第六話 行政担当官は、常に人の話を傾聴する。
ロランドがまだ五歳だった頃のことである。
王国首都第十五幼年学校の年少クラスを担当していた女性教諭は、いつも穏やかな表情を浮かべている人だった。
彼女は母親のヤマファの次にロランドに多大な影響を与えた女性で、後になって思い返すとそれは彼の初恋だったのかもしれなかったのだが、無論幼少の頃の彼にはそんなことはどうでもよいことだった。
彼はただ、彼女のその穏やかで心地良い声を聞きたいと願っており、だからいつでも彼は真剣に彼女の言葉に耳を傾けていた。それが、今日の彼の性格の一部を形成する
ある日、その女性教諭の表情が珍しく曇っていることに、ロランドは気がついた。
「先生、大丈夫?」
彼が近づいて心配そうにそう訊ねると、女性教諭は苦笑しながらその場にしゃがんで、ロランドと目線の高さを合わせた。
「有り難うございます。心配させてしまいましたね」
「何かあったの?」
「そうですね――」
彼女は少しだけ眼を上に向け、何かを考えてから、また視線をロランドに向けて言った。
「ロランド君、ちょっと先生と約束して欲しいことがあるのだけれど、宜しいかしら?」
「はい」
ロランドは即答する。彼女はその素直さに少しだけ眼を細めた。
「その、これは私の勝手なお願いで、貴方にはそんなことを守らなければいけない理由は何もないのだけれど……」
そう言って
「僕は約束を必ず守る。そう父さんと母さんからいつも言われているから」
「そう、ですか。ならば、お願いしますね」
ロランドの生真面目な言葉を聞いて優しく微笑むと、女性教諭はこう言った。
「ロランド君は、外見だけでその人を判断するような大人にはならないで下さいね。お願いします。その約束をロランド君が守ってくれていると考えるだけで、私はこれからずっと『世界には違った考え方をする人がいる』と信じられるから」
「それだけでいいの?」
「はい、それだけでいいんです。でもね、これが意外に難しいことなのですよ。大人になるに従って、誰でもいつの間にか、どこかで得た知識から、先んじて人を判断するようになるものなのですから」
「そうなの? でも僕は大丈夫だよ。先生と約束したから、絶対に守るよ」
「そう――有り難うございます。それでは宜しくお願いしますね」
そう言って女子教諭はロランドを抱きしめる。彼女の身体が、その時僅かに震えていたことと、彼女の全身に生えている獣毛が顔をくすぐる感触を、ロランドは生涯忘れられない。
そして、その約束の翌日から、女性教諭の姿は学校から消えてしまった。
*
『軍人殺し』による急な酩酊で途切れた意識が、深海から水面にゆっくりと浮かび上がる潜水夫のように、現実世界に戻ってゆく。その
とても丁寧な手の動き――彼が病で伏せっている時の母のそれであり、幼年学校時代の教諭が彼の頭を撫でる時のそれである。
それを思い出してロランドは少しだけ切なくなったが、それはともかく、頭をこんな風に撫でる女性によって彼は人生を大きく変化させられてきた。しかもそれは、常に彼にとって好ましい変化だった。
久しく自分をそんな風に撫でてくれる者はいなかったから、ロランドはなんだか嬉しくなる。恐らくは酔いつぶれた自分を、ゴルディウスが自宅まで運んでくれたのだろう。茶の間で母が頭を撫でているに違いない。
そう考えたロランドは、無防備な声で言った。
「くすぐったいなあ」
(あ……ごめんなさい、すみません、ちょっと触り心地が良さそうだったので、つい)
ひどく狼狽した声が聞こえてくると同時に、ロランドの例の変な勘が働いた。目を閉じたまま、頭を即座に右にずらす。すると、左の頬を布のようなものがかすめてゆく感覚があった。
恐る恐る目を開ける。
視界の正面には、アリエッタの瞳があった。
どうやら自分は床に寝かされていて、さらにはアリエッタに膝枕をしてもらっているらしい。そこまでの状況を瞬時に理解する。
ついでにアリエッタの顔以外が布に覆われていることに気がついて、ロランドは少しだけ残念に思った。
(それにあの――危ないところをなんとかして頂いて有り難うございます)
確かに事実はそうかもしれないが、礼を言われるほどのことではない。彼が頭を動かさなければ、アリエッタの全身に隠されていた
それは今現在も、彼の視界の右側になんとなく見えている。彼の頭とアリエッタの足で布が抑えられていたから、やむをえず突き破って表に顔を出した――そんなところだろう。
(本当にごめんなさい……)
消え入りそうな――というより人族の可聴域から遙かに外れた声で、アリエッタが謝罪する。
それと同時に、棘が叱られた子犬のようにおずおずと沈み込んでゆくのが、ロランドには微笑ましかった。
「アリエッタさん、まだ少し頭がくらくらするので、もう少しだけこのままでいいですか? ついでに状況説明をして頂けると大変助かるのですが」
(あ、分かりました。でしたら、その……)
アリエッタの首筋にある
(……もふもふしていていいでしょうか。私の系統にはない感触が、凄く心地良いもので)
「はあ、こんなもので宜しければお好きなだけどうぞ」
彼の頭を優しく撫でながらアリエッタが語ったところによると、ロランドが酩酊した後、ヴィルヌイとゴルディウスはすぐに帰ってしまったという。
「しばらくしたら酔いが醒めて、目も覚めるはずだから」
ヴィルヌイはそう言い残していったという。アリエッタによると、現在時刻は就業時間から鐘二つ分しか経過していないらしい。
(こんなに早く酔いがさめるとは、思ってもいませんでした)
「驚かせてしまってごめんなさい」
(いえいえこちらこそ)
支払いはヴィルヌイとゴルディウスが済ませたという。新人歓迎会なのにこの有様で、ロランドはなんだか申し訳なくなった。
どうやらそれが顔に出たらしい。アリエッタが小さく息を吐いた。笑ったのだろうとロランドは解釈する。
(お二人とも、最初からロランドさんを酔わせるおつもりでしたから、申し訳ないとか思わないほうが良いですよ)
アリエッタがそうネタをばらしたので、ロランドは安心した。
それにしても、
「結局のところ、僕がどうして人事第六課に配属されたのか、よく分かりませんでした」
とロランドが言うと、アリエッタの手が止まった。
「あの、どうかしましたか?」
(あ、いえ、なんでもないです)
アリエッタはそう返答したが、内心は少しだけ動揺していた。
今日、ロランドは人事第六課の先輩達に対して、『私』という一人称しか使っていなかった。ところがベルファに対しては『僕』という一人称を使っていた。
その点から、「ロランドは相手との関係で自分の一人称を変える癖がある」と、アリエッタは大雑把に推測していた。
ということは、先程の『僕』発言から「彼がアリエッタとの関係を少し見直したらしい」という仮説が導き出される。それが妙にアリエッタを動揺させた。
「あの、やっぱり何か変なことを言いましたか? 例えば課長との話の中で、僕はアリエッタさんがどうして人事第六課にいるのか、なんて失礼なことを言ってしまったので、それを思い出して気分を害したとか」
そう言って、ロランドはとても申し訳なさそうな顔をする。
同属にはない、人事各課の所属員にもあまり見られない、このいかにも素直で実直な彼の特性が、アリエッタには少し
――ただ、それではこの先、少々生き難いのではないかと思うけど。
アリエッタは心に浮かんだそんな小さな疑念を、頭を振って打ち消す。
(いえいえ、そんなことではないのですが――でも、確かに気になりますよね、私が人事第六課にいる理由)
「はあ、まあ。課長は文書管理担当と説明してくれましたが、ちょっと言葉通りに取ることが出来ないな、と思ったものですから」
――あ、学習が早い。
アリエッタはロランドの適応力に驚く。こういった点が人事第六課配属となった原因の一つと思うものの、それは言わなかった。
彼女は小さく息を吐く。
(気になりますか?)
「はあ、何だかとっても気になりますが、アリエッタさんが話したくないことでしたら無理にとは言いません」
(そんな大層なことでは――いえ、大層と言えば大層かもしれませんが、聞いていただけますか?)
「はい、喜んで」
アリエッタは考えを整理するために一瞬だけ上を向くと、再びロランドに視線を戻して話を始めた。
(ロランドさんは蜥蜴系統の方をどこかで眼にしたことはありますか? 昼の話では初めてということでしたが、念のため)
「はあ、その、やっぱり記憶にないです」
(そうですか――では、それはどうしてなのか分かりますか?)
「どうして? 理由があるのですか? うーん、どうしてなんだろう。皮膚が乾きやすい点はあるかもしれませんが、アリエッタさんのように布でカバーできる訳ですし、眼が大きいところから太陽光が眩しくて日中は辛いということも考えられますが、これも何か保護メガネのようなものでカバーできそうですし……」
真面目に考え始めたロランドを見て、アリエッタは感心した。
こういう問いには、答えが既に用意されていることが多い。それは彼も分かっているはずだが、自分の頭で考えることを放棄しない。
しかも、蜥蜴系統の見た目の悪さというのは彼の想定には入っていないらしく、先程から物理的な困難さを検討し続けている。アリエッタの髪を撫でる手に、微妙に感情が籠もった。
そのことに気がついたのだろう。ロランドが言葉を切ってアリエッタを見上る。実に勘の良い男である。
アリエッタはこの瞬間、出来ることならば微笑みたいと本気で願った。
(……答えを言いましょうか?)
「はい、お願いします」
アリエッタの雰囲気を察したのだろう。ロランドが素直に応じたので、彼女は小さく息を吐いた。
(蜥蜴系統は、その身体的特性から人目を引きやすい――ありていに言ってしまえば嫌悪感を与えやすいので、外出をすることを意識的に避けています)
ロランドが何か言いたそうな表情になったが、アリエッタは頭を左に少しだけ傾けてそれを制した。
(もちろん、それだけではありません。蜥蜴系統があまりに人目に触れない理由――それは私達の身体的特徴が夜型の職業に向いているからです)
そう言いながら彼女は掌をロランドに向けて見せた。
(ロランドさんも蜥蜴族の掌と足の裏にある吸盤状の
「はい、大学でそう習いました。ただ、見るのは初めてです」
ロランドは、小さな鱗に覆われたアリエッタの掌の真ん中にある、そこだけ別な生き物のようにも見える柔らかな肉の襞を見つめた。
(これはどのように使われると聞きましたか?)
「その、『壁や天井を自由自在に動き回ることが出来る』という話でしたが――」
ロランドがここで珍しく
彼女は手を止めて言った。
(事実です。そして、世間一般に言われている『蜥蜴系統は夜中にあちらこちらを這い回って、情報をかき集めている』という噂も、完全に真実というわけではありませんが、嘘とも言えません)
アリエッタはそこで、ロランドの顔にマイナスの感情が表れていないことを確認する。彼はただ話の内容にだけ集中しているように見えた。
彼女は話を続ける。
(私達の中には、この特性を生かして夜間の諜報活動に従事する者が多数おります。
アリエッタが『森の兎』店内を見回す。
(私はここで働く予定だったのです)
「えっ、そうなんですか? どうしてその話の流れで飲食店勤務――あ、雑貨店勤務でしたっけ?」
ロランドが混乱しているところを見るのは少しだけ楽しかったが、そのままという訳にはいかない。
(あ、ロランドさんが知らないのも無理はありませんね)
アリエッタは言った。
(”森の兎”というのは、王国秘密諜報機関を指す隠語なのです。もっともその隠語自体を知っている者はごくわずかなのですけれど)
*
アリエッタが語った話をまとめると、こうなる。
蜥蜴系統の者として、アリエッタも幼い頃から隠密行動や諜報活動に関する修練を積んできた。壁や天井を這い回ることはもちろん、大きな瞳によって微弱な光を集め、物の形や材質を見極める訓練も行った。
彼女は同じ年代の中でも格別に優秀で、各種の修練を終えた暁にはヴェルシア王国諜報機関に就職することが、早くから内定していた。(ちなみにアリエッタの故郷はヴェルシア王国から遠く離れたところにある)
ところが、遠路はるばる王国までやってきて、通常の任命式とは別な場所(職務の性格や自分の声の届く範囲から、彼女はその扱いをやむをえないものと認識した)で配属の辞令を受け取ってみると、そこにはこう書かれていた。
「ヴェルシア王国総務省人事局人事第六課勤務を命ずる」
意味が分からなかった。
総務省人事局といえば明らかに常昼勤務である。自分に勤まるとは思えない。
その直後、別室に現れたのが課長に就任したばかりのヴィルヌイだった。
彼女はアリエッタが何かを言う前(もっとも、言ってもヴィルヌイには聞こえないのだが)に、それを
「アリエッタ・ノートン、貴方は夜のしじまに潜み隠れるようにして生きるべき人ではないと思う」
そんな、彼女の系統に対する全否定とも取れる発言をした後、ヴィルヌイが提示した仕事が人事各課の文書管理担当だった。
あまりの条件の変化に戸惑うアリエッタに対して、ヴィルヌイはこう畳み掛けるように言った。
「しかもただの文書管理ではない。これは貴方にしかできない、他の誰もまねのできない重要な仕事なのだ」
*
「その……文書管理がですか?」
ロランドの当たり前の反応に、アリエッタの鰓が僅かに震えた。
彼女も当時は同じような反応をしたからである。
(ロランドさんは瞬間視というのをご存知ですか?)
「はあ、聞いたことがあります。なんでも見たもの全てを記憶とどめる能力だと――まさか、アリエッタさんが?」
(はい、そのまさかなんです)
*
ヴィルヌイが話を続ける。
「貴方の実技試験結果に『瞬間視』という記載があった。それについて訊ねたいことがあるのだが、宜しいかな」
アリエッタは頭を縦に振った。
「了承頂けて嬉しい。それでは訊ねるが、君の瞬間視は単なる画像記憶なのかな。それとも見た内容を事後に抽出したり、並べ直したり、分析したり出来るものなのかな」
そう言いながらヴィルヌイは紙と筆記用具を机の上に置いた。アリエッタは正直に回答する。
(見たままを記憶した後、それを頭の中で回転させたり、保管場所を決めて任意に抽出することが出来ます)
その文字を見て、ヴィルヌイは満足そうな顔をした。
*
アリエッタはロランドの顔を見つめていた。
彼はひどく真剣な顔をしている。
しばらく視線をどこか空中の一点に置いていたかと思うと、再びそれをアリエッタに向けた。
「それは確かに課長の言う通りですね。諜報活動に従事するのもありですが、文書管理にはさらに向いているように思います」
(その通りです。私は最初のうち、なかなかそれを理解できなかったのですが、王国文書保管庫の中で人事関連の情報を管理するようになってから、やっとそれが天職であることに気がつきました)
アリエッタ自身はあまり自己主張が強いほうではない。
それゆえ、まずは見たままの情報を見たままに受け取る。
変なバイアスはかけないで、関連しそうな項目の中に紐付けて保存する。
すると、ともすれば見過ごしがちな些細な変化が、関連付けられて表に現れてくることがあった。
例えば、王国財務省会計局担当者の勤務実績と総務省人事局人事第三課員の勤務実績の中に現れる、偶然とは思えないほどに共通する休暇取得。
それだけであれば個人的な問題としてスルーしても良かったが、加えて王国から支払われた給与に対する課税記録の納税者人数と、人事局がまとめている王国行政担当官の総数との間の僅かな乖離が結び付くと、不適切な関係が露わになる。
要するに、会計担当者と人事担当者が共謀して、架空の地方軍勤務者が存在しているかのように数字を操作していた。
それを、異なる部署の勤務記録と異なる意味合いの合計表を関連付けることで、アリエッタは暴いてしまった。
(それによって二人の行政担当官が更迭され、未来を閉ざされました)
王国は実力主義であると同時に、正当な能力以外の方法で報酬を得ようとする者に容赦ない。
そこで少しだけ話が途切れる。
この話を聞いたものは大抵、
「どこでどんなふうに監視されているか分からない」
と考えて、漠然とした不安に陥る。
そして、別に何もしていない者であっても、なんとはなしにアリエッタのことを敬遠するようになる。
それが人間の防衛本能――リスクを回避するための自然な考え方であることは、アリエッタにも理解できる。
ただ、外見的特徴から人々の嫌悪を感じることには慣れたが、自分の仕事によって人から敬遠されることには、アリエッタもいまだに慣れていない。
特に、自分が大切に思う人にはそう思ってほしくはなかった。
最初からアリエッタの役割を理解していたヴィルヌイとゴルディウスは流石に顔色一つ変えなかったが、初めてこの話を聞いたロランドはどう思ったのだろうか。
そんなことを考えながら、アリエッタはロランドの顔を再び見つめた。
彼はひどく真剣な顔をしている。
しかし、その時は視線を動かすことなく、アリエッタに真っ直ぐに向けていた。
「それは――とても大変な経験だったね」
それだけの言葉を、いろいろなことを包み込むような調子で、ロランドは口にした。
それだけの言葉の、途方もない労わりの気持ちが、アリエッタの胸に染み込む。
(は、い。それは、とても、辛いことでした)
彼女は行政担当官になって初めて、人前で涙を流す。
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