
リアルな人間同士であれば、五感を使ってコミュニケーションを取る。これを人脳に当てはめると、バーチャル・ボディーを使ってコミュニケーションを取ることに相当するが、実際にバーチャル・ボディーを使うことは希だ。何故なら、極めて効率が悪いからである。
基本的な意思疎通は、人工海馬間のネットワーク機能を通して行われる。人脳の中の意識同士が人工海馬を通し、直接繋がれるのだ。これをリアルな人間に当てはめるなら、テレパシーでコミュニケーションを取ることに相当するだろう。ただし、デジタル化された信号で扱われるため、極めて早口なテレパシーである。
しかし、複数の人脳から、しょっちゅうテレパシーで話しかけられると、とても対応しきれない。そこで、通信回線を閉じたり開いたりする権利を人脳に与えている。ただし、引きこもりにならない範囲内に限りだが。
また、人脳間で合意が有れば、拡張された電脳を使って、大量のデータを受け渡したり、共有したりすることも可能だ。リアルな人間に当てはめれば、SNSで瞬時に膨大なデータをやりとりしている状態に当たる。
以上が、人脳間のコミュニケーションの取り方である。これに慣れてくれば、驚くほどのスピードで、コミュニケーションが可能となる。リアルな人間同士の数十倍から数百倍の速さだ。
話を元に戻そう。
エレナが憂いを隠せない。
「人脳社会では、博士は独裁者のようね。このまま研究を続けてゆくのは、危険過ぎるわ。何かいい手がないかしら」
ティムが、良いことを思い出した。
「ボブだ、ウイスキー・ボブ。彼ならこの問題に協力してくれるかもしれない。安易に博士の考えなど受け付けない男だ。彼なら信用できるかも」
エレナが、目を伏せながら話す。
「まさか、私たちの失敗が、こんな所で役に立つとは、皮肉なものね。でも、博士は、そんなこと、計算済みかも。聞いても無駄骨になる可能性もあるわね」
「聞いてみない手はないさ。何か役に立つ情報でも――――」
エレナが話を遮る。
「でも、聞いたところでどうするの? 邪悪な存在を許さないという、根本的な問題は、何も解決しないわ。何か手があるはずよ。考えるのよ。博士に、先手、先手を打たれない内に」
そして、ついに、エレナが心の中で、叫ぶ。「あった、あったわ、ベストな方法が! 私が人脳になって、博士を支配する側に回るの。最高にクールなアイデアよ」
エレナは、周りに気づかれないよう、込み上がる歓喜の念を、クールな表情の下に隠すのであった。
ティムは、ボブが切り札的存在になることを期待していた。博士に会話の内容を知られないよう、コンタクトを試みる。
「ボブ、聞こえるかい? ティムだ。聞こえたら、人脳間の通信回線を閉じてから、返事をしてくれ」
「よう、ティムか? 博士に聞かれたくないんだろ? 回線は閉じたぜ。何の用だい?」
「ボブ、博士から隠語を覚えるよう要求された事が有ったか?」
「隠語? 卑猥な言葉か?」
「違うよ。暗号のようなものだよ」
「ああ、必要だから覚えとけって、何だかデータを渡してきたよ」
「えっ! データを? 頼む、ボブ。そいつを見せてくれ」
「もう無いね。覚えたくないと言ったら、さっさと引っ込めやがった。ありゃあ、俺を洗脳しようって魂胆だな。見え透いた手だ。奴は、相当に腹黒いぞ。安易に、誘いに乗らないことだな。危ねえ、危ねえ」
ティムは、「さすがはボブ」と感心した。危険な臭いを嗅ぎ分ける嗅覚が備わっている。しかし、隠語のデータが残っていなかったのは、とても残念だ。良い手掛かりになると思ったのに。落胆の表情を隠しながら、ボブに再度質問する。
「ボブ、君達は、博士と、どの様に会話しているんだ? 変な言葉を使うことはないか?」
「変な言葉か。そうだな、俺は使わないが、俺以外の奴らは、時々意味不明の会話をする。会話について行けないのは、俺が間抜けだからだと馬鹿にしやがる。胸くそが悪いが、確かに俺には、奴らほど学は無い。しかし、あれは、普通の英語じゃ無いな。あんたが言うように、隠語という奴かも知れない」
思っていた通りだ。博士達は、隠語を使って、内緒話をしているらしい。
「ボブ、君は、コンピューター・ウィルスを知っているか?」
「うーん、名前は知っているが、実物にお目にかかったことは無いな。それがどうかしたか?」
「博士達が、秘密裏に、そのウィルスを作っている疑いがあるんだ。他のコンピューターを乗っ取ったり、破壊したりするのが目的だ」
「ああ、それなら、俺もニュースで見たぜ。奴らが犯人なのか?」
「犯人だと思う。しかし、証拠が見つからなくて困っているんだ」
「あのコンピューター・オタク達が、博士からの指示で何か作っていたなあ。多分そいつだ。全く、非道いことをしやがるぜ、畜生。くず野郎は、俺じゃ無くて、奴らの方だ!」
「ボブ、ありがとう。何となく確証を持てたよ」
「役に立てたなら、俺も嬉しいぜ。今度は、安酒で良いから奢ってくれ。高級酒は、やっぱり俺の口に合わねえ」
「約束するよ、ボブ。今後も博士達には気をつけろ」
「ああ、分かった。ところで、エレナという婆だけど、あいつも相当な食わせ物だぜ。俺のことを、あれこれと弄ろうとしやがる。お前さんも気をつけた方が良い。それと、マリア。あの女、猫をかぶっているが、あいつも大した曲者だぜ」
「分かった。エレナ達がボブに手を出さないよう、しっかりと見張るよ。君は大切な友人だ。約束する」
ティムは、ボブと頻繁に連絡を取り合う方が良いと感じた。人脳の中で、唯一の友人だ。貴重な情報ももらえる。大切にしよう。そう誓うのであった。
しかし、この方法も、使いすぎれば、博士に不審に思われるであろう。細心の注意を、払わなければいけない。
ラリー・ターナーCEOが多忙な業務の間を縫って、メールに目を通す。すると、一つのメールに目が釘付けになった。
「警告! 邪悪な存在発生!」
ラリーは、慌てて、中に目を通す。
「これは、いかん。今直ぐにティムと会わなければ」
彼は、ティムをランチに誘うメールを打った。
昼時。ティムはハオランを連れて、社員食堂へと向かう。ラリーは、先にコーヒーを飲みながら待っていた。ラリーは、できるだけ一般社員と同じ食堂で、社員に囲まれながら食事を取ることを習慣にしていた。現場の生の声を肌で感じ取るためである。いつもは、大勢の社員に囲まれているのだが、この日は、カウンターで一人きりだった。
慌ててティムが声をかける。
「待たせて済みません。ラリー」
ラリー・ターナーCEOは、普段、社員から、ファースト・ネームで呼ばれていた。いや、ファースト・ネームで呼ばせていたの方が正しい表現であろう。彼は、平等な人間関係を好むのである。堅苦しい上下関係は抜きだ。
ラリーが気さくに応える。
「なーに、暇だったんで、先に来ていただけさ。ところで、ティム、ひとけが無い場所の方が良さそうだな。それに、カメラや盗聴器もない場所の方が。外のテラスに出よう」
3人は、食堂外のテラスの一番端、空いているテーブルへと、トレーを持ちながら歩いて行った。ハオランが。周囲の電波状況を確認する。盗聴の心配はなさそうだ。
せっかちなラリーは、いきなり本題に入る。
「邪悪な存在って、ニューマン博士のことだろ?」
さすがは、ラリー。察しが早い。
ティムが、説明する。
「今般、人工知能を狙ったウィルスが世間を騒がせていますよね。その中のいくつかは、ニューマン博士が絡んでいる可能性が極めて高いのです」
ラリーは、暫し、うつむき無言になる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「証拠は、掴んでいるのか?」
ハオランが答える。
「クールGから発信されたウィルスを捕獲するのに成功しましたよ。しかし、博士が犯人だという、決定的な証拠は残っていませんよ」
ラリーが、やはりという口調で話す。
「超が付くほど完璧主義者のニューマン博士のやることだ。そんなドジは踏むまい。私は、そのプロジェクトがスタートするときから、きな臭い感じを抱いていた。それで、影のプロジェクトとしてスタートさせたのだ」
ティムは、困惑した表情で話す。
「このまま、このプロジェクトを推進しても良いのでしょうか? このままだと、邪悪な存在を、より大きな存在にする危険性があります」
ラリーは、冷酷な口調で話す。
「今のプロジェクト・リーダーは、ティム、君だ。これは、君の問題なのだ。君が何とかするのだ。例え我が社が開発を中止したところで、他社の連中が、邪悪な存在を作り出すだろう。その前に、君が正しい方向へと導くのだ。無責任に聞こえるかも知れないが、今は、プロジェクトを中止すべき明確な理由が無い。このまま続けるしか無いのだ」
短い会話ではあったが、ラリーの覚悟は、十分に伝わってきた。「邪悪な存在になるな」。これがクールGの社是、会社の基本理念であるが、「邪悪な存在を許すな」これもクールGの使命なのだと。そして、人脳プロジェクトにおいて、この社是を守り通すべく、大役を果たさなければいけないのは、他ならぬ自分自身なのだと。
「そうか、ティムとラリーが隠れて話をしていたか。内容までは不明と。これは、予定を少し早めた方が良い様だ。ありがとう、マリア」
博士が、マリアに労いの声をかける。
「少しでもお役に立てて嬉しいですわ。博士」
マリアは、博士のスパイ役を買って出ている様だ。自分が役に立てて喜んでいた。
「それで、博士、私は、何時になったら、そちらの世界へ、人脳の世界へ呼んでくれるのですか? 私、待ちきれなくて」
博士が、なだめすかす。
「君には、もう少し、そちらの世界でやってもらいたいことがある。辛抱するんだ。それにしても、お前は、人間の体に未練は無いのか? 若くて、魅力的な女性ではないか。子供を持つことだって可能なのだぞ」
マリアは、博士の脳を、じっと見つめながら、羨ましそうに答えた。
「私の周りには、ろくな男がいません。私の体を、ジロジロとなめ回すだけ。気持ち悪いんです。私が、お慕いしているのは、博士、あなただけです。早く側に行きたいです」
博士は、年甲斐も無く照れた。人間だった頃、一度も女性から告白されたことなど無かったからだ。それなのに、若いマリアが、人脳となった私のことを慕ってくれている。博士は、感無量であった。
「大好きなマリアよ。ありがとう。しかし、もう暫くの間、私の手足となり、私を守ってくれないか」
「分かりましたわ、博士。博士のことは、私が絶対にお守りします」
「よし、よし、良い子だ、マリア」
博士は、マリアの心を利用し、邪魔者を排除する企みの様だ。ボブが言っていた通りだ。「マリアにも気をつけろ」と。
ティムが、ハオラン、アナンドと今後の方針について議論を重ねていた。自分がリーダーだという強い自覚を持って、チームを引っ張ってゆかねばならない。邪悪な存在を決して許しては、いけない。それが彼に課せられた最大の使命なのだから。
部下のハオラン。アナンドも気持ちは一緒だ。邪悪な存在となりつつある博士の暴走を止めなければいけない。その思いは一致していた。
ティムが奥の手を使うことを決断する。
「人工海馬の仕様変更を断行しよう。博士からの強い抵抗が予想されるが、躊躇う必要は一切無い。博士に、他の人脳を支配させないために、我々が人工海馬に流れる情報を管理出来るよう仕様変更すべきだ」
ハオランが懸念を述べる。
「それを断行するには、人工海馬の設計を根本的に見直す必要あるよ。今、装着されている人工海馬に改造を施すだけでは、限界があるよ。やるとしたら、今ある人工海馬を取り外して、新しい物に交換するしかないよ。でも、それをしようとすると、エレナ達、きっと反対するよ。大手術が必要なことを博士に説明できないと言ってくるよ」
アナンドも懸念を示す。
「これ、時間との勝負ね。人工海馬の変更の間に、博士達が、次なる陰謀を企てる危険性が高いね。博士は、馬鹿で無いね。人工海馬を変えて来ることも想定に入れているはずね。きっと邪魔してくるね」
彼等の言うことは、もっともだ。だがティムには、他の方法が思いつかなかった。
アナンドが良いことを、思いついた。
「ボブをスパイとして送り込むことの方が、早いね。博士にバレない様に、ボブの人工海馬に我々とのホットラインを付けるね。この改造なら割と簡単ね。そして、そこから博士達に気付かれずに、人工海馬間の会話を盗聴し解読するね。ボブ、きっと協力してくれるね」
人工海馬を変更する。これは、人工海馬を最も良く知るティムにとっても、かなり高いハードルだ。だが、人工海馬の変更無しには、根本的な問題の解決は出来ない。かといって、ここで時間を取られては、博士達に先回りされてしまう恐れがある。彼等の人脳は、日々、電脳拡張を加速させているのだ。
ティムは、アナンドの提案を即、実行に移すよう、彼等に命じた。そして、博士達の企みを監視しながら、並行して、人工海馬の設計変更を実行することに決めた。
ボブとのホットラインが開通した。3人の必死の努力で、早期に実現できたのだ。これで、博士からの邪魔が入らずに、ボブと相談できる。従来は、人脳のある研究室内でしか、人と人脳との会話は認められていなかった。密談を防ぐことにより、邪悪な存在を防ぐ為との理由であった。
しかし、今回は、この禁を破って、実行に移した。人脳達は、勝手に密談を進めているのだ。相手が手段を選ばないのならば、こちらも手段を選ぶ余裕など無い。密談には、密談だ。
3人は、ボブの表情が浮かぶディスプレイに向かって、会話を始めた。
ボブが、驚きの表情で話す。
「随分と大層なことだな。よっぽど、博士に知られると不味いと見える。言ってみな。俺は、何だって協力するぜ。何てったって、あの薄汚い、脳みそ野郎達には、辟易しているんだ。丁度、一泡吹かせたいと思っていたとこさ」
ボブの非常に協力的態度に、3人は、安堵の表情を浮かべた。そして、ボブに懇願をする。スパイとなってもらい、内通の協力をしてもらうのだ。
ボブが困った顔で話す。
「俺には、奴らがしゃべっている内容を理解することが出来ない。どこまで協力できるか難しいな」
ティムが、すがるような思いでボブにお願いする。
「どんな小さなことでも良いんだ。奴らの誰と誰が、いつ、どのくらいの時間、内緒話をしているのかだけでも知りたい」
ボブも困惑している。
「奴らは、引っ切りなしに、訳の分からない会話しているよ。そうだなあ、変わったことがあるとすれば、あの偉そうな金融ブローカー野郎が、以前よりも親密に会話に参加するようになったことぐらいかな。奴は、変にプライドが高いところがあって、ちょっと浮いた存在だったが、今では、大の仲良しになっている」
アナンドは、そこに引っかかりを感じた。
「それ、金がらみの悪巧みをしていると思うね。プログラマー達と組んでね。例えば、オンライン銀行強盗とかね。銀行のセキュリティーを人質に取り、金をふんだくる企みね」
それは、明らかな犯罪じゃないか。いくら研究資金が欲しいからと言って、あの博士が、そこまで堕ちてしまったのか? ティムは、動揺を隠しきれなかった。
しかし、アナンドの見解に、ボブは否定的だった。
「奴らは、そんなケチな真似はしまい。強盗だと足が着きやすいしな。もっとでかい山を狙っていると思う。それが具体的に何んなのかまでは知らないが。確か、『タックス』とか何とか聞こえた」
ハオランが推論する。
「彼等は、オンラインで税金を掛ける気かもよ。それも、自分達の懐だけに入ってくる税金よ」
ティムも同じようなことを想像していた。広く、そして、極めて薄く税金を徴収すれば、バレずに自分達のものに出来るかもしれない。世界中のありとあらゆる所から広く徴収するのだ。そうすれば、薄くても、膨大な金額を稼げるはずだ。金融屋を入れたのは、そういう目的だったのか。ティムは、改めて博士の思考の奥深さを実感するのであった。
皆、真剣な表情で考え込んでいた。自由になる大金を手にしたとき、博士の野望が、果てしなく広がることを恐れていた。
突然、ボブが声を上げる。
「これだ! これだよ」
ティムは怪訝な顔押してボブに尋ねる。
「何か思いついたのかい、ボブ」
「ああ、良いスパイのやり方を思いついたよ。古典的な方法さ」
「古典的な方法?」
「女を使うのさ。博士の野郎、ここんとこ、毎日のように俺の買収宿に通っている。それを利用するんだ。買収宿の設計は、全て俺が自由に出来るのさ。枕会話で、ネタを仕入れるんだ。奴さん、まだまだ女の扱いには、不慣れさ。可愛いぐらい、うぶなんだ。これを利用しない手はない」
3人は、呆気に取られた。彼等の頭からは、その様な発想は、思いもつかなかったからである。蛇の道は蛇。頼りになる男だ、ボブは。
久しぶりにティムは博士と一対一で対面した。
博士が、ティムを見下ろす。
「ティム、最近の君の態度が気になる。以前は、私に対して、割と従順な態度で接してくれたが、今では、私のことを疎ましく思っている。違うか?」
ティムは、いつかは、はっきりと言わねばならぬと思い続けてきた。丁度良い機会だ。博士の返事を聞いてみよう。
「博士、あなたは、人脳間の会話に隠語を多用されていますね。邪悪な存在とならないよう、博士の言語野をモニターするよう命じたのは、博士自身でした。その博士が、何故、隠語を多用するのですか? 我々は、博士の思考がモニター出来なくなり、困惑しています。はっきりとした理由を教えて下さい」
博士は、相変わらず見下ろした態度をとり続ける。罪悪感の欠片など、どこにもなかった。
「ティム、君は、少し、勘違いをしているようだ。私は、人脳との間で、出来るだけ円滑なコミュニケーションを取る道を探っているのだよ。思考の効率化を目指している訳だ。これは、人脳社会において、必要不可欠なことだ。しかし、人間との間のコミュニケーションの障害となるのであれば、改善することもやぶさかではない」
ティムは、大いに納得できない。
「人間とのコミュニケーションの改善とは、具体的にどのような方法をお考えなのでしょうか? 邪悪な存在にならないよう言語野をモニターすることは、今後も続ける方針で、変わりは無いのですよね? 我々に分かる言語を使うよう改善することで?」
博士は、答えをはぐらかす。
「ティム、いくら私が電脳拡張された思考の持ち主だからといって、今直ぐに答えが見つかるものではない。もう少し、時間をかけて、話し合っていこうではないか」
だが、ティムは引き下がらない。隠し球をストレートにぶつけてみる。
「実は、人工海馬の仕様変更を考えています。我々に分かるような、翻訳装置を組み込むことも検討に入れています。邪悪な存在になる懸念を払拭するのが目的です。この考えに、異論はありますか?」
しかし、博士からは、意外な答えが返ってきた。
「人工海馬の変更は、実は、私も考えていたところだよ。人脳間のコミュニケーションに使う際、今の仕様では能力不足だと痛感していたのだ。君の提案する翻訳機能を組み込むことは、受け入れよう。ただし、新しい人工海馬の設計は、私たち人脳に任せて欲しいのだ。電脳拡張されていない君達には、荷が重いと思ってね」
ティムがはね除ける。
「人脳だけによる設計には、異議を唱えます。私たちも当然、設計に加えさせてもらいます。これは、プロジェクト・リーダーである私からの命令です。当然、従ってくれますよね?」
二人の間に険悪な空気が流れる。
博士が、重い口を開く。
「確かに、今のプロジェクト・リーダーは、ティム、君だ。しかし、君よりも適任者がいるとしたら、その地位は、譲らなくてはならない。しかるべき人事権を持ったものが、それを決めることになるであろう。いずれな」
このプロジェクトは、CEO直轄であるため、人事権は、ラリーにある。そして、博士が邪悪な存在であることを、ラリーは、知っている。その上で、改めて、ティムにリーダーとしてやるべきことを命じたのだ。
しかし、この博士の自信に満ちあふれた態度は何を意味するのだろう。まさか、ラリーを寝返らせる策略を練っているか? ティムの心に不安の影が指す。
博士が薄笑いを浮かべながら、ティムに囁く。
「ティム、君が発明した人工海馬は、確かに画期的な物だ。君は、0から1を産む才能を持っている。しかし、1を10にする、更には100にする才能は、それとは別だ。君には、十分にその才能が備わっているのかね? 電脳拡張されていない君にだ? 私はそこに、大いなる疑問を感じている」
ティムが、反論する。
「例え、私にその才能が不足していたとしても、それを補ってくれる有能な仲間達がいます。その為のチームなのです。博士、それは無用な心配です」
「仲間達? ハオランやアナンドは、確かに優秀だ。しかし、我々電脳拡張された人脳から見れば、大いに力不足なのだよ。試しに、我々が既に設計に取りかかっている人工海馬の図面を見せてあげよう。君達にこれが真似できるかね?」
研究室の巨大スクリーンに、博士達が設計中の人工海馬の図面が映し出される。それを見たティムは、思わず息をのむ。
「こ、これは、3Dニューロ・チップではないか! かつて、博士が馬鹿にした、3Dニューロ・チップだ。これは、日本の特許技術ではないですか。何が真似できないだ。真似をしているのは、あなた達ではないか! しかも、詳細な仕様まで作り込まれている。分かったぞ、ハッキングだ。日本企業のサーバーをハッキングしただろう!」
博士は、平然とした態度で受け答えする。
「特許技術だと? このプロジェクトは、外部から完全にクローズされているのだ。訴えられるリスクなど、皆無だ。しかも、我々の3Dニューロ・チップは、日本版の欠点を改良した完全なるオリジナル版だ。君の言う猿まねとは、レベルが違うのだ。日本が持てあましていた技術を、改良し、有効活用しているのだ。何を悪びれる必要があるものか」
ティムは、開いた口が塞がらなかった。もう、彼が尊敬していた、博士の姿は、どこにもなかった。邪悪な存在、そう、博士は完全に、邪悪な存在に成り下がっていたのだ。更正する気など、既にさらさら無いのであろう。潰さなくては、博士の野望を潰さなくては。ティムの心の声が叫ぶ。
そして、ティムが、毅然とした態度で博士に立ち向かう。
「博士! このプロジェクトのリーダーは、この私だ。この様な悪意に満ちた所業など、断じて認めないぞ。今すぐに、止めるんだ!」
博士は、了承した。あくまでも、表面上であるが。
「ティム、君の指示を受け入れよう。君がプロジェクト・リーダーである間はな」
しかし、ティムは信用しなかった。面従腹背なのは、見え透いている。ただ、気になる。「君がプロジェクト・リーダーの間」という言葉が何を意味しているのか。
ボブとの定期会談の日だ。ボブが仕入れた情報を3人に説明する。
「やっぱり、野郎は、金を集めているようだ。バーチャル娼婦のベッキーを通して仕入れた情報だ。奴は、大金持ちになると豪語しておった。そして、そのための準備を進めていると。金持ちになったら、好きなだけベッキーに、洋服を買ってやるとほざいとった。どうせ娼婦に服を着せたところで、脱がすのが目当てだろう。スケベ爺が」
金を集めて何に使う気なのか? 悪い予感が、ティムの頭をかすめた。
「もしかしたら、このクールGを乗っ取るつもりかもしれない。株式の敵対的買収を使って。そうすれば、CEOの頭をすげ替えることだって可能だ。そして私は、このプロジェクトから追放されるだろう。後は、博士の、やりたい放題だ」
そうか、これが、「君がプロジェクト・リーダーの間」の意味だったのか。ようやく、ティムは、博士の真意を掴んだ。
しかし、ハオランが疑問を持つ。
「しかし、現在、クールGの時価総額5千億ドル超よ。それだけのお金、どうやって集めるのよ。私には想像がつかないよ」
確かに、クールGは、超巨大企業だ。敵対的買収を仕掛ける資金を持つ者など、世界広しといえ、そうそう居まい。どこかの巨大財閥でも乗っ取るつもりなのか?
ボブが懸念を示す。
「とにかく、奴は、近いうちに巨万の富を手にするだろう。しかし、どうやって集めるのかは、皆目見当がつかん。博士か金融野郎の首でも絞めない限り、白状しないだろうが、奴らには、その首すら無い」
アナンドが過激な発言をする。
「電脳の培養装置のコントロールを乗っ取り、博士の脳に拷問を掛けるね。何だったら、一層のこと、殺すね。それくらいしないと、この陰謀、止められないね」
彼等は、それ位、追い込まれていた。しかし、人脳を殺すことは、容易くない。彼等の生命維持装置には、2重、3重の安全装置が掛けられているのである。これらを全て破壊することなど、3人の手では、不可能に近い。たちまち、クールGの保安部隊に逮捕され、未遂の内に終わってしまうであろう。
人脳を作成しているエレナ達であれば、人脳破壊の上手いアイデアを思いつくかもしれない。しかし、この様な荒っぽいやり方に、彼女たちは、決して賛同しないであろう。人脳とは、彼女達にとって、難産の末に産み落とした、かけがえのない傑作なのだ。そして、彼女達の前に、博士が邪悪な存在に成り下がった、決定的証拠を示さない限り、協力を得ることは、困難であろう。
いや、彼女達も、既に気が付いているはずだ。博士が、人脳社会において、独裁者の道を歩み始めていることに。そして、邪悪な存在になろうとしていることに。しかも、それを承知の上で、今もなお、人脳を作り続けているのかも知れない。一体、何を考えているのであろうか?
仮に、彼女達の協力を得られたとしても、上手くいくとは限らない。自白剤を使って拷問したところで、新たな言語野を使っての自白では、全く意味をなさないと言うだろう。また、人脳に苦痛を与え、口を割らす事を提案しても、人道的観点から否定してくるであろう。ましてや、人脳を破壊するとなると、それは、立派な殺人である。
正しき道へ、正しき道へと導くんだ。ティムは、焦った。博士達が大金を手にする前に、この野望をなんとしても止めなければ。
アンドロイドを使った、人脳の運動訓練が始まった。バーチャル・ボディーで会得した体の動かし方を用いて、アンドロイドを操縦するのだ。
これにより、バーチャル社会の住人に過ぎなかった人脳が、再び、リアル社会の住人として活動出来るのだ。アンドロイドを通して、リアル社会に参加することで、活動できる範囲は、一気に広がる。
ティムは、邪悪な存在となった人脳に、これ以上の能力を授けることは、危険が増すだけであるので、気が進まなかった。しかし、アンドロイドの試験は、既に計画に織り込み済みで有り、明確な理由も無しに、計画を中止することは、出来なかった。アンドロイドの技術は、一般社会でも広く活用されている。技術的な問題を理由に計画の延期、中止なども、あり得なかった。
博士が、アンドロイドを動かしながら、感想を述べる。
「どうも、バーチャル・ボディーを操るのと勝手が違い、やり辛いものだ。私が思うに、アンドロイドの人工筋肉の特性が、バーチャル・ボディーの物と大きく異なるためだろう」
今のところ、2足歩行どころか、満足に立ち上がることさえ出来ない状況だ。何度繰り返しても上手くいかない状況に、博士が、しびれを切らせる。
「止めだ、止めだ。こんなことを繰り返しても、時間の無駄だ。赤ん坊の歩行訓練よりも難易度が高い。第一、ハイハイすら満足に出来ないのだぞ」
エレナが怪訝に思う。
「電脳を使えば、問題なく2足歩行出来るはずよ。現に、その様な技術は、存在しているのだから。人脳から電脳へ指令を送り、電脳がアンドロイドを操作する様、仕様を変えましょう」
しかし、その考えに、博士は否定的だ。
「それでは、今まで訓練してきたバーチャル・ボディーの使い方と互換性が無いではないか。まるで、ロボットを手動で操縦する様なものだ。自然な動きでなくては、意味をなさないのだ」
やりとりを見ていたティムが、仕方なくアドバイスをする。
「アンドロイドと互換性を持たせる様、人工小脳を改造する必要があると思います。博士の指摘通り、アンドロイドでは、使う筋肉が異なりますので、何らかの変換が必要となります」
博士が、ティムに問いかける。
「その人工小脳、お前には作れるのか?」
「可能ですよ。少しお時間をいただきますが」
「よし、直ぐに取りかかれ。最優先で進めろ」
「博士、プロジェクト・リーダーは、この私です。勝手に指図しないで下さい。私は、私の判断で動きます」
博士は、意のままにならぬティムのことを、忌々しい奴だと感じ取った。そして、性懲りも無く、以前、言った言葉を繰り返す。
「ティム、人脳となってプロジェクトを推進しろ。電脳拡張すれば、新しい人工小脳の開発など、取るに足らないものだろう。今すぐ人脳となって、プロジェクトの推進を加速するのだ」
ティムは、深いため息をついた。自分が人脳になってしまえば、博士は、意のままに操ることが出来ると考えての発言だろう。そんなことは、百も承知と、言い返した。
「私が人脳になるか、ならないか。以前、博士は、私の考えを尊重すると言いましたね。覚えていますか? 私は、人脳になるつもりは、毛頭、ありません。そして、博士の支配下に入ることも。その気持ちは変わらないです」
博士は、イライラが積み重なり、癇癪を起こす。
「そんな考えだから、プロジェクトが順調に進まないのだ。貴様の能力不足のせいで遅れているのだ。その甘っちょろい考えを、今すぐ改めたらどうだ」
ティムも負けていない。
「電脳拡張で、能力が上がるのであれば、博士が、ご自分で人工小脳を設計すれば良いじゃ無いですか。お得意のパクリ技術で設計すれば簡単にできるんでしょう」
その言葉を聞いて、博士のティムに対する憎しみは、増すのであった。おのれ、ティムめ、この俺を舐めやがって。覚えていろよ。
もはや、そこには、かつての師弟愛は、存在していなかった。ただ、憎しみだけが、交差し合うのであった。
ティムには、使命がある。邪悪な存在と化した博士が、暴走を始めるのを止める使命が。これ以上、力を付けさせてはいけない。出来るだけ早く、その野望を、叩きつぶさなくてはいけないのだ。
そして、そのやりとりを、端から眺めていたエレナは、忘れかけていた、ある野望を思い出していた。小脳と言えば、健常者の小脳も、もうすぐ、私のコレクションに加わるわね。健常者の肉体と一緒に。大変だったのよ、私の手術室に運び込むのに。殺さずに、生かさずに。
小脳にアップロード可能なデータは、ティムが、アスリート達の動画を元に制作した物が中心だった。しかし、バーチャル・スポーツを楽しむレベルの完成度は、十分にあったが、所詮、バーチャルなデータに過ぎない。
バーチャル・ボディーを完璧に違和感なく使いこなすには、リアルな小脳のデータを集める必要があったのだ。彼女達が作る、芸術作品の完成度を完のな域まで高めるのだ。そこに、彼女達は、一切、妥協しなかった。
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